遊牧夫婦

第23回 もう二度と会わないだろうけど

みなさま、あけましておめでとうございます!
昨年末は、娘の誕生でお休みをいただいたあと、天皇誕生日、年末休みと続いたことからちょっと間が空いてしまいましたが、今日から旅が再開します。2004年の東ティモールへと一緒に記憶を戻していただければ幸いです。
今年も『遊牧夫婦』をどうぞよろしくお願い致します!

ディリ全体が揺れるほど盛り上がった2周年記念の翌日、市内はいかにも祭りの後といった様子で急に閑散としたように見えた。海辺のテントも民族衣装の人々も、すっかりその姿を消した。リアカーを転がしてココナッツを売る行商人などもいるにはいるが、どことなくけだるそうで、労働意欲は薄そうだった。

そして特に、外国人の姿が少ないのが印象的だった。みな飲みすぎて自宅でグダグダ過ごしていただけなのだろうけど、静まり返った街の様子は、この日を境に多くの外国人が東ティモールでの仕事を終え、それぞれの国に帰っていくという事実を象徴しているかのようだった。

ただ、2周年の記念日で任務を終えることになっていた国連東ティモール支援団(UNMISET)は、東ティモール政府の意向に沿って、最大1年の駐留期間延長が決まった。規模をぐっと縮小させるもののその一部はとりあえず残ることになったのだ。

ちなみにその後のことを言えば、UNMISETはその期限いっぱいまで駐留し、独立3周年を迎えた2005年5月20日で任務を終了した。今度こそUNMISETは本当に仕事を終え、東ティモールは本格的な自立の第一歩を踏み出したのである。

しかし、だからといってそのときに東ティモールが十分に自立の準備をし終えていたというわけではない。

2006年には、国軍兵士内部で西部出身の兵士が、東部出身者よりも待遇が悪いことに抗議するストライキを起こした。それを発端に、ストを支持する派と鎮圧する派にわかれて大規模な衝突が生じ、各地で暴動が発生し大混乱となった。そして無政府状態となった東ティモールにオーストラリア軍が展開して制圧するほどの事態となってしまった。

さらに2008年2月にはときのラモス・ホルタ大統領(ノーベル平和賞受賞者)とグスマォン首相(独立の英雄。サッカー監督ジョンがマッサージ代を踏み倒されたとぼやいていた彼)が襲撃され、大統領が重傷を負うという事件まで起きた。

それ以降は一応安定しているようだが、東ティモールは、いまもなお不安定要素をいくつも抱えながらなんとか国づくりを進めているといった段階なのだろう。

さらについでに監督ジョンの話をすれば、彼はプレジデントカップで優勝を手にした後、やっとサッカーでお金をもらえるようになったと喜んでいた。月250ドル。代表監督に就任するゆえの給料なのだろうとぼくは考えた。彼にとって大きな飛躍に違いなかった。

しかし、である。2004年12月に行なわれた東南アジアのサッカー大会、タイガーカップが行なわれたあと、結果がどうなったかとネットで調べてみると、意外なことにジョンは代表監督には選ばれなかったようだった。そして東ティモール代表は、タイガーカップでは全敗していた。プレジデントカップで優勝したジョンがなぜ、記念すべき東ティモール初の国際大会で代表監督に選ばれなかったのかは分からない。ジョンの連絡先も知らないいま、ぼくはただ、インターネットで分かることを知ることしかできないでいるが、ただ確かなのは、東ティモールがいまもFIFAランキングでは、最下位近くに定着しているということだけだ。

さて話は、2004年、独立記念日の翌日に戻る。

祭りが終わって外国人が姿を消していくなどと他人事のように書きながら、自分たちもまた消えていく外国人であるに違いなかった。独立記念日が無事に終わると、ぼくもさあ記事をまとめるぞという段階になり、東ティモール滞在も終盤となっていく。

そして出国ムードが高まる中、ぼくらは記念日の2日後、前から行こうと話していたアタウロという離れ小島へ、最後の東ティモール国内小旅行としてヨハンと3人で行くことにした。

よく晴れた朝、ディリの港から大量の米袋とともに小ぶりのフェリーに詰め込まれて島に向かった。途中、数十頭のイルカの群れを横目に、「おお、あれはシャンティじゃないの?」などと、バンバリーのイルカたちを思い出したりしながら、3時間ほど揺られて、島に着いた。

アタウロでは、西洋人女性がやっていたエコな宿、すなわち環境や現地の人への配慮を重視した心地よい宿に泊まりつつ、シュノーケリングをしたり(浅すぎるのかここでは大した魚は見られなかった)、島を歩き回ったりしてまったりと過ごした。

しかし島で一番時間を割いたのは、ヨハンとともに宿の部屋で熱中した「スクラブル」だったかもしれない。スクラブルとは、英語圏きってのベストセラーボードゲームで、長年欧米の家庭を賑やかにしてきた、クロスワードパズルのようなゲームだ。手持ちのアルファベットを並べて単語を作っていくことで得点を競うのだが、ネイティブ張りの英語のヨハンにはかなうはずもない。外はすぐに砂浜という半屋外の竹製の部屋で、ゴロリと寝転がって海風に当たりつつ、「うーん、もう1回!」といいながら、何度も2人してヨハンに一蹴されたのだった。

