第21回 ジョンたちの決勝戦
ヨハンとともに3人でうかれた日々を送りつつも、記事を書くための取材は少しずつ進めていった。ただ、企画が通ったあとで取材・執筆するというのはじつは初めてだったため、うまくできるだろうかという不安が少なからずあってぼくは何気に気が気じゃなかった。
その点ヨハンが身近にいたことはとても助かった。彼はぼくらより1ヶ月ほど前から東ティモールに滞在していて、研究のためのインタビューを重ねていたので、ぼくにとって大きな道しるべとなってくれたのだ。
しかもヨハンの強気な取材方法は、物怖じしやすい自分を後押ししてくれる。驚かされたのは、彼がある政党の代表者だかをインタビューしようと、その人物に電話でアポを取っていたときのこと。まったりとしたキッチンで彼が携帯から電話するのを聞いていると、どうもアポに応じてもらえないようである。するとヨハンはこうまくし立てるのだ。
「なんで、取材に応じてくれないんですか? ああ、そうですか、応じてくれないのなら、フレテリン(与党)の○×からのインタビューだけで、論文を書き上げてしまいますからね。それでもいいんですか? スウェーデンに偏った東ティモール事情が伝わることになりますよ」
驚くほど強気なのだ。もちろん彼が、影響力の大きな新聞やテレビの記者であるなら言わんとしていることは分かるのだが、これは修士論文なのである。電話の相手になんと言われたかは分からないが「そうか、勝手にしてくれよ」と、あしらわれてもおかしくない。
ただ、すごいと思ったのは、ヨハンが大新聞の記者ではなく、ひとりの大学院生としてそう言っているからである。大新聞の記者がそんなことを言ったらヒンシュクを買うだけだろうし、タチの悪い脅しのようにも聞こえてしまうが、修士論文のためのその主張は、ヨハンが、肩書きで相手を説得しているのではなく、自らの研究に誇りを持って取り組んでいることを表しているようにぼくには思えた。なるほど、そのくらい気持ちを込めて取材をするべきなのだろうと、すっかり鼓舞されたのだった。
実際に取材を始めると、思ったよりも人には会いやすかった。偶然出会った人やツテがある人に話を聞いていくというところから始めたが、その方法でかなりさまざまな立場の人と話すことができていった。
まずは、ヘンリーやヨハン、エモンとその友人たちといった身近な人物からざっくりと状況を聞く。と同時に、もうちょっと範囲を広げて、日本料理店のダンナとその店にいた自衛隊員、ダイブショップを経営するイギリス人夫婦などにそれぞれの印象を聞いていく。ここでは、ヨハンが築き上げた人脈にも助けられた。
さらに、ふらりと大学に行けば、学生から話を聞けるし、その流れで大学の先生にも何人かインタビューができた。だんだんと要領がつかめてきて、その後、JICAの駐在員、文部科学省から派遣された日本の役人さん、ジャーナリスト、現地の弁護士、ニューハーフらしい美容師、レストランの店員、服屋さん、などなどと、話す相手はどんどんと広がっていった。
彼らから聞いた話に加え、日々ディリの町を歩き、郊外をバイクで走ることで、自分なりの東ティモール像がぼんやりとだが出来上がっていった。
話を聞いてみると、言うことはみなそれぞれ異なる。
たとえば、「楽観的にはなれないな」と渋い顔を見せるのは、ダイブショップを営むイギリス人夫婦の夫ウェインだ。
「この国の人間は、まだ自分たちが何をすればいいかをわかってない。いま自立することが果たしていいのか疑問だよ。おれは自分のビジネスが心配だ。おれの全財産は東ティモールにあるから、この国が終わればおれも終わりだよ」
と、不安そうなことをいいつつも、ゴツい体を揺らしながら笑っている。彼はもともと戦場を駆け回っていたジャーナリストだっただけあって、そういいつつも、いまの状況を楽しんでいるようでもあった。
「いつ何が起こっても不思議じゃないってのは、でも、魅力的なんだよな。おれはそういう場所で人生を送りたいって思ってるんだ」
まんざらでもない、というわけだ。
