遊牧夫婦

第20回 東ティモールの真っ青な海

朝はだいたい、通りに朝メシを買いに行くことから始まった。早朝からバイクやミニバスが走り、賑やかに砂埃が舞う表通りに出て、小さな商店でドーナツと揚げバナナをそれぞれ5セントで買う。そして宿でコーヒーとともにそれを食べるのがささやかな日課になった。

ディリの物価は高いとはいえ、現地人の世界はさすがに全然高くない。オーストラリアの物価感覚がまだ残っていた身としては、すっかり成金気分でウハウハだ。が、毎日町を歩き、現地のテトゥン語で単語を発し、人と簡単な挨拶を交わし、食堂で1ドルほどの肉または魚のせご飯を食べるうちに、すっかり感覚は東ティモールにあってくる。

でもいったん宿に戻ると、人種的にはオーストラリアと変わらない世界が待っている。ぼくたちの滞在中、宿にはオーナーのヘンリーの他に3人の西洋人がいた。オーストラリア人のシャーロット、アメリカ人のウォーリー、そしてスウェーデン人のヨハン。3人とも半ばヘンリーの同居人のように長逗留をしていた。

笑顔が優しげなくるくるヘアのシャーロットは、唯一の純粋な旅行者だ。ぼくらよりも年下ながらキモの据わってそうな女性で、これが初めての海外旅行だとか言っていた気がするが、ひとりこの宿でまったり過ごし、ときに何日もぶらりと田舎に出かけたりと、すでにベテラン旅人の風格たっぷりだった。一緒に旅行中の彼氏がいたが、なぜか彼だけインドネシアに行っちゃったとのことだった。

ウォーリーは、何かちょこちょこ仕事をしながら酒を飲んでぶらぶらしている陽気なオジさん。宿で会うといつもタイガービールなんかを片手に真っ赤な顔でのらりくらり。イメージは、われらがロッキーの妻エイドリアンの飲んだくれダメ兄貴ポーリーだ。とはいってももちろん、「おい、誰がテメーを育ててやったんだ、このヤロー!」と、いきなり家でバットをビュンビュン振り回して暴れまくるなどということはない。ウォーリーは普段は比較的おとなしい男であった。

そしてはるばる北欧から来たヨハンは、東ティモールの政治を研究する修士の大学院生。ぼくらとほとんど同じ年で、彼はなかなかデキるやつだった。

最初にヨハンを見たのは、西洋人の集まるカフェの中。彼が誰かにインタビューをしているときのことだった。キンパツでそれなりにイケメンの彼が、いかにも重要人物っぽい人とシリアスに話している様子は、「お、あれはニューヨークタイムズの記者かいな?」と思わせる雰囲気で、ぼくは遠くの席でコーヒーをすすりながら指をくわえてその場面を眺め、大いに刺激を受けたのだった。

というのも、ぼくも、独立2周年時の様子について週刊誌に記事を書くことになっていたからだ。まだダーウィンにいたときに編集者と連絡を取り、独立記念日前後、国連が任期を終えるころの東ティモールの状況についてルポを書くという企画が通っていたのだ。それで東ティモール到着以来、よし取材をするぞ、と少々力んでいたのであった。

さてその後、宿に帰ると、なんとカフェで見かけたキンパツくんがいるではないか。あれ、あなたはさっきカフェで・・・・・・? と聞いてみると、確かに彼だった。ただ予想と違ったのは、彼はジャーナリストではなく、論文のために政治家や運動家、国連関係者などにインタビューして回っている院生だったことである。
しかも驚いたことに彼すなわちヨハンは、日本語を話した。奥さんが日本人だというのだ。そんなこともあり、ヨハンとは一気に距離が近づいた。

ちなみにモトコがしばらくして「ヨハン、誰かに似てる」と言い出した。そして考えた挙句、判明した。勝村政信だ。確かにかなり似ている。その発見に狂喜乱舞し、急いで本人に報告にいくと、あまりにも当然な答えが返ってきた。「ダレソレ?」。こういっては勝村氏には失礼だが、少々マニアックだったのだろう。しかしいずれにしても、以下、キンパツの勝村氏を思い浮かべて読んでもらえば、ヨハンのイメージはばっちりだ。

