第18回 東ティモールへの旅立ち
結局売れたのは、エンジンを修理してからさらに5日ほどが経ったあとのこと、7件目の問い合わせでだった。お買い上げの金額は、まさに、一番乗りで電話をくれたイギリス人のラッセルが提示した1500ドル!
値段がいよいよ下がり1900ドルへ!最終的には1500ドル。 |
回り道をした挙句、結果的に彼の言った額に収まってしまったのはなんだか悔しくもあったけれど、それでもぼくらにとっては購入額900ドルの2倍近くであり、決して文句の言える値段ではない。ただ、ラッセルがこのことを知ったら、「ほーら、みろ」と鼻で笑われてしまいそうだな、と思った。
購入を決めてくれたのは、イギリス人のカップル。彼らは、ぼくらが買い物のために街に出たときに路駐しておいたバンを見て、声をかけてくれた。とりあえず停まっているさまは気に入ってくれたようで、テストドライブをすることになり、彼氏の方が運転席へ入り込み、エンジンをかける。バンは走り出すも、彼、スコットはなかなか不器用そうで、ハンドルの横に付いている硬いギアに大苦戦。ガッガッガッと力んでとギアチェンジを試みるも、入らない。ハーキーも慣れない運転手に、ぶるぶるぶると、少々不満気味の音を立てる。
でも、このイギリス人、「ギア、入らねーよ、ファック!」などと口汚く罵ることはなく、危なっかしげながらも次第に慣れ、ぶーんと街を一回りして、テストドライブを終えたのであった。
すると二人はその場で、かなり前向きな反応を示してくれた。
そしてその夜、8時ごろ、携帯に電話がかかってきた。
「決めたよ、1500ドルでいいんだね?」
値段交渉時に「1500か1600ドルぐらい」などとジャパニーズな婉曲表現を駆使してしまい、そうすれば1500ドルと言われるに決まっているのだが、案の定そう言われ、「あ、1600にしとけばよかった」と思いつつも後の祭り。でも、もうそんな細かな100ドルより、売れたことにぼくらは歓喜し、大きく安堵した。
そのころにはすでにぼくらは、バンの中で寝るキャラバンパークでの生活に疲れてしまい、オーストラリアでの最後の贅沢ということで、テレビとベッドと簡単なキッチンのあるこぎれいな宿に移っていたが、その部屋で、喜びをかみしめた。
売れたことをすぐに同じ宿に泊まっていた友人のベルギー人・イギリス人のカップル、ヨーリスとスージーに伝えると、一緒になって喜んでくれた。彼らもまたバンを売ろうとしていたもののうまくいかず、ダーウィンで不毛ともいえる日々を重ねていたのだ。二人は、すでにぼくらよりも長い間ダーウィンで足止めされており、ついに痺れを切らし、バンを置いてオーストラリアを出ることを決めようとしていた。というのも、彼らの状況を哀れに思った宿のおばさんが、「代わりに売っといてあげるわよ」と言ってくれたからだ。もちろん「ただし、マージンはいただくわよ」と告げることのも忘れなかったはずであるが。
ぼくたちにしても売るのに2週間かかり、すで相当に疲れ切っていた。だから、とにかく売れたということだけで十分に満足だった。
翌日、この1ヵ月半ほどぼくらの家だったバンの車内をちゃかちゃかと片付けて、日本へ送るべき荷物は郵便局に持っていった。引越しはじつに簡単で、ぼくらは再びバックパックだけの姿に舞い戻った。これまでどこに行くにも車だったのが、そのすべてが歩きになると思うと、正直、相当億劫に思えた。でもそれは仕方がない。
新しいオーナーとなったイギリス人カップル。いよいよ最後の別れのとき。 |
夕方5時に彼らと待ち合わせ、きっかり1500ドルを受け取り、売買の書類をやり取りすると、バンは正式にイギリス人カップルの手に渡った。そのあと、もう彼らのものとなったそのバンで、ぼくらのプチブルな宿まで送ってもらった。そして宿に着くといよいよ、ハーキーとも本当のお別れとなった。
