遊牧夫婦

第24回 したたかなバリの両替商

第24回遊牧夫婦

ディリ(Dili)とクパン(Kupang)とバリ・クタ(Bali・Kuta)の位置関係

海とヤシと少々のヤギに囲まれた国境を越え、ぼくたちはインドネシア側の西ティモールに入った。

東ティモール独立2周年にからんで国境付近は不安定で、盗賊やらが出るかもしれないといった話もあったものの、それも杞憂に終わり、バスは西ティモールの西端の町クパンに向かって軽快に飛ばしていった。

ディリから乗っていた銀色に輝くきれいなバスは国境までで、インドネシア側に入ると別のバスに乗り換えとなった。今度のバスも比較的きれいだったが、外見はわけのわからない派手なブルゾンのようなデザインで、赤と緑とオレンジの微妙なカラーリングが際立っていた。
 
昼前、国境を越えたころは晴天だったのだが、徐々に天気はくずれ、夕方には激しい雨になった。大粒の雨は、道の両脇を埋め尽くすうっそうとした熱帯の木々の硬く大きな葉にぶつかって、バババババッと大きな音を立てて砕け散る。

雨が強いのみならず、道もクネクネのグニャグニャなのに、運転手はやたらと飛ばす。座席からは、ドン、ドスン、という振動がモロに身体を突き上げる。それが何時間も続く。ぼくは久々にバス酔いし、苦しい道のりとなった。

しかし、道中がきつかった理由は、天候や運転のせいばかりではないように思えた。東ティモールを出てインドネシアに来てしまったという事実が、必要以上に気分を浮かなくさせていたのだ。ディリのすべてが懐かしく、インドネシアという国に対しては、妙な先入観や警戒心が完全に先立ってしまっていた。

クパンに着いたのは、夜8時すぎ。ディリから計13時間。
すでに真っ暗で、町の様子はほとんどわからない。乗客の多くは、市街地に入ってから運転手に「うちはあの売店の角を曲がった3軒目だよ」などと告げる。タクシーのような感覚で家まで送ってもらっていた。

長旅を終えた乗客がバスを降りて、「パパ、お帰り~!」などと喜ぶ家族と再会する様子を車内から眺めていると、自分もほんわかした気分になってくるが、ノンキにうかうかしていると自分たちだけが置いてけぼりにされそうな気配もあった。しかし泊まる場所は決めてなく、いったいどこで降りていいものやらさっぱり分からない。そこで、前の席に座っていた男性に、どこか安くていい宿はないですか、と聞いてみると、

「マヤ・ホテルに泊まるといいよ。いいホテルだよ」

とホテルの名前を教えてくれた。そして、「この外国人をマヤの前で下ろしてやってくれ!」と運転手に伝えてくれたのだ。男性が、値段は安いのに快適なホテルだというので、ひどく疲れていたぼくらは少し期待を膨らませた。

ところが、バスを降りて目の前に現れたマヤ・ホテルは、じつに怪しげだった。夜なのにほとんど電気もついていなく、まるで忍者のように巧みに暗闇に同化してしまっているのだ。おいおい、大丈夫かよここは、と思いつつ入っていくと、内部もやたらと薄暗い。「おーい、誰か~」と雄叫びを上げると、ようやく奥から気の抜けたスタッフが現れる。そして案内されたのは、薄汚い毛布と独居房のようなトイレがチャームポイントの、陰気な印象満点の部屋だった。

そうして文句をたれつつのインドネシア初日の夜。畜生、インドネシアめ、などと理不尽な悪態もつきたくなり、ベッドに横になってからも、ディリでヘンリーやヨハンたちと過ごした日々が懐かしく思い出されて仕方なかった。

翌朝もいまいち気持ちが乗ってこない。西ティモールのクパンを探索する意欲も全然沸かない。そして朝食のあとにわずかに町を歩き回っただけで、「よし、今日バリまで飛んじゃおう」と2人の意見が一致した。

ティモール島は、17000余りの島々からなるインドネシアの中でも最も東に位置している。そしてバリ島はティモール島からだいぶ西に行ったところにある。じつはこの両島の間にこそ行きたい島々が複数あったので、ティモールから島伝いに少しずつ西へ進もうと思っていたのだけれど、とりあえず先にバリに行って、それらの島々にはまた後で戻ってくることにした。すでに気分はすっかり、バリでダラダラいかせて! という感じになってしまっていたのだ。

