遊牧夫婦

第9回 Uさんが残した財産

「8月5日に兄が亡くなりました。とても静かな顔で、まるで、寝ているようでした。」

高校時代の友人からそんなメールが届いたのは、まだバンバリーでの生活を始めて間もない2003年8月11日のことだった。
「兄」といっても、「友人の兄」としてちょっと知っているという程度の存在ではない。「兄」もまた、ぼくらと同じ高校で、2つ年上のバスケ部の先輩としてぼくは彼と知り合った。しかしその後、浪人時代に予備校で彼と同期になり、大学も同じ学年で同じ学部に入学したことによって、ぼくは、この「兄」と仲のよい同期の友人として付き合うようになった。その彼が、日本で命を絶ったというのだった。

何の前触れもない突然の知らせで、メールを読んでぼくはとても動揺した。ワンダーインのコンピュータースペースで、驚きのあまりしばらく呆然としていたことを覚えている。彼は、親しい友人という以上に、明らかに自分が大学時代にもっとも影響を受けた人の一人だった。なんといっても、ぼくが何年にもわたって海外で生活しようと思ったきっかけを与えてくれたのが、まぎれもなくその彼だったのだ。
ちなみに、先輩後輩から始まった関係で、ずっとぼくは彼を「○○さん」と呼び続けたので、以下、Uさんとする。

Uさんは、高校時代からオシャレで都会的で大人びた雰囲気をもった、とにかくかっこいい先輩だった。そのころは部活の一先輩後輩という程度の付き合いだったが、その時代から数年が経ったある日、思わぬところでぼくは彼と再会することになる。
それは、Uさんが高校を卒業してから2年以上が経っていたときのことで、ぼくはその何ヶ月か前――ちょうど阪神大震災が起きた直後で、地下鉄サリン事件が起きる直前の2月――に大学受験に失敗し、浪人界へ粛々とデビューを果たしたばかりのころだ。ぼくが通っていた駿台予備校の本拠地である東京・御茶ノ水の本屋「丸善」で、ばったりと出会ったのだ。

「おお、コンドー!」
と、軽快な口調と笑顔で呼び止められる。
黒く焼けた肌を、いますぐにでもインドに行ってしまいそうなシンプルで衣服に包んだUさんがそこにいた。彼がすでに、ある私立大学に入学していたことを知っていたぼくは、こんな浪人たちの巣窟で、参考書を片手に持った彼と会うことがとても意外だった。あれ、どうして......?と聞くと、

「おれ、大学やめたんだよ。カンボジアに行ってアンコールワットを見てさ、すごい衝撃を受けて、で、どうしても建築をやりたくなって。帰国してからすぐに大学やめてさー、いまは建築学科に入り直そうと思って、もう一度予備校通い出したんだ」

そう言って彼は、ブルーな浪人時代の黎明期をどんより過ごしていた自分とは全く異なる明るいエネルギーを漲らせながら、参考書を選んでいた。ぼくは当時、大学で物理学を真剣にやりたいと思っていたバリバリの理系ヤロウで、旅などにほとんど興味を持っていなかった。だから、「カンボジアでアンコールワット見てカンドーして大学をヤメル」という流れ自体が、ちんぷんかんぷんだったような気もする。
それからたまに予備校で会ったりしながら、ともに1年の浪人ライフを終えた翌春、ぼくらは同じ大学に入ることになった。本格的に彼とつるみだしたのはそれからのことである。

類は類を呼ぶのか、浪人は浪人を呼び、大学時代ぼくの友だちには一浪した同い年の人間が多かった。その中に、年齢的にはぼくらの2年上をゆくUさんも入っていた。
彼はただ年上であるという以上に、カリスマ的なカッコよさと陽気なキャラ、そして、豊富な旅と遊び体験に裏打ちされた確固たる豪快さと幅の広さがあった。

彼は、アジア、アフリカ、南米などを、数ヶ月から半年の単位で旅を繰り返し、とにかく旅が面白くすばらしいものであることを、色白でもやしっ子気味なぼくらに、全身で教えてくれた。また、彼は大学の授業にも手馴れたメリハリをよく効かせ、「試験が悪かったら、あとは政治力だよ。×○先生には菓子折りだ、がはははー」などといって、オトナのやり方があることを垣間見せてくれた(実際に菓子折りを持っていっていたかは不明だ)。とにかく、なんだか別格の魅力が彼にはあった。必然的にぼくらにとって憧れの存在になっていた。

97年12月、ぼくが「ストーカー時代」を無事に終えて、今度は楽しく前向きな旅行のためにその年最後のオーストラリアへ向かったときは、Uさんが他の友人とともに、ぼくを成田まで車で送ってくれた。車内には、ジミ・ヘンドリックスが流れ、軽快な走りでレインボーブリッジをわたって空港に向った。ぼくも、その数ヶ月前の悲愴感溢れるオーストラリアへのフライトとは打って変わって、今度ばかりは楽しいオーストラリア滞在だと、るんるんだった。

空港が近づいてくると、Uさんは、助手席に乗るぼくに「パスポート出しとけよ」と一言。すると、その直後、空港のパーキングの入り口で、係官が「免許証を」と言うか言わぬかのところで、Uさんはすかさずぼくのパスポートを係官に差し出した。すると係員は、パスポートを見て、「はい、いいですよ」と通してくれる。
通り過ぎると、Uさんがニヤリと笑った。
「おれ今日、免許証忘れちゃってよー。ここ、ヤバイなって思ってたんだけど、お前らに言うときっと動揺すると思って、言わなかったんだよ」