これで役者は揃ったといえる。というのは、ぼくらの1ヶ月弱の滞在の間にこの宿にやってきた宿泊客はこのほかは数組だけだったからだ。だから、このメンバーはいつの間にか互いにとても身近な存在となっていった。

たとえば朝起きてキッチンにいき、ぼくが「おい、カツムラ、いやヨハン、コーヒー飲むか?」と声をかける。そして年季の入った布フィルターをマグカップの真上に置いて、またときにはフィルターなしで、3人分のティモールコーヒーを準備する。

食事時にシャーロットがカレーを作っていたりすると、それを分けてもらって、腰掛けてだらだらと話し込む。そこに掃除・洗濯担当のエモンがやってくると、シャーロットが「ヘイ、イーモン~」とオージーらしい強いアクセントをつけて呼び込み、彼も「エヘエヘエヘ、そんならちょいと一休み」と、軽く談笑といった感じになるわけだ。

踊り場のようなどっちつかずの場所にあるテーブルを囲み、ヘンリーが作った食事をみなでつついて飲むこともあった。アルコールが回り饒舌になったアメリカ人のウォーリーが、ゆでたカニの甲羅のような顔になって「ったくこの国はひでーよ!」と不満をもらし、ぼくらには聞き取れない高速でスラングだらけの英語でまくしたてる。そして、ネイティブばりの英語を操るヨハンが、自分の研究をもとに「いや、それは違うよ。フレテリンはマルクス主義色がいまも強いから、キリンは草食主義なんだ......」などと博識なコメントを繰り出すのを聞いていると、本当に家族のように思えることもあった。

その一方、ステディな彼女がいるヘンリーの部屋に、見慣れぬティモール人女性が複数人、よく出入りしていたことをモトコはしっかりとキャッチしていた。いかがわしさ満点な様子にモトコはいぶかしがるが、ヘンリーにしてみれば、何でもありの東ティモールで、誰に何を見られようが知ったこっちゃねー! といったところなのだろう。ただ、モトコの大いなる誤解の可能性も捨てきれない。

さて、そんな愉快な宿ライフの中、ぼくとモトコとヨハンはかなりの時間を一緒に過ごし、いろいろな場所に3人で出かけた。足はいつもバイクだった。

ぼくはそれまでバイクには乗ったことはなかったが、東ティモールはそのときまだ免許制度や交通ルールがなく、誰が何を運転してもかまわないという世界だった。信号すらまだ一つもなく、みな好きな乗り物を勝手な方法でブンブン乗り回している。ゆうびんやさんのような赤いバイクを数台ヘンリーが持っていたので、ちょっと練習をしてぼくらもそれに乗るようになった。

が、モトコは初めて乗ったとき、エンジンをかけると同時に、いやかける前だったかな、というほどの素早さですっ転んだ。しかも、なかなかハデに転び、微妙に負傷。そのため運転するのはやめ、ぼくの後ろに乗ることになった。モトコは、陸上部出身の俊足で運動神経はイイという触れ込みなのだが、巧妙に爪は隠され続け、いまなお隠れたままである。

足でのギアチェンジにも徐々に慣れていったが、交通ルールがなく道路も整備されていないこの国ではワイルドなドライブを強いられる。
少し郊外に行くと道はかなりひどく、舗装路は穴だらけだった。また、例の惨劇のときに壊されたのか、橋が半分で砕けている場所もあった。

モトコを後ろに乗せてその橋に差し掛かったとき、ぼくは橋が半分でなくなっていることなど全く知らずにそのまま軽快に直進してしまった。そして橋を渡りだしたあたりで、後ろを走っていたヨハンがそれに気が付き、声の限りに雄叫びをあげた。