その一方で、ウェインの妻アンは、全く逆の見通しを持っていた。彼女もTVジャーナリストとして20年近いキャリアを持ち、当時は、東ティモール観光協会の副代表も務めていた人物だ。
「独立からの2年間でこの国は急速に経済を再建させたわ。もちろん、まだまだたくさん問題はあるし、完璧ではないけれど、未来は明るいと私は思ってるの。ここの海は間違いなく世界屈指の美しさだし、観光業がきっと発展するはずよ。ティモール人はとても強いし、なによりも、すべてが新しいというのは素晴らしいことよ」
完璧である必要はない。あるものでやればいい、できることをやればいい。それでなんとかなるはずだ。アンはこの国とティモール人の強さを信じていた。
夫婦で全く逆の印象を持つこの2人に代表されるように、意見は悲観派と楽観派に真っ二つに分かれる。
先行きを心配する人は、東ティモールはまだ自立する準備が出来ていない、産業だって何もないじゃないか――と、口を揃えた。しかし、明るい未来を想像する人は、2年でここまで来たんじゃないか、この国はこれからなんだ、と前を向いた。
そしてぼくは、話を聞くごとに、この国の抱える問題の深さに「うーん、そうなのか......」と唸ったり、いや、「すごい可能性が広がっているのかもしれない」と明るい気持ちになったりを繰り返していた。
ディリのガバメントハウス(Government House)前でのデモ。 1999年の虐殺や破壊活動の責任者とされるインドネシアの軍人ウィラントの 責任を問うことを求めている(と思われる)。 このころ(2004年)、この国が抱える多くの問題を自ら解決すべく、 多くの若者が立ち上がっているようだった。 |
さて、そうして毎日のように気持ちが揺れ動く日々でのこと。ぼくは、この国の印象を一気に明るくするひとりの陽気なティモール人と知り合った。取材で出会ったわけではない。もともと、何者かは不明だけどちょくちょく宿に現れてまるでじぶんち同然にシャワーを浴びてる男がいる、ありゃいったい誰だろう?――出会いはそんなところだった。
シャワーを浴びたり何かを食ったり、楽しげな用事を済ませると、さっぱりした顔で宿を歩き回り、ヘンリーと談笑する。そしてぼくらに気づくとにこやかに話しかけてくる。
「ハロー、ハロー! アイ・アム・ジョン!」
彼はとにかく陽気で、早口に英語を話す。肌の黒さや短い髪の毛は微妙にカール・ルイスを髣髴とさせる。
歯茎を出して豪快に笑う一方、やたらと低姿勢で握手を求めてくる彼の様子は、一見ただのお調子者、百歩譲ってもやりすぎな営業マンの見本のようで、若干うさん臭げでさえあった。
いったい彼は何者なんだろう。そう思っていると、驚くべきことが判明した。なんでも彼は、サッカー東ティモール代表の監督だというのだ。ほんと? と、にわかには信じられない気もしたが、詳しく聞くうちに、確かにそうらしいことが分かってきた。
東ティモールにとってサッカーは、ひとつの大きな希望である。ちょっとした空き地があればどこでも子どもたちが集まってボールを蹴っていて、サッカーがこの国の人々にとって最大の楽しみであることは一目瞭然だった。
空き地ではどこでも、子どもたちがボールを蹴っている |
貧しくて苦しい生活もボールを追っているときだけは忘れられる――。きっとこの国の人たちにとって、サッカーはそういう存在であるに違いなかった。以前、若者たちの絵画コンテストが行なわれたとき、苦しい時代を乗り越えてきた多くの若者がそこに書く言葉として選んだのが「サッカーこそが人生だ(Football is my life)」というものだったとも聞いた。
とすれば、ジョンはすなわち、この国のもっとも大きな希望を率いている男であるともいえるのだった。
ジョンは東ティモール第2の都市バウカウに生まれた。
いつ生まれたのかは彼自身知らない。たぶん36歳ぐらいかな、とジョンは言う。だが、インドネシア人に父親を殺されたのが1975年、その後、東ティモールを去ってインドネシアへ渡ったのが1979年だということははっきりしている。インドネシア占領時代のことである。
