遊牧夫婦

第19回 銃を用意する宿主

機体がぐんぐん高度を下げ、雲の下まで降りていくと、静かな海面には朝陽が反射して、見渡すかぎり銀白色に輝いていた。その銀色のカーペットの中に起伏と緑があふれるティモール島が見えてきた、と思ったら、いつの間にか視界全域が島になっていた。

首都とはいえ、いわゆる大都市らしいきらびやかな風景は見えない。そしてプロペラ機は、茶と緑の大地の中に延びる滑走路に向かって直進し、着陸した。機体から直接、アスファルトの地面へ短い階段を下りて、ぼくらは東ティモールの地を踏んだ。重く湿った生暖かい空気に体が包み込まれる。
2003年6月に日本を出てからもうすぐ11ヶ月。この瞬間、ようやくアジアにたどり着いた、という喜びと興奮がこみあがってきた。

飛行機から出て、国連の兵隊風な人たちとともに、空港内の簡素な建物に入っていくと、すぐに入国審査。世界一若い国だけあり、職員たちもまだ仕事に慣れていないように見えるが、特に何も聞かれることなくすんなり終わった。

聞いていた通り、ビザも1ヶ月程度までは必要ないようで、希望する滞在日数を自ら告げて、それをパスポートに記載してもらうというアバウトなシステムだった。ただ、税関の検査は案外厳しく、バッグの中を細々と調べられ、中身を出されていくつも質問を浴びせられた。でも、その質問は、

「そいつはなんだ?そうか、ビデオカメラか」「おい、そっちはなんだ?そうか、パソコンか」

といった具合で、それぞれを手にとって物珍しげに眺めている。ただぼくらの持ち物に興味があって見てみたかっただけだったのかもしれない。

入国審査を終えて建物を出ると、タクシーの運転手が一目散に駆け寄ってきた。とりあえずその男に、

「この宿まで行きたいんだけど」

と、首都ディリの地図の中の安宿を指差して頼む。持っていた地図は「ロンリープラネット」(定番のガイドブック)の東南アジア編の中に、薄っぺらく申し訳程度にページを割かれていた東ティモールの部分にあったもの。情報は少なくとも、地図があるというのはとても助かる。

東ティモールの通貨は米ドルで、町の中心まではタクシーで5ドルだという。少し高く思えたけれど、東ティモールの物価は高いと聞いていたし、とりあえずは右も左も分からないのでまあいいかと、そのタクシーでディリの中心地に向かうことにした。怪しげな輩がたかってくることもなく、ちょっと拍子抜けするほどスムーズなスタートを切った。

そして車が走り出すと、さあ、東ティモールだ、とぼくは鼻息を荒くして、窓の外を眺めた。
舗装された道路の周りは緩やかな山に囲まれ、ヤシやら潅木やら、その他いろんなモシャモシャの木々やらが生えたい放題に繁茂しているが、15分ほども走ると木々の中に人が増え、だんだんと賑やかな市街地らしくなってきた。

第19回遊牧夫婦

ディリ市内に車はたくさん走っているものの、まだ交通ルールも免許制度も信号もない。誰が何に乗ってもかまわないという状況だった

ディリの中心に近づくにつれ、道端にたむろしたりする浅黒い肌の人が増えてくる。ビーチサンダルでバイクに乗り、ぶるんぶるんと軽快な音を立てて走る男たちの姿も見え始める。そして、マーケット近辺で人の数がどかーんと増加し、一気にアジアらしい熱気に満ちた風景に・・・・・・と期待したのだけれど、通りがかったマーケットにはそれほど人は多くなかった。人々が着ているカラフルでくたびれたTシャツによってマーケットは明るく彩られてはいたものの、全体的に人はまばらで、おとなしげだ。

ちなみにこれはのちに気付いたことだけど、マーケットに売られているモノも、やせてしおれかけた野菜が主で、肉や魚はあまり見かけた記憶がない。全体的に静かで、少しインドあたりのはちゃめちゃなエネルギーを分け与えたいと思わせる雰囲気が人にもモノにも感じられた。とはいえ、人はどこか優しげで、印象は全く悪くない。

