第16回 ダーウィンに到着、バンを売り出す
激しい雨風の中で、旅の行く末を心配しながら一晩過ごしたものの、幸いにもサイクロンの進路はそれ、ポートヘッドランドには来ないまま内陸に向かった。雨風もそこまで強くはならず、朝にはすでに静けさが戻っていた。レッドアラートが出ることもなく、バンもひどく濡れた以外は無傷で朝を迎えることができたのだった。
よかった・・・・・・とホッとすると、頭はすぐに「よし、出発だ!」と切り替わる。が、キャラバンパークのレセプションの人いわく、「道はまだ間違いなくふさがっているよ」。サイクロンが完全に通過したあとに、何百キロにもわたって道路の状態を確認する作業があるので、とても今日は無理だよ、と。
意気消沈とはまさにこのことで、がっくりしたぼくらは仕方なくもう一泊我慢して、テレビ&買い物の退屈な1日に甘んじた。夕食も、2日前の肉じゃがを腐る前にいただくというスタイルで、質素な1日に仕上げた。
夕方から再び雨が降り出して、大丈夫かなと気になったが、翌日ついに道はひらけた。せき止めていた水が一気に流れ出すように、キャラバンパークから何台もの車が出発し、ぼくらのバンもその群れとともに、一目散で逃げるようにこの町をあとにした。
ポートヘッドランドから600キロほど北東には、ブルームという大陸北西部を代表する都市がある。ここまでくるといよいよ大陸西部は縦断しきった感があり、一つの大きな区切りとなる。ブルームまでの道は大陸北西部の沿岸に平行に延びる。とはいえ海が見えるわけではなく、これまでと同じく地平線のみの退屈な直線道路なのだが、この日ぼくらは、ある区間での特殊な風景に驚かされた。雲と晴れ間との境目が、ぴったりと道路に沿ってできていたのだ。
すなわち、道の右半分から視界の右側全体が、見わたす限りの曇天と水没の大地なのに、道の左半分から左側は果てしない快晴というとても不思議な光景の中を走ることになった(前回の最後の写真参照)。ちょうど、ドラマのどしゃ降りシーンの撮影現場にでもいるようだった。監督が右手を上げて「はい、雨、お願い!」と叫んでいるかのような。
また、連日の雨の恵みでエネルギーを蓄えたのか、バッタも大賑わいで、大ハッスル。しかしはしゃぎ過ぎた末にビシバシとバンにぶつかり一瞬にして屍に変わる姿は、歓喜のシーンがたちどころに惨劇に変わる好例を示していた。浮かれたときこそ、もっとも気を引き締めなければならないのである。
この日宿泊予定だったビーチへの道が閉ざされていることを知り、途方にくれる場面も一瞬あったが、それならばと一気に600キロ、ブルームまで爆走した。
夜7時半。到着すると、久々の賑やかな街らしい風景にうれしくなった。ブルームは人口1万数千ほどの小さな町に過ぎないが、このあたりでは紛れもない大都会だ。
都会らしさに喜んだ末にマクドナルドに飛び込むというのが、ぼくらの旅のなんたるかを示しているが、マックの駐車場には、ポートヘッドランドで一緒だったドイツ人カップルもいた。美男美女カップルで、特に彼氏の方は、キンパツ&ロンゲにトムクルーズばりのマスクというハイレベルなワイルドイケメンなのだが、なぜか話す様子はネズミを思い浮かばせる非常に不思議な男だ。が、ここでいいたいのは、きっと彼らも到着祝いはマックだったのだろう、ということだ。
ブルームでは、バンで旅をする多くの人がしばしの休憩を取っていた。ぼくらもここには一週間ほど滞在して、道中で知り合ったバン仲間たちと飲んだり、連載の原稿を書いたり、町をぶらぶらしたりして過ごした。
一方、ぼくはブルームの町には前から興味を持っていて、滞在中は、詳しく知るべく、いろいろと出かけて回った。というのは、ここは日本人にとってちょっと特別な町だったからだ。