そして、東ティモールよりは生きやすかったはずのインドネシアで選手としてサッカーをしたのちに、指導者を志すようになったのだった。この時代に彼は、サッカーのコーチングを学ぶとともに、英語も身につけた。また、結婚もして子どもも得た。
しかし2001年、インドネシアからの独立を決めて復興の真っ只中にあった東ティモールに戻ることを決意する。妻の父親に「東ティモールには仕事はない。行くな」と反対されたものの、それを聞かずにジョンは、国として独立を果たした故郷に、帰ったのだ。
暗黒の時代を終えてついに希望に満ちた時代を迎えようとしていた東ティモールに帰ってきて、ジョンはこの国のサッカーを育てたいという思いを強めた。それが彼にとって、新しい国づくりへの参加の仕方だったに違いない。
しかし東ティモールはまだ、サッカーのコーチでお金をもらうことを期待できるような状況にはなかった。
そこでジョンは、サッカー指導とともにインドネシアで学んだマッサージの技術によって生計を立てる道を探った。「ジョン・スミス」という名のマッサージ師として、国連職員など、外国人の体をほぐしていったのだ。彼の客には、この国を独立に導いた英雄、グスマォン大統領もいたというのだから、腕は確かと思われる。
が、ぼくはツボを押されたときに痛みで悲鳴を上げてしまった。また、サナナ(グスマォン大統領のこと)は金を払ったことがないと、ジョンは軽くこぼしていた――というのは余談だが、とにかくジョンは、マッサージで生計を立てつつ、無給でサッカーのコーチを始めたのだった。
彼はメキメキとチームを強く育て上げた。そして自らのチームを、最近2回の国内大会の両方で優勝に導くという快挙を成し遂げたのだった。ジョンはまさに、東ティモールサッカーをリードする存在になっていた。幸運なことにぼくらは、そんなジョンにとってとても大切なときに彼と出会えたようだった。ジョンは興奮しながらこう言うのだ。
「5月11日にはもうひとつの全国大会<プレジデント・カップ>の決勝戦をぼくは戦うことになっています。その試合に勝てば、ぼくが東ティモール代表チームの監督になることがほぼ決まるんです!」
つまり、3日後の試合に勝ち、プレジデント・カップの優勝もつかめば、この年の12月、東ティモールが臨む2度目の国際大会である東南アジアのタイガーカップにおいて、ジョンが代表チームを指揮することになることが間違いなくなる、というのだ。
「決勝戦を是非見に来てください! 絶対勝ちますから!」
宿のキッチンのテーブルで、彼はピンクの歯茎を輝かせながらそう言って大きく笑った。そうしてジョンは、ぼくとモトコとヨハン、3人分の決勝戦のチケットまで手配してくれたのだった。
独立2周年記念を9日後に控えた5月11日の午後、ぼくらは3人でディリ市内にあるスタジアムに行った。スタジアムといっても空き地を低い壁で囲んだだけといった代物で、観客席も両サイドに少々あるだけのかなり簡素なつくりだった。
まだ人が集まり出したころに入場し、階段状になった観客席の上の方に席をとる。そしてフィールドを見渡すと、その向こうには、緩やかなカーブを描く緑の山が青空の中にくっきりと浮かび上がっていた。
試合開始が近づくと客席はぎっしりと埋め尽くされた。客席だけではなく、フィールドが見えるあらゆる柱や建物の上も人の姿でいっぱいになり、いつしかサイドラインとエンドラインに沿ってぐるりと、分厚い人の壁ができていた。
大勢が食い入るように試合を見つめていた |
そしてプレジデント・カップという名の通り、客席の中央にはグスマォン大統領の姿も見える。ぼくは初めて見る国家元首の姿に、「おおー、本物だ!」と気持ちが高ぶった。大統領は写真で見た通りのイケメンで、しかも笑顔が優しげな彼は、女性にモテることは言うに及ばず、新しい国のリーダーとして十分なカリスマ性があることを直感的に感じさせた。