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東ティモールの人は、おだやかでやさしげな印象

熱気の少なさに加え、当時の東ティモールには他のアジアの国々とは大きく異なる点がもう一つあった。

それは、通りを走る少なからぬ車の側面に、国連のマークや、黒の極太マジックでキュッキュッと書いたような大きな「UN」の文字がついていることだった。それらは白い小さなトラック風の車だったり、黒く大きなランクル風の車だったりで、中には迷彩服を着たゴツい西洋人らが乗っている。そして街なかにも迷彩服の白人が数多くうろうろしているのが目についた。

彼らの姿がやたらと目立ったため、東ティモールは、アジアの一国として以上に国連がいる国としてまず目に焼きつくことになった。

そんな第一印象を頭に描いているうちに、タクシーは順調に目的の宿を見つけてくれた。宿は、比較的人通りの多い通りに面していて、灰色のブロック塀に囲まれた普通の民家という雰囲気。砂利が敷かれヤシの木が生えバイクが並んだ庭から中に入ってみると、ヒゲを生やした50歳前後と思しき白人のおっさんが

「旅行者かい?」

と軽快な声をかけてきた。英語のなまりから彼がオーストラリア人であることはすぐに分かった。そして彼が宿のオーナーだと聞いて少しうれしくなった。離れたばかりのオーストラリアが再び目の前に戻ってきたような、見知らぬ土地で仲良しの友だちにばったりと出会ったような、そんな気持ちになれたのだ。

おっさんはヘンリーといった。口ヒゲとあごヒゲがきれいにつながったハルク・ホーガン風のワイルドな口もとが特徴的で、体格も比較的ゴツく、しゃべりもラフな感じだが、やさしそうな男だった。

ヘンリーのもとには、リタとエモンという2人のティモール人が働いていた。リタはしっかりものの女の子で英語も比較的うまく、客の対応からなにから、ヘンリーの仕事を幅広く手伝う。エモンは穏やかな男の子で、掃除や洗濯など体を使う仕事を主に担当。エモンもヒゲを蓄えて男らしさをアピールしていたが、「エヘエヘエヘ」というしまりのない笑いばかり印象に残ってしまい、話した瞬間に「ヒゲ効果」は宇宙の果てまで飛び去ってしまうはにかみやさんだった。

ヘンリーは、2人のボスというより、父親か親戚のオヤジといった感じで、彼らを子どものようにからかい、そしてリタとエモンもそれに楽しく応えながら働いているようだった。ぼくらはその和やかな雰囲気に惹かれ、この宿に泊まることに決めた。

ただ、「ここに決めた」といっても、実は宿はここぐらいしか選択肢がなかったことも言っておかねばならない。ディリ市内に宿泊施設は予想以上に多かったものの、その多くは、びっくりしたことにかなりちゃんとしたホテルで、値段も一泊50ドルとか100ドルとか、先進国並みに高かったのだ。

いったいなんで!? とたまげてしまうが、それは仕事でディリに来ている人の方がぼくらのような旅行者より圧倒的に多かったからだ。

このころ、国連関係者、NGO職員などこの国の立ち上げにかかわるためにディリに滞在する人は多数いた。町を歩いていると、かなりの割合が、国連の支援団の兵士や、西洋人なのだ。また、洋食を出すカフェも数多くあるし、電話局にいけばノートパソコンをつないでネットする環境すら整っていた。

こぎれいなカフェやレストランに入ると、街なかとは全く異なる西洋の世界が広がっている。ちょっとしたリゾート地のように木製の快適な机と椅子が涼しげな空間に配置され、いるのはもちろん白人ばかり。値段は現地の食堂の何倍もする。

その一方、壁際や入り口には、バナナ、ミカン、新聞、水などをかついだ色の黒い小さな子どもたちが遠慮がちに立っている。タイミングを見て、くつろいで談笑したり真剣に話し込んでいる西洋人に、商品を持って回っていくのだ。