ブルームは、古くから真珠貝採取業が盛んで、19世紀末ごろから多くの日本人が潜水夫や商人として暮らしていた。一時は、人口5000人のうち4000人が日本人だったという話をきいたこともあり、町には大きな日本人墓地もあった。この町には、日本人の生きた痕跡が色濃く残っていた。
ブルームの日本人墓地。707基919名の墓碑があるとのこと。 |
ぼくはブルームについても何か書ければと思い、図書館などで情報を集めたのち、いきなりだったが、電話帳で見つけた2人の日本人らしき名前の人に電話をかけてみた。
するとひとりにつながった。突然の電話で用件を話すと、不振がられながらも、それならこの人に話すといい、と別の人を紹介してくれた。そしてその人にかけなおすと、それは30年ほど前からブルームで真珠養殖の仕事についている人物だった。一瞬、ブルームの歴史と自分がつながったような気分になる。
だが、会って詳しい話を聞きたいとお願いすると、彼は言った。
「朝6時から午後3時半まで船の中なんだよ。その後は、疲れて話をする気になんてなれないよ」
同じような仕事をしている日本人は他に4人いるというが、彼らの連絡先については「迷惑をかけることになるから」と教えてもらえなかった。
「いったいなんなんだろう、この男は、いきなり」と思われていたことは間違いない。そして、ぼくは自分でも、そりゃそうだよな、と思ってしまうのであった。
このようなお願いをして、いやな顔をされることはこれまでも決して少なくなかった。そしてそのたびに、相手の言葉に抗してお願いするだけの何かを自分は持ち得ていないことに気付かされた。ぼくは、自分が何かを書くために人にわざわざ話をしてもらうということに対して、どうしても積極的になれないところがあった。
自分がいっちょまえな顔をして、何を聞くのだろう、そして、何が書けるのだろう、と躊躇している自分をいつもどこかに感じていた。それは取材して書くという行為に常に少なからず付きまとう問題であるが、それ以上に、ぼくはこのとき、自分が文章を書くことの意義を十分に見出せていなく、また、書く事に対してのプロ意識をもてていなかった。これが自分の仕事だと、自信を持っていえるレベルでは全くなかったのだ。
いずれにしても、ブルームで始めようとした取材は、結局何も形にならず、煮え切らない気持ちだけが後に残った。
ブルームを出たあたりから熱帯らしさはますます増し、暑く湿った空気が肌に絡みつくようになった。同時に、肌の真っ黒な、いわゆるアボリジニーたちの姿が格段に多く目に付くようになってくる。ブルームから東に700キロほどのホールズクリークでは、特にそれを強く感じた。しかし、警察や役所、さらにはスーパーの店員など、建物の中で仕事をしている人はほとんどが白人であるという印象を受けた。それは一見、白人がアボリジニーを管理しているといったように見えなくもなかった。
これまで知っていたオーストラリアとはかなり異なる雰囲気をぼくは感じていた。その一方、ガソリンスタンドで白人の小さな女の子に「Do you have money? ――お金くれない?」と声をかけられたことにも、軽く面食らってしまった。
ホールズクリークを出てさらに東にいく途中には、アボリジニーの人々が暮らす集落もあった。町から離れ、生きるのがいかにも過酷そうなアウトバックにそれはあり、荒れてうらびれた様子が伺えた。人の姿もまばらな中、"No Photo" "No Alcohol"(写真、アルコールは禁止)と書かれた標識が見え、彼らが外部とは隔絶されて暮らしているという印象を受けた。アボリジニーは白人から不毛な土地ばかりを与えられた、という話を聞いた記憶が蘇る。
旅行者がふらりと入っていける様子には見えず、アボリジニーの人々に対して何か明確な意見や問題意識も持っていなかった自分たちは、立ち止まって彼らと話してみるということすらもできない気がして、ぼくらはその場所をさっと通過した。が、そこを通過しながらまた、ぼくは結局、彼らの問題と向き合おうという気持ちがないだけなんじゃないかと考えたりもしていた。