確かに、Uさんが免許を持っていなくて空港に入れないかもしれないことを知っていたら、この係官に対して、ぼくの眼は怪しげな平泳ぎを始めてしまったかもしれない。
いずれにしても、いつもそんな感じで、Uさんはどこかぼくらにはない余裕と貫禄を見せてくれた。旅で培ったらしいワイルドさと、都会的で洗練された華やかさが、いい具合に調和し、滲み出ている人だった。
ぼくが学部卒業前にインド行きを決めたのも、Uさんに行き先を相談したときに、「どっか一ヶ所っていうなら、インドかな。やっぱりインドは違うよ」と言っていたのが決め手となった。そしてそのインドでの経験が大きな引き金となって、ぼくはこの長期にわたる旅について考えるようになったのだ。
同様にUさんの影響で、長期の旅をするものがぼくらの仲間内には確実に増えていった。

しかし、そんな時代は無限には続かない。ぼくらにもだんだん学生生活の終わりが見え始め、その後どうやって生きていくかを考えなくてはいけない時期になっていく。自分自身、どうやってこの社会の中で生きていくべきなのか、何が自分にとって一番いい選択なのか。そんなことを日々のバカ話の中に交えて話すとき、Uさんは、たまに、こんなことを言っていた。

「旅をして生き続けることができたらめちゃくちゃ幸せなんだけど、そうはいかねえよなあ」

彼は本当に旅が好きだったのだ。

その言葉を聞きながら、確かにそんなことができたらいいよなあ、とぼくも漠然とは思っていたものの、実践しようとは考えてもいなかった。が、そのときすでに、Uさんと日々接する中で、旅がいかに魅力あるもので、また人をたくましく育てるものなのかを、肌で感じていたことは確かだった。Uさん自身の魅力が、そのまま、ぼくらにとっては旅の魅力と映っていたともいえるのだ。

しかし、皮肉なことに、そんなUさんを少しずつ別の方向に変えていったのもまた旅だった。

いつだったか、Uさんは半年ほどだったか南米にいって帰ってくると、明らかに様子が変わってしまったのだ。最初はただ旅の疲れか何かで体調が悪いだけかと思っていたが、言動がはっきりと今までとは違ったものになっていることにぼくらは気がついた。どうしたんだろう、と何度か尋ねたことはあったが、ペルーあたりでなにやら凄まじい経験をしたということを言うだけで、彼は決してそれ以上詳しく話そうとはしなかった。少なくともぼくにはそうだった。
そうしてだんだん、会話がかみ合わなくなっていき、たまに非常に緊迫した言葉を発するようにもなっていった末に、すっかり大学にも姿を見せなくなってしまった。その期間、おそらく数ヶ月のことだったと思う。

最後に彼と話したのは確か、2000年にぼくが大学院に入ったのちフィリピンに行こうとしていたとき、フィリピンについて何か教えてくれようとしたのか、突然電話をくれたときだった。詳細は思い出せないが、そのとき久しぶりに話したUさんは、やはり少し張り詰めた様子でぼくに何かを伝えようとしてくれていた。
そしてその同じ年のことだったはずだ。ついに彼は外界との一切の接触を絶ってしまった。
ぼくらの誰にも、Uさんに何が起こったのかはわからないままだった。

生前、彼の近況を最後に聞いたのは、それから3年後の2003年、東京で行なったぼくらの結婚パーティーの日のことだ。パーティーに来てくれたのUさんの弟に、「Uさんどうしてる?」と聞くと、
「じつは兄貴、近ちゃんのパーティーに参加するって言っててね、渋谷までは一緒に来たんだよ。でも、やっぱりやめるって、帰っちゃったんだ」

そして次に聞いた報告が、その5ヵ月後の、冒頭のメールだったのだ。

ワンダーインでの掃除の仕事を終えたあとに、そのメールを見て呆然としながら、ぼくは自分が知る彼のいくつかの姿を断片的に思い出し、もうその彼がこの世にいないんだ、ということを落ち着かない思いで繰り返し考えていた。

 キッチンで作ったパスタを夕食に食べたあと、ぼくはUさんの弟にすぐ返事を書いた。書きながらいろんなことを思い出した――。
「旅をしながら生きていきたい」と言っていた彼が、旅によって変わり、そしてこの世を去った。その一方、もともと旅にあまり興味もなかった自分が、彼と出会ったことをきっかけにこうしていま旅を生きようとオーストラリアで暮らしていることが、不思議だった。
そしてぼくは返事にこう書いた。

「(ぼくらの友人たちの)誰もがUさんの大胆な発想や生き方をどこかで自分と比べながら、どうやって生きていこうかって考えていたんだと思う。今現在の状況を見れば、おれはその中でもとくに、自分の生き方を考える上でUさんのことがいつも頭にあるんだと思っています。だからUさんには、言葉ではいえないような感謝の気持ちがあります。Uさんと同期で大学に入学して、ともにあの時代をすごせたことをとても幸運に思ってるし、そしてそれは、これからも間違いなく自分にとってはとてもとても大きな財産になるんだと思っています。」


人は何よりも、人との出会いによって変わっていく。そんなことをUさんと出会ったことによってぼくは感じるようになった。

そして、自分はUさんから得たものを身体に染み込ませて、この先、何年になるかわからない旅生活の中で、どのような日々を送り、どのように変わっていくのだろうか、と考えてみた。
しかし、どんな絵も浮かんではこなかった。そして考え直す。想像などできないからこそ、人は旅をするのだ、と。
きっとUさんも、同じだったに違いない。

お便りはこちら

プロフィール

近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。
オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。
旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。
疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

YUKI KONDO

バックナンバー