第17回 60年前の日本人捕虜暴動事件
それから毎日、電話を待った。1日か2日に一度はかかってくるのだが、みな実物を見ると、ウヘ、これはちょっと......、といったニガい顔になる。試運転までいってもギアの位置などから運転のしにくさだけが印象に残ってしまうのか、買うところまではどうしても話が進まない。
ぼくらにとっては、見慣れて愛着を感じる傷やへこみ、そして機械のむき出しっぷりも、初めて見る人にとっては、ボロボロ以外の何モノにも見えない。値段を2800ドルから少しずつ下げていったものの、状況はそれほど変わらず、そうしているうちに、バンの調子が悪くなってしまった。
エンジン音がおかしくなり、白い煙を吐き出すようになり、ライトが一つ点かなくなり、しかも、走るとボンボンと上下にバウンドすることも......。アクセルが踏み込めなくなることもあり、ここにきて妙な現象がテンコ盛りになった。まとまった仕事が終わって疲れがどっと出た感じだ。疲労困憊、満身創痍、顔面蒼緑。とても売り出し中とは思えない状態になりつつあった。
ヤバいぞ、と頭を抱えている間にも、電話はジャンジャン、というほどではないがかかってくる。壊れちゃってね、ともいえないので、とりあえずさわやかに応対し、その合間をぬって修理工場に持っていった。するとエンジンに問題があることが判明して何時間か工場に預けて修理をしてもらうことに。
そうして久々にバンなしで、自分の足でダーウィンの町を縦横無尽に移動していると、再び携帯が鳴った。出るとなんと、最初に電話をくれた風来坊のラッセルくんではないか!もう一度バンを見たいからいま会おう、と。予想通りに、ヤツが泣きついてきた形になったわけだが、これ以上ないほどのバッドタイミング。正直に事情を話して一発アウト。それで彼とも今生の別れとなったわけである。
気を取り直して午後、修理工場に戻ってみると、エンジンは一応直っていた。だが、どうなのよ、と修理工のおっさんに状態を聞くと、彼は、顔に無数のしわを寄せ、服に油を染み込ませ、人生の酸いも甘いも知り尽くしたような微妙な笑顔で、ぼくの肩にバシッと手をのせてしみじみとこう言うのだ。
「このエンジンは、本当に疲労しているよ......」
メカを愛するものが、酷使されすぎたエンジンを心から哀れんでいるといったまなざしで、おっさんはぼくを見つめた。もう寿命だよ、休ませてあげなさい、と。
でもぼくらとしては、どうしてもこのバンを売らなければならなかった。とりあえず直ったのであれば、心を鬼にして、ハーキーにムチ打つしかなかった。買う方も、それぐらいのリスクは常に覚悟しているはずだから、と......。そしてその期待に応えてくれたのか、あきらめきったのか、ハーキーはその後、再び軽快な音を出してダーウィン市内を走ってくれるようになった。
そんなこんなで、毎日、新たな電話を待ったり、バンを見せに行ったり、また、皮算用してぬか喜びしたり、落ち込んだりするのがダーウィンでの一番の仕事だった。
バンにも直接ビラを貼って、街なかでも売り出し中をアピールしたものの...... |
が、その一方で、ぼくはもう一つ全く別な作業を進めていた。なんとかこの国を出る前に何かを書かなければという気持ちがボルテージを高め、その焦りをエネルギーに、ひとつのルポルタージュを書き進めていたのである。
カウラ(Cowra)はシドニー(Sydney)の約300キロ西にある |
ダーウィンの町に着いたころにぼくは、ふと一つ書けそうなテーマを思い出した。それは、この9ヶ月ほど前、まだバンバリーにも着く前に、シドニーのそばのカウラという小さな町で取材していた内容だ。1944年、カウラにあった捕虜収容所で起きた日本人捕虜暴動事件についてのことである。
なぜそんなことを、いまさら思い出したのかといえば、この事件がじつはダーウィンと少なからぬ関係を持っていたからであった。そうだ、あの男の物語は、ダーウィンから始まったのだったと、記憶が蘇った。
