第22回 独立2周年のディリ
ディリでの日々を特徴づけていたことのひとつは、ゲリラ的に起こる停電だった。時間帯を問わず、突然パチッとすべての電気が消える――って停電なんだからそりゃ当たり前なのだけれど、しかしこれがやたらと頻繁なのである。
日中の停電であれば、ヘンリーが宿の発電機を回してくれる。ぶるるるるーん!とうるさい音が鳴りつつも、とりあえず水は出るようになり、若干弱かったり不安定だったりするものの、灯りも電源も確保できた。
問題は夜だ。とはいえ夜だけはゲリラ停電は起きない。そのかわりに、もっとハードなやつがくる。政府が毎晩決まって計画停電を行なうのである。国をあげてのエネルギー節約のために、ディリ全体が、夜の闇よりさらに深い闇の中に沈みこむのだ。
毎晩となると、ヘンリーもそのたびにガソリンをつぎ込んで発電機を回すほど余裕はないし、もうこれは慣れるしかない。聞いたところでは、金・土は夜中2時から、そのほかの日は深夜12時から停電になると決まっているらしい。実際確かにそんな感じで、それが朝5時ごろまで続くのだ。停電になるともはや何もできなくなるので寝るしかない。もちろんゴキブリ対策の扉の隙間埋めも停電前に済ませておく。
しかしなんといっても、夜の停電がキツいのは、部屋のクーラーが消えてしまうことである。
南緯8度に位置するディリの夜はひどく暑い。しかもマラリアなどの危険も皆無ではないため窓は開けられないし、蚊帳も使わなければならない(蚊帳は何気に熱をためる)。クーラーが使える時間に寝てしまうようにはしていたが、猛烈な熱帯夜をいなして朝まで目覚めずに寝続けるのはかなり難しい。
また、この計画停電のもうひとつの問題は、冷蔵庫が役割を果たさなくなることだ。この蒸し暑い環境で毎晩数時間も停電になると、食料は冷蔵庫に入れても一夜明けるとバタバタとやられてしまうのだ。
モトコがその犠牲となったのは、ジョンの試合を見に行った2日後のことである。キッチンにあるシースルーの冷蔵庫に入れておいたサラミを食べたあとに、激しく体調を崩してしまったのだ。そんなに古いものではなかったため、停電によって悪くなったことが疑われた。
夜中、腹痛がひどくなり、ゴキブリが駆け回るトイレへ通いつつ苦しんだものの、翌日モトコの体調は悪化し、熱も出ていた。マラリアの可能性もありえたので、これは侮れないぞと病院に行くことにした。
万全を期して、何日か前に知り合った文部科学省から派遣されている日本人の方に相談の電話をすると、ありがたいことにすぐに国立病院に連れていってもらえることになった。宿からそう遠くないその病院に車で連れて行って下さり、すぐに血、尿の検査。そして薬をもらった。非常にベーシックな検査だが、あとでぼくが検査結果を取りにいくととりあえずマラリアではなさそうなことが判明し、ほっとした。そして同時に、犯人がサラミに確定したのだった。
ちなみにその病院は、先進国医療しか知らない温室育ちのぼくらから見ると、少ない資源を駆使してワイルドな治療を展開する野戦病院のようなイメージだったが、チェックの厳しいモトコが体調が悪いながら気になっていたのは、ワイルドな医療環境よりも、顔に傷を負って隣のベッドだかに寝ていた女性の姿だったという。
あとから聞いたところでは、この国では、DV、すなわちダンナから虐待を受ける女性の例が少なくない、ということだった。街なかでは特に感じられなかったが、この国でももしかすると、女性は生きづらいのかもしれない。
いずれにしてもそんなわけで、停電は間違いなくぼくらのディリライフにおいて無視できないスパイスとなっていた。
しかし、である。
サラミ事件の翌日のこと。なんとその夜、停電が起きなかったのだ。そのため快眠をむさぼったぼくらは、次の朝は気分よく目覚めることができ、起きてみるとモトコの調子もすっかり回復していたようだった。そして快適な夜に気をよくしつつ、どうしてだろう、と考えていると、だんだんと理由が分かってきたのだ。
この日は5月15日、独立記念日の5日前。どうもこのころから、「インディペンデントウィーク」すなわち独立記念日間近のお祝いモードに入ったようだったのだ。そしてこの日を境に、しばらく夜の停電はなくなったのである。国全体が2周年に向けて盛り上がっていることを、ぼくらは停電の一時休止によってまず実感することになったのだ。
数日後に記念日を控え、ディリの町は確かに活気付いていた。町の中心に位置する政府庁舎のすぐ隣には赤い平屋の美術館があったが、その前の広場で連日、歌や踊りが披露されるようになった。
記念日当日、海辺で踊りまくる地方の村人たち |
お祭りムードを横目に、子どもたちは記念日当日も働き続けた |