日本を出てライターとして活動を続けているつもりながらも、ほとんど思ったように記事が書けていないことにぼくは焦っていた。オーストラリア生活もすでに10ヶ月近く経っていたが、書いたのは隔月連載の短編人物ルポ4回分だけだった。英語力がまだ不十分だったとか、バンの日々は移動続きでなかなかじっくり取材ができないとか、そういう言い訳もあったけれど、もっとも問題だったのは、自分自身にまだ、文章を書いて食べていくという決心、あるいは覚悟のようなものが十分になかったことだ。
果てしなく思えるオーストラリア大陸の上でハンドルを握り、その広大さに圧倒される一方、ぼくはいつもそんなことを考えていた。自分にはこの旅を生活とし、自分にとっての「何か」にするだけの覚悟があるのだろうか、と。
バンの旅が終盤に近づくにつれて、そんなもんもんとした気持ちは強くなっていったが、
バンは快調に走り続け、ぼくらはいよいよ西オーストラリア州から大陸北部中央を占めるノーザンテリトリーに入った。
あとはゴールのダーウィン目指して北上あるのみ。が、このあたりはダーウィンの周囲を固めるように道中に国立公園やらが複数点在する。広大すぎる大自然に少々食傷気味になりつつも、せっかくだからと、あれば寄って自然を愛でた。
ある日は、アボリジニーの古い壁画がひそむ峡谷でカヌーを漕ぎ、別の日は、たびたび再会していたレミーとクリステルと一緒に、国立公園のキャンプ場でバンを並べて泊まり、手持ちのわずかな光と月明かりの中で、夕食を作って話し続けた。またある日は、静かな森の中を流れる渓流に浸かりながらゆっくりランチという優雅なひと時を堪能した。
カカドゥ国立公園。ダーウィンのそばにあるオーストラリアを代表する 国立公園。広さは四国と同じくらい!豊富な自然で知られる。 朝のボートクルーズより。 |
これもカカドゥ国立公園。植物も動物もかなり充実。 ちなみに驚いたのは、公園の入り口の門から客を迎えるビジターセンターまで、 なんと85キロもあったこと! |
カカドゥにも、超凶暴なイリエワニ(Saltwater crocodile)が生息。 食べられた人間は少なくなく、今年11歳の少女が犠牲になったことが オーストラリア中にショックを与えた。大きいものでは7mにもなる! 写真はボートから。 |
ブルーム(Broome)、ホールズクリーク(Halls Creek)、 カカドゥ国立公園(Kakadu National Park)、そしてダーウィン(Darwin)! |
そうして峡谷や滝の間を抜けて走り続け、4月14日、ついにダーウィンに到着した。
到着直前、安いガソリンスタンドが見つからず、ギリギリまで我慢して走り続けた。が、トイレに間に合わない少年のように、やはり市内まではもたず、もう限界だと入ったスタンドになんとunleaded(レギュラー)がなかった。仕方なくlead super free(ハイオク)をいれざるを得ず、結局高くつくというマヌケなことになってしまったが、大都会ダーウィンには、だから、期せずしてリッチにハイオクの排気ガスをブンブン吐き出しながら乗り込むことになったのだ。まさにゴールにふさわしい。
バンバリーを出て42日。3000~4000キロと思っていたのに、実際の走行距離は7000キロを超えていた。ぼくらに過酷な労働を強いられ、ムチを振るわれて、たびたび体調不良を訴えたこのバンも、なんとか無事にゴールまで走りついてくれたのだ。
通り沿いにはヤシの木などが並び、見かける植物は丈も葉っぱも大きくて緑が濃い。そのような熱帯らしい生命体に囲まれたこの街のキャラバンパークに行ってみると、知り合ったバン仲間が多くいた。ゴールを祝い、その晩は、彼らとみなでビールを飲みながら遅くまで話し込んだ。が、翌朝、起きて屋外のキッチンに行ってみると、置き忘れた鍋の中の炊き込みご飯の上では、無数のアリたちが昨晩のぼくら以上のどんちゃん騒ぎを楽しんでいた。