ところで、ディリを発つ直前に、ヘンリーの宿でエドメというオランダ人と知り合っていた。彼もまた、年単位の長旅をしていたが、「ぼくは毎日、味噌汁を飲まないといられないんだ」といって、インスタント味噌汁のパックを常に携帯している味噌汁大好き男だった。そして彼はインドネシア滞在も長く、なぜか味噌汁と同じくらいクパンを愛する、クパン大好き男でもあった。

そのエドメが、「クパンに着いたらL'Avalonという店のエドウィンを訪ねてみな」と言っていたので、マヤ・ホテルで目覚めたその日、早速訪ねてみた。店は海のそばにあり、「海の家」のような印象の掘っ立て小屋的なバーだが、ネットもでき、旅行代理店でもあった。エドウィンはバーのオーナーらしく、ワイルドなラッパー風な男だった。そのエドウィンが、

「ヨウ、おれが何でも助けになるぜ、ヨウ、ヨウ!」

といったかどうかは記憶にないが、ノートパソコンでネットはできるかと聞いてみると、LANケーブルが不調だったのか電話回線を使わせてくれた。そして、ダイヤルアップでネットに接続し、エドウィンの助けを借りつつ、オンラインでバリ行きの飛行機のチケットを取ることができたのだ。

いつものことながら、インドネシアの果ての島の小さな小屋から世界とつながっちゃうとは、なんて便利な時代なんだと驚かされる。97年、東京・キャンベラ間でさまざまなアナログ手段を用いてモトコへ連絡を試みた「ストーカー」時代がもはや旧石器時代のように思えるほど、日進月歩で技術が進化していることを感じるのだった。

そうしてぼくらはさっさとクパンを脱出した。ディリを出た翌日の午後2時20分ごろ、バリ行きの飛行機でティモール島を後にした。赤道と平行に西へ飛び、夕方には飛行機はバリ島南部の空港に着陸。そして空港を出てすぐに、ぼくとモトコは大きなバックパックを背に、バリきっての賑やかな繁華街、クタへと向かった。

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クタの路地はこんな感じ。朝のためがらんとしているが、日中から多数の人でごった返す。

クタまでミニバスで行ったのかタクシーで行ったのか、記憶は定かでないのだが、とにかく着いて降りてみると、迷路に迷い込んだかのような入り組んだ路地と、びっしりと並ぶ安宿とみやげ物屋の数に圧倒された。もちろん、人も溢れている。

東を見れば、タンクトップ、ビーサン姿のデカいオージーが「グダイ、マイッ!」とにこやかに闊歩し、西を向くと、日本人の女性観光客グループが、客引きたちの「コレ、ヤスイヨ! イクラ? イクラ?」という日本語を聞いて笑っている。

そして北には、「おれはアーティストなんだ、よかったらおれの絵を見てくれよ」と、夕日が沈むバリの海を描いた鮮やかな絵を、クールな顔つきで見せてくる男がいる。と思ったら、今度は南から、「ぼくは絵描きなんだ、見てってくれ!」と、北の男のとウリふたつの作品を持った輩が現れる(結局、アーティストと称するほとんど全員が同じ絵を自分の作品と言って売っていた)。

狭い通りはあらゆる場所が工事中で、さらに狭まった道を通行人はトリッキーに歩くことを強いられる。その横を、バイクがブルンブルンいいながら排気ガスをモクモク上げて、列をなして走っている。

そんなバリの雑然とした賑やかさを前に、ティモール島の風景とのあまりのギャップに、やっぱり一気に飛びすぎたかな、という気持ちは多少あった......いやいや、ここは正直になろう。本音を言えば、久々の、そんな祭りのような浮かれた空気にすっかりうれしくなっていた。「おお~、こういうのも悪くねー!」と、インドネシアに対する負の先入観はさっと影を潜め、リゾート気分に切り替わった。たとえるなら、数ヶ月に一度ぐらい、むしょうにビッグマックが食べたくなる感覚に近いかもしれない。ちなみにモトコはぼくほどは浮かれていなかったはずだ。