夕方ごろから町の人が広場に集まりだし、そこに植わっている一本の大きな木を中心に、にわかに小さなライブ会場となる。照明によって輪の中心が照らし出される中で、色彩豊かな民族衣装を着た女性たちが踊り、きっちりしたシャツを着たちょっと緊張気味の少年少女が合唱した。そのそばで両肩からミカンやバナナをいっぱいさげてキリリとした顔で歩き回っている子どもたちも、ふと足を止めて踊りや歌に目を向けて、そのときばかりは幼い子どもの表情に戻った。その子たちが、つかの間のお祭り気分に浸りつつもすぐ仕事に戻る姿が印象的だった。
一方、その美術館では2周年を記念する展覧会が開かれていたので見に入ってみると、展示された絵画の多くに、ティモール人の痛ましい記憶がリアルに描かれていることに驚かされた。複数のキャンバス上に鮮やかな色彩で、人の死、頭蓋骨、レイプされる女性、墓場などが描かれていたのだ。
美術館に展示された絵は、ティモール人の記憶を生々しく描き出す |
明るい未来を思わせるものもあったが、全体としては明らかに、いまだ生々しいこの国の悲しみや苦悩が静かに溢れ出ていた。この国で起きた惨劇はまだ全く過去ではないのだ。
政府庁舎や美術館は海沿いにあり、すぐ正面には青々とした海が広がっている。海岸はいつもは静かだったが、このころには、2周年を祝うために山奥から下りてきた人たちのテントでいっぱいになっていた。民族衣装を着て、村人みなではるばるディリまでやってきた、という風情の人ばかりだった。
その大勢のティモール人たちも、記念日を待ちつつ、思い思いに踊ったり、楽器を演奏したりして、お祭りムードを堪能していた。海辺はにわかに民族衣装のデパートようになり、ジャカジャカジャカジャカと、彼らのリズムと足音が鳴り響いた。
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一緒に連れてこられた子どもたちは、青空の下で素っ裸になって海に入り、はしゃぎながら暑さをしのぎ、浅瀬の海には多数の幼い頭がウキャキャキャーと楽しげに上下する。また、やはり一緒に連れてこられたヤギなどの動物たちは海のそばで杭に結び付けられ、なれない土地で「することねーよ」とでも言いたげなクールな顔でたむろしていた。
そのどの様子を取ってみても、これまで見なかった光景であり、独立2周年という日へ向けてのこの国の興奮と喜びが伝わってくるような気がした。
一方で、国際的にも注目されるこの記念日を機として、オーストラリア大使館の前では大規模なデモが行なわれた。それは、オーストラリアとの間の海(「ティモールギャップ」と呼ばれる)に眠る石油・天然ガス埋蔵地の所有権を巡る両国の争いに関するものだった。
オーストラリアは、東ティモールが独立する前にインドネシアとの間で取り決めた条約を根拠にその豊富な海底資源の広範な所有権を主張していたが、東ティモールはそれには納得していなかった。が、オーストラリアはこの件について話し合いを迅速に進めようとはせず、その間に1日100万ドルずつ自国の利益が奪われていると東ティモールは訴えていたのだ。(結局2006年に、東ティモールの所有権を拡大する条約が結ばれ、折り合いがついたようである。)
大使館の前では、大勢の、より都会的な若者たちが、Tシャツにジーンズをはき、"STOP STEALING OUR OIL(私たちの石油を盗むな)"などと書かれた横断幕や旗を持って行進し、マイクを持って主張を繰り広げていた。
独立記念日前日のオーストラリア大使館前のデモ |
さまざまな問題や苦悩を抱えているとはいえ、新たな時代の幕開けとなる独立2周年目前のディリは、未来に向けて動き出そうとするエネルギーで溢れているように見えた。街のいたるところにその明るさを感じたのは、決して停電しなくなったためだけではなかったはずだ。
ただ、ぼくはときに、ヘンリーの「何かあったら銃をぶっぱなせばいい......へへっ」といった言葉を思い出していた。2周年の当日に、またはその後に、このお祭りムードを一気に覆してしまう深刻な出来事が起こるのかもしれない。そんな若干の不安もまだどこかにないこともなかったが、平和で穏やかな笑顔に満ちているこの町の様子を見ながら、いや、そんなはずはない、といつも思い直していた。そして記念日当日、とりあえずこの日については、それは杞憂だったことが分かったのだった。
2004年5月20日のディリはよく晴れていた――。
真っ青な空の中に、くっきりとその境目が分かる真っ白な雲がポツリポツリと浮かんでいる。その白色の存在が、空の青さをむしろはっきりと浮かび上がらせてくれるような、そんな気持ちのいい日となった。
9日前にジョンが大歓声の中で勝利をつかみ取ったスタジアムでは、朝から記念式典が行なわれた。フィールドには、選手のかわりに迷彩服の軍人と青い制服を着た警察官がずらりと並び、要人たちもスタンド中央に並んだ。そして、赤を基調として星一つが描かれた東ティモールの国旗がゆっくりと揚がっていった。