さて、ダーウィンに着いてしまえば、残るミッションはバンを売ることだ。たった2ヶ月程度の付き合いだったが、情緒不安定で駄々っ子なこのバン、ハーキーへの愛着は、並々ならぬものになっていた。家でもあり、足でもあったこのバンを、しかしいまは再びお金に換えなければならない。
もともと900ドルで買ったこのバンだったが、大陸縦断中に知り合った他のバン旅行者たちの購入金額から考えるとかなりの掘り出し物であったことは間違いない。相場から考えると、2000ドル以上にしても売れそうな感触だ。なんと言っても、ポップアップがあるのが大きかった。
そうして値段を考えるうちに、売り値は2800ドルに決まった。ちょっと欲張りすぎかな、という気もしたが、十分にそれだけの価値がある気もした。
ノートパソコンで広告を作って印刷し、安宿やインターネットカフェなど、旅行者が集まりそうな場所に貼っていく。バンの窓にも「売り出し中」という紙を貼って、街なかで駐車するときも宣伝に努めた。
バン・車の広告は、安宿などに多数貼られていて競争は激しい。 手前の"Green Van for Sale"がぼくらの広告。連絡先を 書いた部分をちぎれるようにして下に配置するのが定番。 |
また、少しでもバンをきれいに見せるために、さびている部分などに塗料を塗ることにした。同じアマガエル色を求めてニッサンの店舗で尋ねたりするうちに、運良く、まさにこの色、"c661"を調合してくれる専門店が見つかった。「さあ、帰ってこれを塗れば準備万端だ」と、ぼくらはその専門店のそばで、またマクドナルドに寄って幸運を祈り、ハンバーガーを頬張っていた。すると、早速、携帯電話に連絡がきた。
「まだ、バンは売れてないかい?」
ラッセルというイギリス人からだった。それは広告を張った次の日のことで、予想以上に早々と連絡が来たことにぼくたちは喜んだ。やはり2800ドルという値段は悪くないのだと納得し、それから急いで泊まっていたキャラバンパークに戻り、バンの掃除に取り掛かり、買ったばかりの塗料を要所要所にスプレーで塗っていった。
スプレーで塗装中。この緑のほかに白も買って、 赤く錆びた後ろのバンパーなどを美化。 |
そして翌日、待ち合わせ場所のユースホステルの駐車場に行った。なかなかやってこないラッセルに電話をかけると、30分ほど遅れて、だるそうに、「ごめん~」とやってきた。いかにも慣れた長期旅行者風なゆるい雰囲気の若者だった。
できればこの一回で決めてしまいたいと思っていた。いかによさを分かってもらうか、いかに外見のボロボロ感をごまかして見せるかを考えたが、結局大した策も練ることはできず、簡単な説明をしただけであとは彼が自分で各部分をチェックした。そのチェックの仕方を見ると、「コイツ、できるな!」と思わせる雰囲気だったが、ただのハッタリだった可能性も捨て切れない。いずれにしても彼は、たった10分ほど見回しただけで、試運転もせずにあっさりと引き上げてしまった。「だいたい分かった、3時間後に電話するよ」と言い残して。
そして電話がかかってきた。期待して彼の決断を聞くと、
「1500ドルなら買うよ」
とラッセル。「なにいってんだ」と心の中で叫び、安物扱いしやがって、と思ったが、実際の価値を見透かされているような気もして、動揺した。でもさすがにいきなり2800ドルを1500ドルまで下げる気はしなかったし、それは無理だ、というと、
「じゃあ、仕方がない。またな」
とラッセルはあっさり電話を切ってしまった。ちょっとがっかりしながらも、まだ一人目だ、と余裕をかましてみたが、それが想像以上の長期戦の始まりを告げることになったのであった。
