第11回 アマガエル色のバン
[起きる → イルカ → 宿で掃除 → 読む、書くまたはダラダラ → 夕食 → パブで一騒ぎ → 寝る]
そんなリズムの毎日が続くうちに、バンバリーでの日々はあっという間に過ぎていった。2003年も終わりに近づき、年の瀬感の全くない真夏の12月がやってくる。
2003年12月25日、クリスマス当日 |
そのころから、ハエが異常に増え始めた。オーストラリアの夏の風物詩である。
まるで空気の一成分になったかのようにハエがうじゃうじゃ、ブンブン飛び回りだすのだが、その鬱陶しさはハンパじゃない。特にぼくは、ハエに好かれやすいのか、ただ単に汚いのか、身体がハエの集会所となったかのようによくとまられた。30秒もほっておくと、5匹以上のハエが顔面でいっぷく始め、身体全体では常に20~30匹ほどのハエをとまらせていたような気がする。
ただ幸いなのは、オーストラリアは空気が乾燥しているせいか、日本のように、ハエといえばウンコ!的なイメージがないというか、ハエがそれほど汚げではないことである(実際にどうかはともかく)。
しかも、動きがとても遅く、飛んでいるやつをパシッと手づかみすることができるし、身体にとまっている輩を蚊のように叩いてしとめることもできる。また、みな小ぶりで、ぐちゃっとつぶれてもそう気持ち悪くない。
そのためついつい、自分の身体を遊び場とする連中をパシパシと叩き殺すのがクセのようになってしまった。イルカを眺めながら、ぼくはいつもハエを叩いていた。ただ、やっつけてもやっつけてもその数は減らない。
ある日のぼくの背中。ここだけで30匹以上 |
しかし一方、そんなことをしているうちに、2003年の残り日数だけは確実に減っていった。
クリスマスは、ボランティアたちとビーチでバーベキューやボディボードをして過ごした。そして年越しは、真夏日の中、地元ボランティアのショーンの家で仮装パーティーをし、庭で、ビール片手に肉片手に、数十人で騒ぎながら新年を迎えた。クリスマスも、新年も、やたらと暑かった。
年があけたころに、バンバリーはイルカを見るのにもっといいシーズンを迎える。
どこまでも無限の青さがつづく大空から、オーストラリアらしい強い日差しが照りつける。水の透明度は確か数十メートルほどになり、ビーチではフグやエイなどの小さな生き物もきれいに見えるようになる。
イルカがビーチにやってくる回数もぐっと増える。水温も上がり、水着の観光客も増え、白人もアジア人も、金髪さんも黒髪くんも、みな楽しげな笑顔を浮かべている(なぜかこの国では黒人はあまり見ない)。まさにぼくが最初にイメージしていたオーストラリアの海となった。当然、イルカと一緒に泳ぐスイムツアーへの参加者も多く、ボランティアもこの頃もっとも忙しくなる。
毎回10人程度のスイムツアー参加者とともにボートで沖合いに向かうと、イルカが後ろからボートのスピードに合わせて気持ちよさそうについてくる。ボートの作る水流を利用したイルカの遊びだ。
イルカたちはつるりとした流線型のボディで、音を立てずにスーッと水を切り開いて滑るように泳ぐ。そしてたまにバサッと音を立てて、大きくジャンプする。そんな様子をまずはボートの上から堪能し、イルカがたくさん集まっている場所が見つかるとボートを止めてみなで飛び込む。そうしてスイムツアーは佳境に入る。

水に潜ると、イルカの姿は見えなくとも、キューキューという鳴き声と、ジージーというソナーの音が聞こえてくる。その中で、ツアーを先導するDDCの職員が、うまい具合に身体を上下させたりして、近くにいるイルカの注意を引いておびき寄せる。そして気づくと、クリスタルクリアな水の中、周りには巨大なイルカが何頭も――なんていうことに。