泊まったゲストハウスは、クタの中でも特に賑やかでごちゃごちゃした地区にあった。
2人で1泊600円程度で、シンプルだけれどテラスもあるような快適な部屋を占拠でき、朝には簡単な朝食が部屋に運ばれてくる。ぼくらは、持っていた小さなスピーカーをMDプレーヤーにつなぎ、ジャック・ジョンソンをかけながら毎朝テラスでトーストとコーヒーの朝食を食べてくつろいだ。ジャックに "Slow down everyone..."と助言されるまでもなく、激しくスローダウンした日々を送り始めた。

毎日は、ビーチにいったり、カフェにいったり、買い物をしたり、原稿を書いたり、ネットをしたり、今後の旅程を考えたりして、過ぎていく。また、たまにバイクを借りて、近くの寺院や海へと繰り出した。

夜は、バーやレストランに入って、遊び疲れた欧米人たちとともに、大きなスクリーンに映し出されるハリウッド映画をビール片手に楽しんだ。映画はもちろん海賊版丸出しの画像の悪さを誇るが、ここではブラッド・ピットとジョージ・クルーニーの顔の違いが判別できれば誰も文句は言わない。

書くべき原稿を書くとき以外はもっぱらだらけていた。だから写真もほとんど撮らず、日記の記述も大雑把で、すべての記憶が淡い。それが、バリで自分が多くを感じていないことを象徴している。しかし、バリはそれでいいのだ、とぼくは開き直った。みんなきっと、クタには、何も考えないのんびりとした時間を楽しみにきているのだから。

ただ、クタがそういう場所だからこそ衝撃を受けるのは、宿から歩いて1,2分のところにあった、2002年10月の爆破テロの大きな追悼の碑に書かれた200人余りの名前を見るときであった。わずか1年半前、彼らの多くは、このときのぼくたちのような最もだらけた気分を満喫していた瞬間に、一気に死の淵に追いやられてしまったのだ。

黒い追悼の碑には、金色の文字で亡くなった人たちの名前が、国籍ごとにまとまって刻まれている。そしてその中に2人の日本人の名前があった。

<JEPANG 1. Kosuke SUZUKI 2. Yuka SUZUKI>

報道によれば、バリが好きでたびたび訪れていた30代の夫婦だったという。間違いなくぼくとモトコ以上にバリを知り、バリを愛した人たちだったはずだ。その2人が大好きなこの地にわざわざやってきた挙句、一瞬にして全てを奪われたことを思うと、あまりにも理不尽で、やりきれないものがある。

しかし同時に、ぼくたちにも常にそういうリスクがあることは間違いない。
毎日、この碑の前を通るたびに、スズキさん夫婦がこのクタの路地を歩く様子と、彼らの無念さを想像しながら、果たして自分たちには今後どういうことが待っているのかと、考えたりしていた。そのときだけはふと気持ちが引き締まった。

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クタのメインストリート・レギャン通り。正面にあるのが爆破テロ事件の追悼碑。

さて、記憶の薄いクタの日々でも、ひとつとても印象に残った出来事がある。それは、両替商とのやりとりだ。歩いていると、店の前に交換レートが書かれた両替商が多数見つかる。レートは店によってかなり異なり、誰もがレートのいい店を探して歩き回ることになる。ぼくらも当然そうしたのだが、しかし、レートがいいのには必ず訳があるのだった。
 
インドネシアの通貨ルピアは単位が大きい。当時1米ドルは9000ルピア程度。だから50ドルを換金するとすれば、450000ルピアにもなり、ちょっと慣れないと桁を間違えやすい。向こうはそこを衝き、なんとか巧みに金を騙しとろうとしてくるのだ。

「おう、両替かい。いくらだい?」

たとえばシルバーアクセサリーの店に入っていくと、両替商を兼業する男が、札束と計算機を手にそう声をかけてくる。この店のレートが1ドル=9200ルピアだったとし、60ドルを換えたいと言うとする。

「よし分かった。ほら、計算するから見ておけよ」
ここからが両替商の技の見せ所だ。
「60ドルってことは、切りのいい50ドルで分けると、まず9200×50で、残りの10ドルが......」
などとぶつぶついいながら、男はパカパカパカと計算機を叩き、計算過程をパッパッと示しながら結果を出す。するとあら不思議、9200×60=552000ルピアになるはずが、なぜか469200ルピアになっている。