その男とは、第二次大戦中の1942年2月19日、日本軍がダーウィンを空爆にやってきたとき、ダーウィン近海の島に墜落した零戦のパイロットである。パイロットは顔面に怪我を負ったものの命に別状はなく、その後捕まってオーストラリアでの日本人捕虜第1号となった。そのパイロットこそが、カウラで起きた日本人捕虜1100人以上による暴動事件のときに、中心的な役割を果たした男だったのだ。
墜落後に捕捉されたときの零戦パイロット・豊島一。捕まってからは「ミナミタダオ(南忠男)」と名乗っていた。(ダーウィンの航空歴史センターの展示より) |
ぼくはここダーウィンでこそ、この話をなんとかしてひとつの文章にまとめられるような気がした。これを書いて、オーストラリアを締めくくろうと思った。この年、2004年が、ちょうど事件から60年という節目であることも悪くないタイミングだった。
バンの買い手からの電話を待ちつつ、暇を見ては州立図書館に通い、資料を調べ、その構想を練り上げていった。
そしてある日、その零戦パイロットのことを考えながら、ぼくはひとつの電話番号に電話をかけようとしていた。
それは日本にいるひとりの老人へつながるはずだった。同じく1942年、先の零戦の4日前に、飛行艇でダーウィンの近海に墜落し、零戦パイロットと同じカウラの収容所で捕虜生活を送ることになった人物である。
大きなショッピングセンターの中の、ガヤガヤと落ち着かない公衆電話。その受話器の向こうに、老人の穏やかで元気な声を聞いたとき、ぼくは人生の不思議さを改めて感じていた。
ほぼ同時に、同じように墜落して、同じ収容所で生活を送った2人のうちのひとりといま自分が電話でつながっている一方で、もうひとりは60年前にすでにこの世を去り、自分にとっては歴史上の人物となっていたからだ。
その2人の運命を分けた出来事こそ、先に書いた、シドニー郊外のカウラの捕虜収容所で起きた日本人捕虜による暴動事件だった。
1944年8月5日午前2時、雲ひとつない透き通った空の下、突撃ラッパを合図に、捕虜となっていた1100人以上の日本兵が最後の決起へと立ち上がった。そして、231人の日本兵が、自ら命を絶つか撃たれるかして死に、オーストラリア兵も4人死んだ。
そのとき合図の突撃ラッパを吹いたのが、ダーウィンを空爆したときに墜落し、捕まった時から「南忠男(ミナミタダオ)」と名乗っていた先の零戦パイロット、豊島一海軍一等飛行兵だった。彼はその夜、胸に何箇所も弾を受けたあと、走り抜ける力を失って排水溝まではっていき体を休ませた。ポケットから煙草を取り出して火をつけたが、その後、自らまたは誰かがその喉を切り、息絶えた。
いま受話器の向こうにいる老人は、暴動の当日、少し遅れて突撃に加わった。外に出て行ったときには、すでに目の前に20~30人の動かぬ体が横たわっていた。その中に友人の姿を見つけ、「自分の胸を突いてくれ!」と叫ぶ彼のそばで「死んだらあかん!」といってその場にとどまった。空が薄明るくなりかける中、サーチライトで照らされながらの銃声が続き、2時間ほど後にそれは止んだ。満月と寒さと沈黙だけがその後に残った。
豊島が死を選び、そして受話器の向こうの老人、高原希國(まれくに)氏が生き抜くことを選んだその日から、このときすでに60年の月日が経とうとしていた。
カウラは東西に延びる一本のメインストリートを軸とする小さな町だった。その中心から数キロほどの北にある収容所跡地へ行ってみると、そこは一面に緑の広がる草地となっていた。当時の建物の跡と思われるコンクリートの土台が所々に見えるその静かな大地で、半世紀以上前のその事件の様子を想像することは決して難しいことではなかった。ひと気のないその寂しげな空間の前で眼をつぶると、このあたりを、バット、ナイフ、フォークなどの「武器」を手に駆け抜けていった日本兵たちの姿が見え、声が聞こえるような気がした。
カウラの捕虜収容所(POW Camp)跡地。ちなみにPOW=Prisoner Of War |
ぼくはカウラで、観光案内所、役所、新聞社、図書館、退役軍人クラブなどを尋ね回って得た情報を元に、会える限りの人物に会った。だが、事件に直接関わった人は、すでにカウラにはいなかった。