遊牧夫婦 第23回

アタウロの宿の部屋からの眺め。しかし海よりもスクラブルに熱中してしまった。

ところでその宿にはジョージとキャサリンという西洋人カップルも泊まっていた。ともに知的な雰囲気をかもし出した人物で、確かジョージはポルトガル人で、女性のキャサリンはカナダ出身。そしてこの2人の両方もしくは片方が、東ティモール・オーストラリア間の地下資源の所有権を巡る交渉において東ティモール側の弁護士をしているということだった。

ぼくらは彼らと食事を一緒にしたりしたのだが、日記を読み直すと、キャサリンについて「うざそうだった」とあえて特筆してあるのが目に付いた。日記でわざわざそんなことを書いていることはほとんどないので、ぼくはかなり彼女とそりがあわなかったようで、思い出すと、黒目黒髪のラテンな彼女は、確かに鼻持ちならないやつだったなという記憶が蘇ってきた。彼女のエラぶった態度に、「チクショー、思いっきり日本語で言い返してやりてえ・・・・・・」と歯噛みしつつも、思わず笑顔で対応してしまったりするすこぶるジャパニーズな自分に嫌気が差したりしたものだった。

そして、キャサリンの顔とともに思い出すのは、スクラブルに興じるぼくら3人のすぐ隣のコテージで、日中から豪快にヤりまくっている彼らの音声である。中学生じゃないんだからいちいち反応するなよ、と自分自身に突っ込みたくなるが、ヨハンをうならせる英単語創出に知恵を絞っているぼくの頭に、キャサリンの盛り上がる声がやたらとクリアに響き、集中力をそがれたのが妙に印象的なのだった。自分のスクラブルの弱さをキャサリンのせいにするわけではないけれど。

キャサリンの声とスクラブルのボードがまず思い浮かんでしまうこの島の日々は、いったいなんだったのかよく分からないが、とにかく2泊、そうしてのんびりと過ごした。

そして島からの帰りは、地元漁師のボートで4時間かけてディリに戻った。砂浜の近くまでやってきた古い木製のボートに乗って朝10時半ごろアタウロを出発したのだが、ボートに乗るあたりから、ぼくは頭痛、だるさに襲われ、乗ってからは船酔いにも急襲された。

海原をゆらゆらギコギゴと進む船の甲板には、「UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)」のマークの入った青いシートが、日よけのために上にかけられていたが、その下で、ぼくもモトコもぐったりとして寝入り、ディリに到着するのをただただ待った。そして、すでに我が家のようになったヘンリーの宿に帰り着くと、ぼくは熱を出してすっかりダウンしてしまった。

翌日は、パッとしない体調をおして、ああだこうだとうなりながら原稿を書きすすめた。また、宿に来たジョンにマッサージをしてもらったり、宿スタッフのリタの家に遊びにいったりして過ごした。

遊牧夫婦 第23回

宿のスタッフのリタの家。 がらんとしたタイル敷きの部屋が印象的。

そして日が暮れ、夜になると、突然パチッと暗闇がその姿を現した。停電が再び帰ってきたのだった。
祭りもこれで終わりだ。ティモール人はこれから現実の生活に戻され、ぼくたちもまた旅に戻っていく。久々の停電が、そう告げているようだった。

そうして、いよいよ旅立ちムードが充満し、友人たちやお世話になった人たちへの別れもすませ、独立記念日の8日後の5月28日、ぼくらはついに東ティモールを出ることになった。西の国境を越えて、インドネシア領である西ティモールへ入るのである。

このころまでに、ぼくたちは2人とも、東ティモールに強い親しみを覚えるようになっていた。ここで出会った人それぞれが身近な存在になっていた。オーストラリアにいたころはこの国へ行くことへの不安を隠さなかったモトコも、いつしかもっといたいと言うようになった。

その上、インドネシアによる東ティモール弾圧の話をいろいろと聞いていたために、「東ティモール=善、インドネシア=悪」といったとても単純な二項対立が無意識のうちに頭の中にできてしまって、そんな思いが、東ティモールを離れることをさらに寂しく感じさせた。

ただし、その単純な二分法が決して正しくないことはもちろん分かっていた。それは、ある国を旅していい思い出を獲得したときの旅人が持ちうるその国への偏愛の美しさであると同時に、結局表面をさらっとなでる程度にしかその国を知ることができない旅人の薄っぺらな感慨でしかないのだ。

いずれにしても、ガタガタいってないで先に進むしかないのは確かであり、ぼくらは年貢の納め時といった気持ちで、西ティモールへのバスのチケットを買ったのだった。

出発の朝、宿のオーナーであるヘンリーは、荷台のついた小さなトラックで、ぼくたちを送ってくれた。見慣れた庭を出発し、毎日歩いた道路を走って砂けむりをあげ、ガタゴトと車体を揺らしながらトラックはバスの出発場所へと向かった。