ハーキーは新たなオーナーに操られて、アマガエル色よりも深い緑色の木々に囲まれた広い道を走りだした。そのうしろ姿を見ながら、「ハーキーよ、メルボルンまで、またがんばってくれー!」と心の中で大きなエールを送った。カップルは、大陸東南部のメルボルンを目指していたのだ。
バンが去り、手元には現金が残った。 |
赤いウィンカーを出しながら角を右に曲がり、その姿が見えなくなったとき、やはり寂しさがこみ上げてきた。そして「無理はするなよ......」などと身勝手なことを、散々無理をさせ、ムチを打ちまくったことを棚に上げて、考えたりもしているのだった。
ハーキーを見送りながら、これで本当にオーストラリアを離れるのだということを実感した。一年近くを過ごしたこの巨大な大陸を出発するときがいよいよ近づいてきたのだ。
東ティモール(East Timor)はオーストラリアから、まさに目と鼻の先。 |
そのときすでに、次の行き先はほとんど決まっていた。オーストラリア大陸のすぐ北に位置する世界一若い国(当時)、東ティモールである。その国がぼくらにとって東南アジアへの入り口となる。バンがなくなると今度はすぐさま、頭の中は東ティモールという未知の国への旅のことでいっぱいになろうとしていた。
だが、東ティモール行きはぼくらにとってちょっとした冒険になるかもしれない、という気持ちがあった。というのは当時、東ティモールは独立2周年を目前にしていて、その日を境に国が大きな変革を遂げる節目のときだったからである。社会情勢が再び不安定になるかもしれない、何かが起きるかもしれないと、メディアではいろんな憶測が飛び交っていた。
20年以上にわたってインドネシアから弾圧され続けた東ティモールが、住民投票によってようやくインドネシアから独立することが決まったのは1999年のこと。しかし、その決定の直後に、インドネシアの支援を受けた反独立派の激しい破壊活動や虐殺という悲劇を経験することになってしまった。その当時は、日本のニュースでもいつも東ティモール情勢の報道がなされ、それによっていつしか、「東ティモールってあのドンバチやってる国でしょ?」とお茶の間でも話題に上る国となった。
そんな苦難の時期を乗り越えて、2000年から国連の主導による国の再生が始まり、2002年、ついに独立を手にした。そして独立から2年間は、国連東ティモール支援団(UNMISET)の力を借りることによって国の基盤作りを進めていった。そのUNMISETが、独立2周年にあたる2004年5月20日に任務を終えて、撤退することになっていたのだ。
東ティモールは、その日を境に自らの足で歩き出すことになる。この国にとっては、ついに乳離れするというような記念すべき日に違いない。しかし一方で、国連の撤退を機に、インドネシアとの国境付近に潜伏しているインドネシアのゲリラが再び東ティモールに入ってくるのではないか、などという噂もあったのだ。
ぼくらがダーウィンにいたのは2004年4月、すなわちその境の日の1ヶ月ほど前だ。インターネットで東ティモールについて調べていると、出てくるのは、独立2周年を目前にしてのそのような憶測ばかりであり、それらを読む限りでは、確かに何が起こるか分からないように感じられ、どうしようか、大丈夫かな、と少々腰が引けたりもしていたのだ。
そんな状況だったため、旅のための情報はほとんどなかった。ダーウィンの旅行代理店に航空券を買いに行っても、ほとんどのところで、最初は「ヘイ、ガーイズ、ハウ・アー・ユー?」と陽気に迎えてくれても、目的地を告げると、「東ティモール? そんなところ何しにいくの? あそこは旅行者が行くような場所ではないから、やめなさい」と、たしなめられておしまいだった。