「今となっては、多くの人にとって事件はただの歴史となってしまったんだ」
戦後、事件と強く関わってきたトニー・ムーニーはそういった。60年というときはやはり短くはない。
しかしその一方で、この事件はいまもオーストラリアでは、戦争史上最大級の脱獄事件として、また、日本人の考え方を理解する上での実例として、かなり知られている。「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」を刻み込まれた日本兵たちにとって、捕虜でいることの恥辱は死よりも重いものだったのだ、と。
事件についてオーストラリア側から書かれた本の中ではおそらく最も詳しい『VOYAGE FROM SHAME』(1994年)の中でも、著者のハリー・ゴードンは、「激しい恥辱の思いがいよいよ耐え難いものになってきて、それが1100人もの日本人捕虜たちを集団狂気へと導いた」と書いている。
その本を読み終えたとき、しかし逆にその見方には違和感を覚えるようになった。確かに日本兵たちに、捕虜であることに対する絶望感や恥の意識が強くあったことは間違いない。が、それはすぐに死と直結するようなものだったのか。やはり生きていたかったのではないだろうか。ぼくには、その点が疑問に思えた。それは例えば、その中に引用されていたひとりの元捕虜の言葉からも感じられるのだった。
「......私たちは捕虜の生活がどんなものなのか、全く知りませんでした。だから、一度捕虜になってしまった者には、戦争が終わった後も未来はないと思っていたのです。......事実、日本の過去の戦史によれば、日本人はかつて捕虜になったことはないとのことでした。......捕虜になった時期が遅かったものほど、北の空を見上げ、家族、妻や子供のことを思い出して涙を流していたものです......」(近藤訳)
「戦陣訓」のみを反芻し、ただ死を求める日本人捕虜たちの姿はそこには想像できなかった。また、別の捕虜のひとりは回想録の中で、暴動の前日に捕虜たちの間でその賛否を問う投票が行なわれたときの気持ちをこう吐露している。
賛成すれば、もはや待つのは死のみに思えたが、反対するのもまた勇気がいることだった。そして迷った挙句、思わず賛成の「○」を投票用紙に書いてしまったのだ、と。
投票の結果は、八〇%が「○」だった。そして暴動は実現した。
しかしその中にどれだけ上のような「○」があったのか。それは、いまではわかりようもない。だが、この事件について丹念な調査を続けた中野不二男の『カウラの突撃ラッパ』(文藝春秋)からは、それはかなり多かっただろうことが推測されるのだ。
多くの日本兵たちには、恥の意識とともに、生き続けたいという思いも同時にあった。だがたとえ死への暴動に反対であったとしても、一部の強硬派たちの「貴様らそれでも軍人か!」という言葉に抗する余地がなく、それぞれが葛藤の末、賛成せざるを得ないことになり、実現してしまった――。それがこの事件の真相のようなのだ。
そして何よりも、200人以上の日本兵が死んでしまったものの、900人はやはり死ぬことができなかったという事実にこそ、彼らの生への執着が表れているように思えた。
オーストラリアでのこの事件についての一般的な理解と、実際の捕虜たちの思いとの間には、大きなズレがあるのかもしれない。そんなことを、ぼくは調べる中で強く感じるようになっていった。
戦後、カウラの事件を一つの契機として日本とオーストラリアとの交流は確実に深まった。特にカウラは日本と縁深い町となり、立派な日本庭園も造られ、また第二次大戦中のこの国での日本人戦没者は全てこの町に埋葬されることにもなった。ぼくが訪れた2004年には、事件の60周年記念式典も行なわれた。