その大統領にマッサージ代を踏み倒されたとぼやくジョンが率いるのは、故郷バウカウのチームである。バウカウはディリより120キロほど東にあるが、この日バウカウからは25台のトラックが応援客を乗せてやってきていた。
ジョンはそれだけの期待を背負ってこの試合に臨んでいた。そして、彼自身の将来を切り開くために、この国の人々に希望を与えるために、ジョンは自らの全てを注ぎ込んだ選手たちをフィールドに送りこんだ。
......スタジアムは沸きに沸いた。試合のレベルは決して高いものではなかったが、一つひとつのプレーに、大きな歓声が上がった。
仕事の手を休めてフィールドを眺める少年 |
穴だらけの芝の上で、ボールは鈍い音を発しながら、ときに予測不能なバウンドをする。選手交代の時、退出する選手が交代する選手にすね当てを渡す姿もあった。
あらゆるコンディションがよくないことは、この一試合を見ているだけでもよく分かる。しかし、選手にとっても観客にとっても、そんなことは全く関係ないようだった。この試合こそが、人々がもっとも熱くなれるものに違いなかった。客席では、くたびれきったTシャツを着た子どもたちが懸命に観客に物を売って歩いているが、その子たちも頻繁に足を休めて、試合を眺めていた。
ジョンはこんなことも言っていた。
視察に訪れたFIFAのある人物が、町の至るところでサッカーをする東ティモールの子どもたちを見ながら、「ここはブラジルみたいだ」と言ったというのだ。そして、80万人近い国民の半分以上が15歳以下という驚異的な若さを考えれば、この国の可能性は確かに底知れないのかもしれなかった。(ちなみに2009年現在、東ティモールの人口は100万人以上と推定されている)。
「10年、15年後を見ててください。そのときには日本とも対等な試合ができる国にしてみせますよ!」
ジョンは母国の可能性を信じて指導を続けてきた。そのために多くを捧げてきた。国連の任務終了時期が近づいていたこのころ、国連職員ら外国人が徐々に減るとともにマッサージの仕事も減り、ジョンの生活はますます厳しくなっていたが、それでも彼は練習時の水などを、自分でなんとかかき集めた金で買っていたのだった。そして、そんなジョンに、必要な金の一部を手渡しているのが、宿のヘンリーであることをぼくらは後から知った。
......午後5時半すぎ、試合も終わりに近づいたころ、スタジアムはさらに大きな歓声に包まれた。ジョンたちの勝利を決定づけるシュートが決まったのだ。
ヨハンもモトコもぼくも、思わず手を上げて「うおーっ!」と叫んだ。そして、サイドライン際にいるジョンを見た。黄色のシャツと赤のネクタイで鮮やかにキメていた彼は、喜びを大きくは表さずあくまでもまだ試合に集中していた。が、彼の右手は、確かに目頭を押さえていた。
笛が鳴った。ジョンが勝った。
その瞬間を見届けたほとんどの人が、駆け下りるようにしてフィールドに下りてくる。夕日の中で色を変えつつあった緑のフィールドは、さまざまな色の服を着た観客によって豊かに彩られ、選手と観客の間には垣根もなく、みなが一体になってジョンたちの勝利を祝っていた。
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ぼくらもフィールドに下り、ジョンに「おめでとう!」と声をかけると、優勝カップを持った選手たちとともに満面の笑みでこっちを見た。そしてぼくがカメラを向けると、
「よし、みんな一緒に写ろう!」
と、選手を集めさらに大きな笑顔を見せてくれた。選手の顔を見ると、みな純朴そうなさわやかな若者たちだった。そんな大勢の「弟」たちに囲まれた彼は、その瞬間、誰よりも幸せそうに見えた。
スタジアムには高い外壁もなく、外に立つ何本もの大きなヤシの木と、そのさらに後ろにそびえる山までが見渡せる。その景色と大勢の人間のすべてが、淡いオレンジ色の夕焼けの中に溶け込んだ表彰式の風景は、ぼくにとって、東ティモールの日々の中でももっとも忘れられないもののひとつとなった。
ぼくはこの日、この国の明るく前向きなエネルギーを、垣間見れたような気がした。
勝利を喜ぶジョンと選手たち |