こういうことだ。まず50ドルはちゃんとしたレートで計算する。そしてその後、残りの10ドルだけ一桁下げて計算しているのだ。すなわち、本来なら9200×60と計算するところを、469200ルピア(9200×50+920×10)とするわけだ。

明らかに違うこの計算で客を騙すには、すばやい計算機さばきが必要だ。さすがに丸々60ドルを一桁下げるとすぐにばれるが、一部だけだと案外気づかない旅行者もいるのだろう。ぼくも初めてやられたときは、あれ? と思いつつも、危うく結果を受け入れそうになった。

もちろん少し注意すれば分かることだ。で、不審に思って、自分でも確認したいから計算機を貸してくれ、などと言うと、両替商はチッと舌打ちをして、「ガタガタいうなら出ていけ、出ていけ」ということになるのだ。

そういう輩に何度か遭遇し慣れてくると、こっちは、「またその手口か、知ってんだぞ」と笑い、相手も苦笑いをして「なら、帰ってくれよ、ははは」ということになる。
しかし、である。ある日、そんなことを言ってられない超高等テクを持つ店にぼくらは遭遇した。店の前で「このレート、ほんとだったらすごいな」とモトコとぼくが交換レートを見ているのに気づいた客引きの男が

「いいだろ! いくら換えたいんだい? 何もトリックなんてしないよ」

と怪しい笑顔で寄ってくる。そこに掲げられた1ドル=9300ルピアほどは、かなりの好レートだった。もちろんまた同じだろうと期待もせずに、半ば暇つぶし気分で入っていくと、中は洋服店で奥にあるカウンターの向こうに別の男がいた。

手持ちの60ドルの現金を彼に見せると、男は計算機を叩き、四捨五入して、
「じゃあ、560000ルピアでいいよな」
と、確かに「56」のうしろに「0」が4つついた計算機上の計算結果を見せてきた。定番のトリックでないことは分かった。

男は1万ルピア札を大量に机の上に取り出して、
「1、2、3......10」
と、ぼくらの目の前で10枚ずつ数えて、10万ルピアずつこっちに渡してくる。その過程をぼくとモトコとでじっと観察する。確かに間違いはなかった。さらに渡された10万ルピアをぼくが再度数え直す。それを5回繰り返し、50万。最後に残りの6万ルピアをもらい、
「これで56万だな」
と言われ、ぼくも
「うん、そうだ」
と納得して金を手にしたのだ。ほんとにこのレートだったのか、今度こそは何もトリックなんてなかったぞと、少しうれしくなりながら。

そして男に別れを告げて店を出たのだが、やはり念のためにと、店の前でもう一度ルピアの札束を数えてみた。するとなんと、何度数えても10万ルピア足りない! 自分の目を疑った。店で確かに確認したのに、なぜかいま46万しかない。理由は全く分からなかったが、どう見ても10万ルピア足りないのだ。ぼくはきびすを返して店に飛び込んだ。

「おい、46万しかないぞ!」

先ほど金を数えて渡した男はすでにいなかったが、客引きの男がまるでぼくらが戻ってくるのを知っていたかのようにこっちを見て笑っている。

「いくら換えたんだ?」

60ドルだ。そういうと、意外なことに客引きの男は、軽く頷いて、ぼくの手の中にある46枚のルピア紙幣を取り、60ドルを返してくれた。彼はまだ笑っていた。
金を返してもらってほっとすると、男のトリックの素晴らしさばかりが頭に残った。思わずもう一度やってくれないか、と頼みたくなったほどだ。彼らもただそうやって驚く旅行者の顔が見たいだけなのかもしれない。そう思うと、男たちはどうにも憎めず、お見事という以外になかった。

結局、トリックは分からないままだったのだけれど、この経験あたりから、ぼくは思うようになっていた。インドネシアも面白そうだぞ、と。

気付くと、10日が経っていた。ダラダラとした日々を終えたくなり、気持ちはバリの外のインドネシアに向かい出した。そしてこのころようやく、本当に東ティモールから出国できたような気になれたのだった。

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クタの南の漁村ジンバラン。海賊の集団のように漁船が停泊するのが印象的。 ここで夕日を見ながら新鮮な魚介類を頬張るのもまたよし。


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プロフィール

近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。
オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。
旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。
疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

YUKI KONDO

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