誰でも入れるオープンなこの式典は、ジョンの試合ほどは人を集めてはいないようだったが、参加者が真剣に見守るなか、厳粛に進んでいく。その様子をぼくも、この国を身近に感じながら静かに眺めていたが、しかしもっとも印象的だったのは、行進中の軍人や警備中の警察官らが暑さに耐えられず次々に倒れていく姿だった。
確かに暑かった。そして確かに、この蒸し暑さであの長袖の迷彩服は暑く辛かったのだろう。でもそれが、「あ、倒れた」と思ったらすぐにまた「お、あの人も?」という勢いだったので、失礼ながら笑えてしまった。それがいかにも新しい国といった様子で微笑ましかったのだ。
式典の最中に暑さにやられ、運ばれる警察官 |
スタジアムではその後ライブが行なわれ、厳粛な式典は、賑やかなイベントに変わっていった。午後には日本の自衛隊の面々も踊りを披露した。
また、海沿いのテントの様子を見にいくと、民族衣装をまとった大勢の村人たちは、前日までの「リハーサル」の成果を存分に出すべく、砂埃をあげながらステップを踏んで楽しそうに踊り、楽器を高らかと打ち鳴らした。その中で、大人も子どもも笑顔を見せ、周囲はその様子を眺めて楽しむディリの人々で溢れていた。
どこもかしこも、陽気さに満ち、結局この日、心配していたようなことは何も起こらなかった。だからもちろん、ヘンリーの銃が火を噴くこともなかった。
そんな平和な空気で満たされたディリの町を歩きながら、ぼくはこの国で見てきたさまざまな風景を思い出していた。そしてぼくは、この国は貧しくとも、決して悲愴感はないという思いを強くしていた。自分がたった数週間、この国のほんの一部しか見ていないことを自覚しつつも、ぼくはティモール人と接すれば接するほどそう感じるようになっていった。
ディリには物乞いはほとんど皆無といってもいいし、笑いかけると多くの人が多少照れくさそうに優しい笑顔を見せてくれる。ディリから離れた小さな集落にいけば、子供も大人も誰もが元気に手を振りながら声をかけてくる。そしてまた、人々の服装がカラフルできれいであることに目を奪われたこともあった。特にある日曜日、山奥のいくつかの村で見た、村人が列をなして教会に行く姿は、なんともいえず美しいものだった。そこには無数の色彩があり、笑顔があり、希望があり、また誇りがあるように見えた。それは決して、どんな些細なものにもすがりついて生きなければならないような人々の姿ではなかった。
ディリのある服屋の女主人アリスはにこやかにこう言った。
「いくら状態が悪いとはいえ、私たちは飢えてはいないんです」
アリスはポルトガル人の父親とティモール人の母親との間にマカオで生まれ、その後、東ティモールでも生活したが、インドネシア支配の苦しい時代は20年ほどにわたってオーストラリアで過ごした。そして、独立の前年1999年に東ティモールに戻ってきてコーヒーショップを開くところからディリでの生活を始めたのだった。
「はじめは雇ったティモール人に古い服などをあげていたけれど、2ヶ月もすると、古い服はいらない、自分で買う、ってみな言うようになったの。ティモール人はとてもファッショナブルだし、この店にも若い女の子がよく来るのよ」
貧しいとはいえ、確かにこの国は、飢えるほどの状況にいるわけではないのだ。
東ティモールの厳しい現状に対して、ある人は「もう2年も経ったのに」といい、別の人は「まだ2年しか経っていないのだから」と言った。町の人、大学の講師、研究機関の専門家、ビジネスを展開する外国人、食堂で働く女性、ただ通りに座る人などいろんな人にこの国の状況について聞いていくうちに、「まだ2年と見るか」それとも「もう2年と見るか」、その捉え方によって、同じ事実から全く異なる思いが生まれていることに気がついた。
学生を中心としたデモに参加していた一人のティモール人弁護士は、状況の厳しさを認識しながらも、それらの問題の行方が自分たちの力にかかっているという事実をむしろ情熱に変えていた。
「私たちの政府は、悪戦苦闘しているけれど、よく頑張ってくれていると思います。まだまだ足りないことばかりだけれど、私は先行きは明るいと感じています。そして今、こうやって自由な発言ができることがなんともうれしいんです。しかしただ叫ぶだけではなくて、私たちみんながもっと自らこの国の将来について考え、提案していかなければならないんです」
多大な苦難がありながらも、独立できたという事実を喜び、覚悟を決めてこの国の立ち上げに尽力する人々が大勢いた。そんな彼らを見ているうちに、いつしかぼく自身も、「まだ2年じゃないか」と考えるようになっていった。
そう、東ティモールはこれからなのだ、と――。