だがその一方で、この事件がオーストラリアの人々に、多少いびつな日本人のイメージを与えてきた面もあるように思う。もちろん完全な理解を求めることなどできるはずもないのだけれど、優に半世紀以上が経ったいま自分が何かを求めるとすれば、それは、生と死の間で苦悩した多くの日本兵たちの思い、そして生を求めながらも死への出撃に賛成せざるを得なかった彼らの葛藤を知ってもらいたいということだった。そこにこそ、国や文化という枠組みを超え、理解しあえる人間たちのドラマがあるような気がしてならないからだ。
と思うと同時に、ぼくはこの日豪のズレのような、いわゆる「異文化理解」の難しさについてもこのころ肌で感じるようになっていた。
オーストラリアで10ヶ月ほど暮らしてみて、自分はこの国のことをどれだけ分かったのか。どれだけ理解できたかを理解せずに、なんとなくわかった気になり、自分もオーストラリアを出たあと、この国について物知り顔で人に語ることになってしまうかもしれない。そしてそれが、誰かに偏ったオーストラリア像を少なからず植えつけてしまうかもしれないのだ。
だが、では、何も語らなければいいのかといえばそうではない。ひとりの人間が語れること、理解できることは極めて限られている。だから、誰もが、それぞれが見た「偏った」世界をその人なりに伝えていくしかないのだ。その限界を十分に理解した上で、しかし人は語り継いでいかなければならない。出来事を共有していかなければならない。
書くということはそういう仕事なんだろうなと、ぼくはこの事件を調べながら改めて感じるようになっていた。
ダーウィンの航空歴史センターには、豊島一を乗せて墜落した零戦の一部が残っていた。全体が茶色くさび付いたその機体のコックピット内を覗きながら、ぼくは、ここから緑の木々に包まれたダーウィンの町を見つめたはずの豊島は、眼下の国で半世紀以上たった後も自分がひとつの日本人像として生き続けるとは夢にも思っていなかっただろうな、と考えていた。
ダーウィンの航空歴史センターに展示されている豊島一の零戦 |
そしてぼくが、豊島のことを考えながら高原氏に電話をかけたのは、その零戦を眼に焼き付けてから1週間後のことだった。
「あのときは満月で、空のきれいな夜でした」
遠く神戸市から、受話器越しに聞こえてきた高原希國氏の柔らかな声は、月明かりに照らされた収容所の姿を、生々しい色と音とともに浮かび上がらせた。
彼もまた、収容所では蜂起に賛成していなかったものの、投票用紙には「○」と書いたひとりだった。そして戦後、暴動を生き残った人たちの一部によって作られた「カウラ会」の会長も務め、事件を通じた日豪の交流へ尽力してきた。
そんな高原氏に、事件に対して自分が感じている日豪間の理解のズレについて話すと、「確かに少しずれていますね」と彼もいった。そして、先のゴードンの著書の中では暴動で中心的な役割を果たしたようにも読み取れる南忠男こと豊島一についてはこういった。
「南くんはあんな暴動を起こしたいと思うような人ではありませんでしたよ。むしろ生きていたかったはずです」
しかし、高原氏はそのように語りながらも、彼にとって日豪間のズレというのはそれほど大きな問題ではないようだった。
カウラの日本人戦没者墓地にはミナミタダオこと豊島一も眠っている |
「でも、今となって特に何かを求めようとは思いません。日豪関係もよくなったし、大事にもしてもらったので、ただお礼を申したいという気持ちだけです。これだけの事件を起こして、いまハッピーエンドとなっているのはここだけなのではないでしょうか。戦後オーストラリアには反日感情も強かったけど、それが親日へと変わっていく過程にカウラの事件は貢献したし、それだけでとても意義があったと思うんです」
高原氏のその言葉からは、60年間カウラとともに生きてきた彼の浅からぬ思いが伝わってきた。そしてそれこそまさに、あの夜銃声を聞き、倒れゆく仲間たちを見送った人間の偽らざる思いなのだろう。
そんなことを思いながら、ぼくは公衆電話の受話器を置いた。
頭の中には60年前のダーウィンとカウラの風景が美しく浮かびあがり、一つの物語が描けていた。
そして同時に、これでオーストラリアを出発できる。そんな気持ちが湧き上がるのを感じていた。