が、できる限り調べて考えた挙句、ぼくらは大丈夫だろうと判断した。モトコは多少ためらってはいたけれど、最後の一押しになったのは、ダーウィンの国連事務所の職員の言葉だった。国連事務所が一番確実な情報を持っているのではないかと考えて、行ってみると、快活な女性がこう言ってくれたのだ。
「あら、東ティモールなら、問題ないと思いますよ。今はまったく平和だし、独立2周年の日も、首都ディリはきっとお祭り騒ぎになるだけなんじゃないかと言われてますよ」
と。ネットのニュースや分析でのおどろおどろしい憶測とはまったく異なる楽しげな様子を、彼女はオージーらしい陽気さで想像させてくれた。オーストラリアはUNMISETの中心的役割を担っていることもあり、その職員の言葉は、ぼくらにとってとても大きかった。
その言葉を聞いた日、気が変わらないうちにと、ぼくらは首都のディリ行きの片道チケットを予約した。出発は5月3日に決まった。
ちなみに、東ティモールに船で行く方法もあるにはあった。同じティモール島の西半分である西ティモール(こちらはインドネシアの一部)に渡る貨物船がダーウィンから出ていたのだ。まず西ティモールにいって、それから陸路で国境を越えて東ティモールへ、というルートもあった。できれば船に乗ってそのルートで、という気持ちもあったけれど、本数が非常に少なく、金銭的に、ダーウィンでその出発日まで待つことはできず、あきらめざるを得なかった。
5月2日、出発する前日の朝、ダーウィンでともにバンを売ろうとがんばっていた先のカップル、ヨーリスとスージーが、一足先に宿を出ていった。7時前、二人はそれぞれ大きなバッグを肩に抱えて、建物の外に据え付けられた階段をカタカタカタと音を立てて下りていった。その後ろ姿を見送るぼくらに階段の下から、
「じゃ、また!」
と言って、彼らは出発した。彼らもぼくらと同じく、二人で旅と定住を繰り返す生活をする予定で、アジアへと向かうところだった。ぼくらはこの宿に移ってからはたびたび彼らと夜飲んで、話した。翌6月には、マレーシアで再会することを約束していた。
そして翌日、ぼくらの出発の日。
早朝5時、宿からタクシーで空港へと向かった。まだ外は真っ暗で街灯が点いている。ダーウィンらしい深緑色の景色は、闇の黒と街灯のオレンジ色に取って代わられていて、まるで別の町のように見えた。車もほとんどいない広い道路を飛ばすそのタクシーの中で、ぼくはオーストラリアでのいくつもの出来事を思い出していた。
大陸横断列車が、イルカが、ボランティア仲間が、そしてハーキーが、さらには「ストーカー」時代の自分と当時のツレないモトコの顔までが、まだ夜の明けぬダーウィンの黒い町並みの中に浮かび上がった。終わりなど来ないのではないか思っていたオーストラリアの日々は、今日、本当に終わるのだ。
そんな感慨に浸る一方、数時間後には地面を踏んでいるはずの東ティモールへの風景を想像し、緊張感と期待感を膨らませていた。
空港のゲート前で出発を待っていると、ぼくらと同じ飛行機に搭乗する人の中に迷彩服を着た兵士らしき大男が二人ほどいることに気がついた。国連の支援団として東ティモールで働くオーストラリア兵に違いない。
そしてまだ周囲が薄暗い中、その兵士らとともに30人乗りほどの小さなプロペラ機に乗った。旅行者らしき人は誰もいない。その中にポンと放り込まれてみてやっと、自分たちがどのような国に行くのかを実感できた。飛行機が離陸し、巨大なオーストラリア大陸が眼下に小さくなっていくとき、真っ赤な太陽は緑の大地を赤く染めながらまだゆっくりと昇っている最中だった。
それから1時間半ほどが経ったとき、窓の外には、熱帯らしい豊かな緑に覆われた起伏の多い小さな島が見えてきた。朝日が反射して銀白色に輝く静かな海面に囲まれたその島に、プロペラ機は吸い込まれるように降りていった。
早朝これに乗って、ダーウィンから東ティモールの首都ディリへ。 |
