第14回 オーストラリア大陸、ハットリバー公国のプリンス
バンバリーを離れて一週間ばかりが過ぎ、バンでの生活にも慣れてきつつあったころ、ぼくらは結婚一周年を迎えようとしていた。
その初めての結婚記念日の前の晩も、いつも通りに例のポップアップ機能で屋根を持ち上げ、風通しをよくして、狭いマットレスに横になった。頭をバン後方に向けて仰向けになると、汚れた後部窓ガラスの向こう側には果てしない空が、ぼんやりと見えてくる。この夜は、特に星が綺麗だった。天上にどこまでも続く黒い空間は、無数の白い光で満たされていた。
中学生のときにぼくは、真っ黒の夜空に張り付いているように見える星たちは、それぞれ「時間が異なる」ことを知って驚愕した。すなわち、1光年の距離にある星の姿は1年前のものであり、10光年向こうにある星は10年前の姿なのだ。月、太陽はそれぞれ1秒前、8分前の姿。また逆を考えれば、10光年向こうの星から見える地球の姿は、10年前のものということになる。その事実を知ったとき、ぼくは当たり前と思っていたことの全てが目の前から崩れ去るほどの衝撃を覚えたものだった。
バンでオーストラリアを旅するようになってから、ぼくは毎晩そのときの衝撃を思い出していたような気がする。それほどいつも、夜空は無数の異なる「過去」によって満たされていたのだ。
だがそれだけ星があるのに、いや、そんなに星があるからなのか、ぱっと見つけることのできる星座は相変わらずオリオン座ぐらいである。南十字星は何度も人に教えられながらも、自分で探してみると、一応はこれだろうというものが見つかるものの、いつも確信が持てなかった。一方、唯一自信を持って指をさせるオリオン座が、南半球のこの地では逆立ちしているのをみると、人間は北半球を中心に動いてきたということが急に説得力を持って迫ってくる。
狭いベッドの隣にはモトコが寝ている。バンでのこうした生活が始まってから、ケンカはさらに増えたような気がする。居住空間が狭いと確かにストレスが溜まる。妙に小さなことがケンカの火種になる。だが、この日は翌日が結婚記念日だったためか、さすがに平穏に過ごせた。まだ時間は早かったが、モトコはすでに気持ちよさそうな寝息をたてていた。
ぼくはその横で、夜空を眺めつつ、ぼんやりといろんなことを頭に思い浮かべていた。
次の朝、すなわち結婚記念日当日。目を覚ました場所は延々と地平線の広がる赤土の大地の上だった。だがそこは、これまで走り続けてきた西オーストラリア州の土地ではなかった。いや、それどころか、オーストラリアですらなかった。ぼくらは、西オーストラリア州の内部にある小さな独立国の中にいたのだ。
ハットリバー公国へ、未舗装の道を駆け抜ける |
バンバリーにいるときに、オーストラリア大陸にはオーストラリア以外にも独立国がある、ということを聞いて以来、ずっと興味を持っていた。本当なのだろうか、いったい誰がどうして、国として独立するなどという行動を起こすのだろうかと。
そんな疑問を自分なりに解き明かすべく、この前日、ぼくらはこの未知の独立国へと向かったのだ。ジェラルトンという町を出てから、大幅な寄り道になりつつも、隠れる場所のない強い日差しと暑さの中、未舗装の赤土の道を走り続けた。すると、地平線まで赤土と枯れ草しか見えない荒野に突然、
"BORDER HUTT RIVER PROVINCE"
という看板が見えてきた。すなわちここが、オーストラリアと、その独立国、「ハットリバー公国」との「国境」のようなのだ。興奮しないわけにはいかない。
国境を示す看板 <BORDER HUTT RIVER PROVINCE> |
とはいえ、その先にはまだ何も見えてこない。そして、相変わらずの荒野をさらにしばらく走ったあとに、やっと赤レンガの壁が見えてきた。一見、広い土地を持った農家の敷地ぐらいな感じだが、その中こそ、この国の中心部のようなのだ。
公国の「玄関口」。訪問時間は9AM~4PM。 |
「ようこそ!」と、迎えてくれたのは、くたびれた白シャツと、だらりとした黒のズボン姿のおじいさんだった。聞くとこの人物こそ、ハットリバー公国を統治する、プリンス・レナードなのであった。すなわち、すでに80歳を目前にしていたこの老人が、「王子」なのである。入国に際して、パスポートに"VISA"と描かれたスタンプも押された。が、入管職員がいるわけではないので、スタンプを押すのも王子自身だ。
マント着用のプリンス・レナード |