「ヘーイ、ユウキ~!ストッープ!」

その声ではっと気がつき、「ヤバい!」と思って急ブレーキをかけると、橋がなくなる1メートルほど手前でキキキーッとなんとか止まることができた。橋の下の川までは5メートルかそれ以上はありそうだった。岩がゴロゴロしているその川にモトコとともにバイクもろともダイブしていたら、2人ともまず助からなかったはずである。
橋の下を見て、自分たちが死の1メートル手前まで来ていたことを実感し、さすがにそのときは冷や汗をかかずにはいられなかった。そしてヨハンには激しく感謝した。

第20回遊牧夫婦

正面にあるのが、ぼくが落ちかけた橋。 車も歩行者もみな、迂回して川にじゃばじゃば浸かって進むしかない。 写真は帰りに逆側から撮ったもの。

また、東ティモールの田舎道で定番なのが、民家から突然ニワトリやヤギが飛び出してくることだ。それがやたらと頻繁で、いつも「あぶねー!」と思いながら、急ブレーキをかけてよけるのだが、ある日、ニワトリの大家族が一列になってスタスタスターッ、コケコッコーッ! と夜逃げばりの唐突な道路横断を試みたとき、ぼくのブレーキは間に合わなかった。

ザザザーッと土の道にタイヤを滑らせながら急減速したものの、バイクはそのまま疾走を続け、一家の中に突っ込んだ。鈍い音とともに、ぼくは息子だか娘だかを轢いてしまった。

やっちまった!とすぐに引き返して見てみると、ヒヨコは即死していた。その事実が少なからずショックで少し青くなっていると、現場を目撃した村人たちが、みなぼくの方を怖い顔で睨んでいることに気がついた。そしてだんだんと距離を詰めてくる。これはまずい展開かもしれないと思い、「アイム・ソーリー!」とみなに向かって大きな声で謝ると、一人の男が目の前まできてこう言った。

「4ドル」

そして手を出してくる。ヒヨコを弁償しろ、というのだ。そう出られると、若干反論したくなる。そっちがいきなり飛び出してきたんじゃないか、と。しかし、言葉は通じないし周囲の目線も気になる。そしてなんといおうとも、轢いてしまった自分が悪いことは間違いなかったので、金を払うしかないとあきらめた。ただ、この国の物価から見て4ドルは高いだろうと値切ってみると、結局2ドルまでまけてくれたのであった。

しかしこの日宿に帰って、ヘンリーにその話をすると、おい、払っちまったのか?と残念そうに言うではないか。

「やつらはわざと動物を道に放して外国人の車やバイクに轢かせてるんだ。それで金を巻き上げるんだよ。国連の連中もよく轢いちまうみたいで、たまにもめてるよ」

そんなもめごとがあまりに頻繁だったためか、ヤギなどにぶつかって車に損害があれば、むしろ動物の飼い主が車の損害を補償しなければならないとする法律ができたともヘンリーは言っていた。

とにかくそのように、東ティモールの道路交通事情はメチャクチャだった。だがそれは自分にとっては悪いことばかりでもない。もちろん油断すると危ないのだが、免許を持っていない自分にとっては、何も後ろめたさを感じることなくバイクの練習をし、乗り回すことができる格好の機会でもあったのだ。ここでバイクを覚えたことが、その後他の国でも随分と役立つことになる。

そしてまた何よりも、そんなハチャメチャなこの国の状況が、いかにもできたてほやほや感いっぱいでじつに興味深かったのだ。

バイクを自由に運転できるようになると急激に行動範囲が広がった。すぐ町から出られるようになったのがなんともうれしい。
ティモール島は東西に延び、西半分はインドネシア領の西ティモール。そして東半分が東ティモールだ。首都ディリは島の北側の海岸線沿いに位置している。

最初に郊外に出たときは、ぼくらはディリの西へとバイクを走らせた。首都とはいえディリは、中心から数キロも離れればすっかり閑散とする小さな町だ。市街地が終わり草地の中にポツリポツリと家がある一直線の道を走り抜けると、北側、つまり右側にはすぐに海が見えてくる。

第20回遊牧夫婦

右手に真っ青な海、左手には緩やかで緑が生い茂った山地。そして頭上には晴れ渡った空。道は海岸沿いにくねくねと曲がりながら延びていて、たまに国連や外国人の車とすれ違う以外ほとんど人も車も見かけない。景色は平和そのものの美しさに満ちていた。その道を、ぼくは慣れないバイクでかっ飛ばした。