毎回毎回、イルカを間近でのんびりと見られるわけではないが、本当に運がいい場合は、何頭もがゆっくりと自分の周りを泳いでくれることもある。自分の周りを泳ぎ、興味深そうに自分の方を見ているイルカの姿を見るとき、「イルカ? あんまり興味ないネ」などとうそぶいていたぼくでさえ、やはりイルカは魚とは違う、ビッグフィッシュは撤回だ、などと思うのだ。哺乳類としての親近感さえ感じられる気がした。
モトコは、他の多くのボランティア同様、スイムツアーに同行する仕事がもっとも好きだと言っていた。ボランティアは、参加者のちょっとした手助けをするために同行しているのだが、基本的には一緒に楽しんでいればいいのだ。そのときに見たいくつかの光景はいつまでも忘れられず、その記憶が頭をよぎると、いまでも彼女は幸せになれるようだ。
――3、4頭のイルカに囲まれて、1頭が顔をこちらに向けてソナーを出している。そのイルカの顔を間近に見て、ソナーの音を聞きながら、一緒にさらに水中深くへと潜ってみる。そして、ふと上を向くと、海面を照らしつける白い太陽の光の中で、大きな青黒い影となった2頭が、ゆっくりと泳いでいる――
ひとりのヨーロッパからの観光客がスイムツアーにたびたび参加しているのに気がついた。決して安くはないそのツアーに何度も参加する人は珍しいので、なぜかと聞くと、彼はこういった。
「初めて行ったときのツアーの感動が忘れられなくて」
そんなピークの日々は、同時にシーズンの終わりも予感させる。
そして年が明けると、いよいよボランティアの多くがバンバリーを離れるときがやってくる。ビースト系のナイスガイ・アーロンは、ドイツ人ボランティアのアナといい感じになり、一緒にニュージーランドに向かった。マシューとニコル、レミーとクリステルも、それぞれ自分たちのバンに乗って、まもなく移動を開始するという段階になった。多かった日本人ボランティアたちも、東海岸に向かったり、日本に帰ったりと、それぞれの行動を開始した。
ぼくらにとっても、バンバリーでの日々は半年を越えようとしていて、このシーズンが終わったらいよいよイルカと別れて、自分たちの旅へと出発することを決めていた。
半年も暮らすと、そこは旅先から徐々に住処へと変わっていく。離れがたくなるのは必然だった。しかしぼくは、それ以上にアジアを旅することへの渇望があった。そして夏がいよいよその姿を隠す3月には、バンバリーを出て旅を再開することを決めたのだ。そのころにはもう、日本を出て9ヶ月となる。あっという間に時間は過ぎていく。
定住と旅を繰り返そう、と漠然と考えていたため、バンバリーからの出発と移動は、旅であるとともに、次の定住予定地への「引越し期間」というイメージがあった。
次の定住予定地とはどこなのかといえば、中国だった。オーストラリアからは随分と遠い引越し先ではあるが、中国に行くことは、出発前から決めていた。
問題は、どうやってバンバリーから中国まで行くのか、ということだ。もちろん、ただ中国に着くことが目的ではないので、一気に中国に飛ぶということは考えていない。とにかく少しずつ北上して中国を目指すつもりだった。
そのためには、まずオーストラリア大陸を北へ縦断しなければならないが、この大きな大陸をどう北上するのかが、バンバリーでぼくらが決めるべきことだった。(バンバリーの位置は第6回の地図参照)
バスを乗り継いでいくか、自分で運転していくか、という選択肢が考えられた。バスの方が簡単には違いないし、自分で車を運転していくならば、当然、まず車を買わなければならない。買うとしたらもちろん、ボロボロでもできるだけ安いものを買うことになるが、故障したらどうするのか。ほとんど人もいないだろう荒野を何千キロにもわたって自分たちで走破するにしては、あまりにもぼくらは車について無知なことも確かだった。