窓の外では、子どもが果物を肩から下げて歩き、男たちがビーチサンダルでバイクに乗っている。4週間前は新鮮だったその風景が、いつしかいまもっとも自分にとっても身近な風景になっていることに気がついた。そして同様に、この4週間でもっとも身近な人物の一人となった男が、いまぼくらを新たな国へと送り届けようと隣でハンドルを握っているのだった。

バス乗り場にまもなく着こうかというとき、その男、ヘンリーは、口の周りをきれいに囲むヒゲを動かしてすこし寂しそうに笑いながらこう言った。

「きっともう二度と会わないだろうけど、元気でいろよな」
 
彼のその言葉を聞いて、ぼくはとっさに、いやまた会えるよ、会いに戻ってくるよ、と言おうとしたが、そう言うことの空しさと無意味さに、言葉を押し殺した。
もう会わないだろうとストレートに告げてきたヘンリーの前では、社交辞令のような言葉はただ白々しいだけのような気がしたのだ。

ヘンリーも、先のことを何も決めずにふらふらと生きている男だった。彼もその3年前にオーストラリアをバンで旅し、大陸北端のダーウィンにたどり着いたときにたまたま東ティモールでの仕事の話を耳にして、面白そうだと思ってこの国にやってきたのだといった。4ヶ月の契約だった電気技師か何かの仕事を終えたあとも引きつづきこの国にとどまり、2002年の東ティモール独立の8ヶ月前にこの安宿を開いた。

そうしてこの国のスタートとともにディリに根をはり始め、徐々に生活の基盤を作り上げてきたのだった。とはいえ何か明確な目的があってディリに暮らしているわけではない。彼にとって、少なくとも意識の上では、この国が一時的な住まいでしかないことは確かだったはずだ。

そうやって流れるように生きてきた彼にとって、「また会おう」などという言葉より、「もう二度と会えない」と言うことの方がリアリティがあったに違いない。だいたい、数年後、お互いどこに住んでるかすらも全く分からない状態なのだから。

遊牧夫婦 第23回

ヘンリー。出発の朝、ぼくたちを送ってくれる前に、宿の庭で。

次の国に行けばまた新たな出会いがあり、この瞬間の記憶は他の記憶によって塗りつぶされていく。通過した場所を懐かしむより、まだ見ぬ未知の世界に思いを馳せるんだ。旅とはそういうもんなんだ、それでいいんだよ――ヘンリーはそうぼくたちに告げるかのように、シニカルだけれど包み込むような温かな笑顔でぼくらを送り出してくれたのだった。

ぼくもモトコも、いつか必ずこの国に戻ってきたいと思っていた。が、その気持ちをただ心に秘め、ヘンリーの小さなトラックを降り、荷台に積んだバックパックを下ろした。そしてぼくたちはその場に荷物を置いて、今度はヘンリーを見送った。ヘンリーの車はガタゴトと車体を揺らし、朝のキリリとした香りが漂い始めたディリの街なかへと、再び戻っていった。
そのときぼくらのディリの日々は、確かに終わりを告げたのだった。

朝8時半。銀色に輝くきれいで新しいマイクロバスに、10人ほどのティモール人やインドネシア人とともに乗りこんで、ぼくたちは西の国境へと出発した。

いつも通りよく晴れた空のもと、右手には青く美しい海を望み、左手には熱帯らしい緑に包まれた山や丘が広がっている。掘っ立て小屋のような粗末な家々が通り沿いにポツポツと並び、子どもたちはやはり空き地でワイワイと声を上げながらサッカーに興じていた。何度か「UN」と大きく書かれた迷彩柄の車とすれ違った。

そんな見慣れた風景を目と心に焼きつけながら眺めていると、2時間ほどで、道の両脇に小さな商店が並ぶのどかな一角にたどり着いた。それが国境だった。

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東ティモール・インドネシアの国境。 出国手続きを終えてこの道の先のインドネシアに向かう。

バスを降りて、東ティモール側のプレハブのような出国審査場で出国手続きをすませ、数百メートルほどの二国間の「ノーマンズランド(No Man's Land)」すなわち緩衝地帯を歩いてインドネシア側に向かう。右手には背の高いヤシの木の間から青い海が見え、左手には緑の山が広がっていた。ヤギたちは、相変わらずビクビクしながら機敏に方向転換しながら歩き回っている。空はどの方向を見ても均質の青で、国境を越えても景色は何も変わらない。
しかしこれから、言葉も通貨も歴史も異なる別の国となるのだ。

「SELAMAT DATANG DI INDONESIA
WELCOME TO INDONESIA」

ようこそ、インドネシアへ――。インドネシア語の書かれた看板に迎えられ、ぼくたちは、ハットリバー公国を除けばこの旅で初めての陸路の国境を越えたのだった。

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プロフィール

近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。
オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。
旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。
疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

YUKI KONDO

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