第19回遊牧夫婦

カフェで外国人にバナナを売ろうとする少年

ほとんどの西洋人は彼らを全く相手にしない。そしてウェイターが、「シッシッ!」といった様子で子どもたちを追い払う。子どもによっては何度断られても我慢して再度挑戦し、また別の子どもはさっさと次の店へとターゲットを移して出ていく。

売るもののない少年が「何かすることはないか」と西洋人に寄っていく姿もよく見られた。そういう子に対して、ときに「5分間だけバイクを見ててくれ」などと仕事を頼み小銭を与える人もいた。

そんな様子を見ながら、ぼくはベトナム戦争当時のサイゴンを思い浮かべた。自分たちはアジア人でありながらもちろん立場は西洋人側になるわけだが、決して居心地がいいといえる風景ではなかった。

第19回遊牧夫婦

西洋人の集まるカフェの前にたまる子どもたち。このような 国連の車を町中でみかける

いずれにしても、言いたかったことは、当時のディリには外国人が非常に多く、だから比較的高価できれいなホテルが多かったということだ。バックパッカー向けの宿は、ぼくらのところ以外にもう1、2軒あるかないかというところだった。

「ディリにはどのくらいいる予定なんだい?」

そう聞くヘンリーに、まだ分からないけど独立記念の日までは、すなわち2週間以上はいるつもりだ、というと2人部屋に2人で10ドル、つまり1人5ドルで泊めてくれることになった。2人部屋はそこ1つだけで、しかも8人ほど収容できるドミトリーが1人8ドルとのことだったため、1人5ドルで2人部屋をあてがってくれたのはとてもラッキーだった。

まあ、いずれにしても客は多くなく、宿というより自分の家に旅人を泊めるといった雰囲気だったため、ヘンリーもその辺は適当だったのだろう。オーストラリアではずっとバンで暮らしていたため、久々のバックパッカーライフだったが、そのスタートにいい宿が見つかるというのはとてもうれしい。

もちろん「いい宿」といってもたかが知れていることは言うまでもない。薄汚れた白い壁は、ビーチの写真や、わけのわからないパジャマのような柄のカーテンで安っぽく装飾され、ベッドは、野戦病院風の無機質な骨組みに薄いマット、そしてこれに無理やりハデなイエローの花柄シーツがかぶさっているといった具合だ。

また、滞在するうちに、宿泊客以上にゴキブリが多数寝起きしていることが判明して、大のゴキブリ嫌いのモトコは騒然となった。キッチンやシャワー、トイレでの遭遇はもはや避けられずモトコもあきらめていたものの、部屋に入られることだけは断固阻止するという彼女の固い決意によって、ときに部屋に薬を撒き、さらに毎晩寝るときには、ドアと床の隙間などにびっしりと新聞紙を詰めてゴキブリくんらが侵入する余地を1ミリ足りとも許さないという措置をとる始末であった。

熱帯の巨大なゴキブリも侮れないとはいえ、ぼくらが到着当時にもっとも気にしていたのは、やはり東ティモールの現状だった。

「独立記念の日、5月20日には何か起こりそうな噂とかはあるんですか?」

と早速ヘンリーに聞いてみた。すると、彼はこう言って笑う。

「そいつは誰にも分かんねーな。でもオレは銃を持ってるから大丈夫さ。この宿にゲリラ野郎が襲撃にでも来ようものなら、そいつをぶっ放すまでさ、はっはっはっ」

冗談とも本気ともつかない彼の様子に、ぼくも調子を合わせて、「へっへっへっ、そうっすよね」と笑い返すしかなかったが、内心では、「マジかよ、そんな状況なの!?」と少々ビビったのも確かである。ヘンリーの言葉を聞いて、「もしかすると・・・・・・」という思いはいまこの国にいるみなが共有している気持ちなのかもしれないな、と思ったのだった。