第20回遊牧夫婦

ディリから60キロほど内陸の町エルメラ。 日曜日だったせいか、通りはマーケットで賑わい、 教会では盛大な結婚式が行なわれていた。

村ともいえない小さな集落を通りかかると、子どもたちを中心に誰もが、ぼくらを見て「マラエ! マラエ!(外国人! 外国人!)」と叫びながら走り寄り、笑いながら手を振ってくる。「ハロ!」と手を振り返すとみな大喜び。一方、木も何も生えていない大きな平地があると、そこでは必ず大勢の子どもたちがサッカーに興じている。

そんなのどかな様子を見ていると、人口の3分の1もの人間が殺された弾圧の時代がこの国にあったというのが信じられない気がしてくる。貧しいながらも人々は希望を持っているように感じられた。もちろんそれは、まだ何も実態を知らない旅行者としての印象だとは自覚しつつも、見ていると自然に笑みがこぼれるような光景であることは間違いなかった。

美しい海に惹かれ、途中でバイクを停め、ヨハンとともにシュノーケルをつけて海に潜ったこともあった。すると目の前にはサンゴ礁が広がり、「パチパチパチ・・・・・・」とその呼吸らしい小さく細かい音が耳の中で鳴りつづけた。

自分たち以外誰もいないその海の中を、ギラギラと照りつける強烈な日差しの下で泳いでいると、バンバリーの海でイルカを見ていたころのことを思い出した。あれもすっかり昔のことになってしまったなと少し感慨に浸りながら、しかしいまはいまで、とてつもなく自由で開放的な気分で、澄んだ水の中で潜ったり浮かんだりを繰り返していることを実感した。そして気がつくと、体長1メートル近くもありそうな大きな緑色のウミガメがのんびりとぼくのそばを通り過ぎていった・・・・・・。

海のあまりのきれいさとプライベートビーチのようなひと気のなさに、その後、別の海辺にもシュノーケリングをしに行った。休暇中の国連関係者たちがよく行ったというダラービーチでは、「10回に2回ぐらいはジュゴンが見られる」とイギリス人のダイブショップオーナーが言っていたので期待が高まる。ジュゴンは浅瀬に生えている草を食べに来るらしく、だから砂浜のそばの本当に浅いところで見かけることがあるというのだ。

結局ジュゴンを見ることはできなかったものの、片手に銛を持って舟でジュゴンを探すティモール人を見かけ、遠くにはクジラの潮吹きらしきもの、そして飛び跳ねるイルカの姿も見えた。

シュノーケルをつけて潜ってみると、砂浜から100メートルも行ったところで急激に深くなっていた。これが、一気に3000メートルの深さまで達するというティモール海溝の始まりのようだった(ちなみにこの海溝の付近に石油・天然ガスの埋蔵地があり、その帰属を巡ってオーストラリアとの間で対立が起きていた)。

そしてその辺りで周囲を見渡すと、どこを見ても1000匹以上は軽くいるに違いない無数の魚が、いくつものカラフルなリボンを描いていた。
ベテランのダイバーにも、東ティモールの海は絶品だといわれるようだ。ぼくはダイビングはしないのでよく分からないけれど、しかしシュノーケリングをしただけでもそれは十分にあり得ると思えた。この海が東ティモールを救うかもしれない――そんな気さえするのだった。

この国の美しさは格別に思えた。それは東ティモールが、オーストラリアを出て初めて訪れたアジアの国だったということや、旅行者が極端に少なかったということも関係していたとは思う。それでも、ぼくは一週間も滞在すると、物騒な話はすっかり忘れ、ただただこの国の瑞々しい生命力に魅せられるようになっていた。

第20回遊牧夫婦

ダラービーチ(Dollar Beach)。ジュゴンも出る極上の海。 二度行って、二度ともひと気なし。

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プロフィール

近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。
オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。
旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。
疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

YUKI KONDO

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