是非話を聞きたいとその老王子にお願いすると、「もちろんだよ!」と、軽快にOKしてくれ、翌日話を聞かせてもらえることになった。ぼくらは、東京の霞ヶ関全体をひとつの建物の中に押し込めてしまったようなコンパクトな国の心臓部のすぐ隣にバンを停めて、その夜を過ごすことになった。そして夕食には定番の炒め物を作って食べ、その後、先に書いたように夜空を眺めながら、眠りについたというわけであった。
繰り返しになるが、そうして翌朝、結婚記念日を迎えた。
起きて、この国の中を歩き回った。バンを停めてあるすぐ横には「政府」の建物がある。赤土の道をはさんだ向こう側には、王子の家、貯水タンク、レストランなどこの国の重要施設が並んでいる。ただどれも、じつに規模が小さく、王子の家などは、完全に田舎の「じーちゃんばーちゃんの家」といった風情だ。油断した服装の王子の妻、つまりプリンセスが、中で朝食を作っている姿が、網戸から透けて見えたりしている。
そして朝9時半ごろから、彼の執務室の横にある郵便局のオフィスで、この国の政治機能を一時麻痺させながら、王子はじっくりと、この国の成り立ちについて話し始めた。
事の始まりは、1969年に西オーストラリア州政府によって提示された「小麦販売量割り当て政策」だった。つまり、小麦の全体の生産量を調整するために、販売できる小麦の量を農家ごとに割り当てる、という政策だ。
当時、西オーストラリア州中西部のノーサンプトン付近で、小麦農家として暮らしていたレナード・キャスリーは、その年の10月、自分たちに与えられた割当量を見て驚いた。あまりにも少なく、とても生活をしていける量ではなかったのだ。何かの間違いなのではないかと州政府に抗議し、その不当性を訴えた。
だが抗議は届かなかった。その後も、なんとか手を打つべく動き回っていたが、そのころ州議会では、州政府に地方の土地を取り戻す権利を与える法案の通過も間もないように見えた。このままでは自分の土地まで取り上げられかねないという危機感を感じた。その結果、もはやこれしかない、として考えついた方法がオーストラリアからの「分離独立」だったのだ。
「国際法が定めるところによれば、自らの経済または土地が奪われる危機に瀕している場合、自らを守るために政府を作り分離独立することができることになっている。私たちは経済と土地の両方が危機にあったんだ」
突拍子もなく見えるこの発想を、彼は、法的に正当なものとするために、慎重に法律を検討した。彼にはそれだけの法律の知識があった。
そして彼はいよいよ、割当量の修正または相当なる補償がなされない場合は自分たちの土地を西オーストラリア州の管轄権から撤退させ、西オーストラリア州およびオーストラリア連邦政府からの独立を宣言すると州政府に通知した。
だが数ヶ月経ってもそれに対しての返事はなく、彼は分離を決行することにしたのだった。
1970年4月21日、レナードは、西オーストラリア州政府とオーストラリア連邦政府へ、分離を宣言する公式文書を送った。連邦政府は「それは西オーストラリア州憲法にかかわることで、連邦政府は関与できない」とし、州政府は「われわれは何も行動を取る気はない」とし、それに対して何もしなかった。もちろん、各政府とも独立を認めたのではない。誰もがこのような形で合法的に分離独立することなど茶番だと考え、本気で相手にしなかっただけなのである。
事実上、それだけだった。レナードはほぼ同時に国連と英連邦の一員となるべく申請を行い、その後徐々に国としての形を整え始めた。行政委員会を立ち上げ、レナードがその委員長に「選ばれた」。国旗も作った。法律については、一般に新政府ができるときに取られる方法、すなわち、分離独立前のすべての法律をまずはそのままにして法律の継続性を保ちつつ、新政権への移行に当たって必要な改変または削除を行うための法律だけを作り、それに基づいて、折を見て憲法、法律を新しいものに移行していくという方法が取られた。
加えて英国女王との関係性を考慮して、レナードは自らプリンス(キング=王ではなく)となり、ここにプリンス・レナードの治める「ハットリバー公国(Principality of Hutt River)」が誕生した。ちなみに「公国(Principality)」とは、王子(Prince)などが治める国のことを指す。
国土は75k㎡しかなく(といっても、東京でいえば、世田谷区と目黒区を足したのよりちょっと大きいぐらい)、またぼくらが訪れた2004年の時点で、国民は30人ほど(しかも確かすべて彼の家族だったような)だけだったが、その後いつしか、諸政府機関だけでなく、切手、通貨、パスポート、軍隊までを作るに至った。
公国の通貨「ハットリバードル」。 1ハットリバードル=1豪ドルで換算。 |