しかし、自分で運転する上でのそのようなリスクを考慮しても、やはりバスで行くのは避けたかった。まず自由が利かない。それに何台ものバスを乗り継ぐ運賃は、自分で運転する場合に比べてずいぶんと高くつきそうな気がする。そして何よりも、出来ることならこの広大な大陸を自分の手で縦断したかった。
だからとりあえず、ぼくらは自分たちに買えるような車があるかどうかを見てみることにした。オーストラリアは車の売買も非常に自由で、車がごろごろ売りに出されているので、とにかくよく見て回れば、いいものに出会えるかもしれないと思った。特に、バンバリーのある西オーストラリア州は、その売買がとりわけ簡単なことで知られていた。
求めていた条件は、まず走ることと安いこと。そして、中に二人が寝られるだけのスペースがあること。予算の上限は4000ドル程度、30~35万円ぐらい。バスに乗って途中でいろいろ見ながら北上した場合の二人分の宿代、交通費と、車があった場合のさまざまな利点を考慮すると、それくらいまでなら車を買った方が得だと考えた。また、買うならその中で寝られる車じゃないと宿代がうかないので意味がなく、だからバンっぽいものを探す必要があり、そうなるとどうしてもそのくらいの出費は避けられなそうだった(テントがあればそうとは限らなかったのだが、なぜかこのころテントのことはほとんど二人のアタマに浮かんでいなかった)。
2004年2月、そんな条件のもとで手ごろな車を見て回り始めた。新聞などの広告を見たり、キャラバンパーク(車で旅する人が車を停めて寝泊りできるキャンプ場のようなところ)で売りに出されているものを試乗したり。ちなみによく話題に上ったのは、フォードのファルコンというワゴン車だ。1000~2000ドルぐらいのものがちょくちょく見つかる。そして、ワゴンなら後ろに寝れないこともないし......でもなあー、やっぱりバンの方がいいかな......、などとシミュレーションを続けた。
そんな中で、ぼくらはある一台のバンと出合った。
ボランティア仲間のイケメンスイス人のフローリアンが、住宅地の小さな路地に薄汚い姿のままポンと置かれた激安のバンを見かけたというのだ。
「1200ドルって書いてあったよ。もしちゃんと走るんだったらメチャクチャ安いよな。結構ボロボロそうだけど、売ってるんだから走るんじゃないかな......」
フローリアンはそういって、そのバンの置かれている場所を教えてくれた。
あまりにも安いので、期待はせずに見にいってみると、確かにそのバンは、本当にボロボロで廃車寸前かといった姿で、先が行き止まりになった路地の途中に、ポツリと停めてあった。
車体側面には大きな凹みがあってそこからさびが広がっている。ヘッドライトのひとつは割れている。フロントガラスには弾痕か? と思うようなひび割れもある。横の窓ガラスは、ひびをガムテープで補修してあり、中を覗くと、がらんどうの車内はホコリと土で埋め尽くされていた。そして、ハンドル周辺の機械はむき出しになり、ラジオも外見的には全く期待はできない。もちろんエアコンなんて優雅なものはないし、走行距離メーターは33200キロ少々となっているが、んなわけはない。何度もゼロに戻ったか、全く壊れているに違いない。イメージ的には20万、いや30万キロは走ってそうな貫禄だった。
かりにまだ走ったとしても、走りながらタイヤが外れ、屋根が落ち、気付いたら座席とハンドルだけになっていたというマンガのようなことがリアルに起こりかねない気がするほど、頼りない風貌だった。
しかしその一方で、アマガエルのような明るい緑色をしたシンプルな見た目は、なんともいえない愛嬌があった。それに、ぼくら二人が中で生活するのに十分な大きさがあるように見えた。これで旅をしたら、なんだか楽しそうではある。もし走るのであれば、乗ってみたいな、そう思った。
それは70年代のニッサンE20というバンだった。ぼくらは大きな決断を迫られた。