さて、なんでそんな物騒なことになっているのかを理解してもらうために、ここで東ティモールの歴史について触れなければならない。前回も書いたがもう少し詳しく説明しよう。

東ティモールが初めて独立を宣言したのは、400年ほどに及んだポルトガルの支配が終わった後の1975年のこと。しかし、隣国インドネシアはそれを認めず、独立宣言の翌月に東ティモールはインドネシアによって侵攻、占領されてしまったのだ。

そして1976年にはインドネシアの27番目の州として併合されるに至った。国連はインドネシアを非難する決議を採択していたが、アメリカ、オーストラリアをはじめとする西洋諸国は、東ティモール独立を宣言した政党「フレテリン(東ティモール独立革命戦線)」に共産主義色が強かったこともあって、インドネシアの侵略を黙認したのであった。

それが、東ティモールの人々にとっての苦難の四半世紀の始まりだった。ポルトガルの植民地支配を終えたあとに彼らを待っていたのは、独立ではなく、さらに厳しい弾圧の時代だったのだ。

ティモール人たちは、インドネシアの占領に対し抵抗運動を行いつづけたが、インドネシアの弾圧は苛烈を極めた。弾圧は活動家やその支持者以外の一般市民にも及び、殺された人間は20万人とも言われる。それは1975年の占領当時の東ティモールの人口の3分の1に当たる。

そんな地獄のような時代が続く中、インドネシアで民主化運動が起こり、スハルト政権が倒れると、東ティモールにも転機が訪れる。1999年8月、ついに、独立するか否かをティモール人自らが決める投票が行なわれることになったのだ。

その結果、圧倒的な支持によって東ティモールは独立を手にすることが決まった。しかし、その直後にさらなる惨劇が待っていた。インドネシア軍に支援された反独立派勢力によって、東ティモール各地で破壊活動が開始されたのだ。

東ティモール全域において、電気、水、電話に必要なインフラのほぼ全てが破壊され、7,8割の家や建物が焼かれ、壊された。そして、50万人以上が家を離れて西ティモールや山の中に逃げることを余儀なくされ、1000人以上が殺されるに至るほど凄まじいものだった。

この惨劇と大混乱を、オーストラリアを中心とした国連の平和維持軍が収拾し、2000年に入ってから、国連の支援の下でいよいよ独立へ向けての準備が始まった。そして2002年5月20日、ついに本当の独立を手にすることができたのだった。

しかし、独立から2年間、国連東ティモール支援団(UNMISET)の力を借りて国家建設に邁進してきたものの、2004年当時の東ティモールの状態は依然として厳しいものだった。失業率は40%かそれ以上、国民の半分近くは1日1ドル以下で暮らし、国民の半分以上が文字を読めないといわれていた。めぼしい産業もなく、また東ティモール経済の大きな支えとなるはずの近海のガスと石油も、その所有権を巡ってオーストラリアと争うことになってしまっていた。明るいニュースはほとんど聞こえてこない。

ぼくらが訪れたそのころ、1999年の惨劇はまだ5年前のことでしかなかった。その4、5年の間にかなり修復が進んだとはいえ、ディリにも当時の傷跡はまだ大きく残っていた。街をぶらぶらしているといたるところで、すべてを破壊され骨組みばかりになってしまった建物に出くわす。そんな建物と国連の車が、ディリの風景の中に深く刻みこまれていた。

まだ自立する準備が十分に整わないまま独立から2年が経ち、UNMISETがその任期を終えて撤退しようかというこの時期は、再度この国を混乱に陥れようとする勢力にとって、ひと騒動起こす格好のタイミングであろうことは容易に想像ができた。国境付近でこのころ、外国人が何者かに襲われて殺されたなどという噂もあった。

だから宿主のヘンリーも、5月20日を前に、銃を用意して万が一に備えなければならなかったのだ。東ティモールはまさにそんなさなかにいたのだった。

第19回遊牧夫婦

ディリから内陸に入った小高い郊外から、島の北側を望む

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プロフィール

近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。
オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。
旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。
疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

YUKI KONDO

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