半ば冗談のような話であるが、プリンス・レナードの地位は法的に有効であることが認められている。その後、「オーストラリアに税金は払わない」とするプリンス・レナードとオーストラリア政府との間で税金や通信などについて議論がなされたが、政府機関の内部文書に「ハットリバー公国は法的に有効な存在であり、プリンス・レナードはオーストラリアの税制からも除外され、また公国のパスポートも有効である」との旨がはっきりと書かれている。つまりオーストラリア政府は、「ハットリバー公国」を公式には認めざるとも、法的には認めざるを得なくなったのだ。そして、オーストラリアはその後も、法的に極めて正当に独立を果たしたハットリバー公国に対して無視を決め込むことになった。
プリンス・レナードによれば、彼はハットリバー公国のパスポートで、実際に、ギリシャ、インド、レバノン、バチカンを訪れているという。「インドでは、空港から特別な扱いを受けたよ」と笑った。
プリンス・レナードは、全く不思議なおじいさんだった。とにかく陽気で、軽快で、旅行者へのサービスも怠らない。執務室でマントを着て、国旗の前で写真に収まったりもしてくれる。そして真剣にこうも語る。
「国の産業を観光業には頼りたくないんだよ。銀行やら、大学や、病院を作って、それによって国の経済基盤を作りたいんだ」
ただ、独立から30年以上経ったそのときも、どれも全く机上の話でしかなさそうだった。ハットリバー公国の経済というか、プリンス・レナード一家の生計というか、それは1万頭のヒツジと、土地の賃貸などによって成り立っているとのことだった。
このはちゃめちゃなじーさんは、1925年にオーストラリアで生まれた。家計を助けるために一四歳で学校を終えたが、その後働きながらも会計士を目指して勉強を続け、また長い間自ら数学や物理学も学んできた。そんな多方面への探求心が法律へも向かい、いつしか彼のその知識と好奇心は、オーストラリアという比較的新しい国の中で、さらに新しい別の国を生み出すまでに至ってしまったのだ。
ハットリバー公国に来て、ぼくは国という概念が極めて曖昧なものだということを強く感じるようになった。たとえば、なぜ日本は国なのかと考えると、それは国際社会の誰もがそう認めるからだ、としかいいようがないのではないか。日本が国であるか否かを最終的に決定する明確な基準があるわけではない。認めるか、認めないか。結局、国なんてそれぐらいのものでしかないのだ。
国とはいったい何なのか。そんなことを漠然と考えていると、そのそばでプリンス・レナードは軽快な口調でジョークを飛ばし続ける。そして陽気に語るのだ。
「国を治めるのなんて難しいことではないさ。人生で最も大切なのは、楽しむことだ」
その言葉の通り、彼には確かに、自分は人生を楽しんでいるのだ、という自信がみなぎっているように見えた。そしてその自信こそが、プリンス・レナードに独特の活力と魅力を与えていた。
最後に彼は、「もひとつ、写真かい? どうぞどうぞ」といった様子で、どデカい彼の顔の石像の横で、写真に収まってくれた。
そしてぼくらは、王子と、この小さな国に別れを告げた。まったく摩訶不思議な空間だった。
顔の巨大な石像とともに |
ハットリバー公国の入り口のゲートを出てしばらく走ると、いつしか再びオーストラリアの国土に戻っていた。北に向かって、カンガルーの死体がぽつぽつと転がる広大な荒野を再び緑のバンで走り出した。道も再び舗装路に戻った。その日の目的地としていたモンキーマイアまでは、まだ300キロ以上はあったはずだ。途中、後ろから白い煙が出て焦ったが、エンジンオイルを2リットル足すことでなんとか乗り切った。
ハットリバー公国(Principality of Hutt River)、そして、モンキーマイア(Monkey Mia)へ。 |
モンキーマイアもまた、イルカで知られる海辺の町だ。ぼくらはここで、バンバリーのときのボランティアの友だちと落ち合うことになっていた。ぼくらより先にバンでバンバリーを出発したオランダ人のレミーとクリステル、そして彼らのバンに乗って一緒に旅をしている日本人のチエちゃん。3人との久々の再会を楽しみに、いつ止まるか分からないエンジンの様子を伺いながら恐る恐る北上を続けた。
さて、しつこいようだが、この日は初めての結婚記念日。少しは夫婦らしくなったかを考えてみるが、何も変わったような気はしない。
でも、やっぱり無事に二人で1年を迎えられたことはうれしかった。
しかもこんな不思議な国で。
よし、モンキーマイアで、3人に祝ってもらおう――。
