第25回 それぞれの進む道
突然だが、ここで大きく時間を巻き戻す。
2003年6月18日、東京は世田谷区。祖師谷商店街のとあるお好み焼屋さんにぼくはいた。中学のときの友人の家族が営むこのお店は、中学時代の友だちで集まるときの定番の会場となっていた。
春うららかな卒業式で「また遊ぼう!」と言って別れて以来めっきり連絡も取り合わなくなった友人たちも、成人式だったかをきっかけに再び付き合いが深くなり、ぼくたちは何か理由をつけてはよくこの店でドンチャン騒ぎをするようになっていた。
この日も20人ほどが集まった。その口実は、ぼくが長期にわたって日本を離れるから、ということ。もちろんこの5年の旅のことであり、ぼくはその翌日東京を離れ、京都で何泊かしてからモトコとともに関空から出発という予定だった。つまり東京最後の夜をここで過ごしたのであるが、出発を翌朝に控えながらもぼくは0時を回ってもまだその店でグダグダと飲んでいた。
地元の友だちの生活環境はそれぞれ大きく異なる。
みなまだ26、7歳だったそのころ、すでに7、8年働いているものもいれば、ぼくのように学生を終えて1年しか経っていないものもいた。子どもがすでに小学生という人もいれば、結婚なんてまだ考えたこともないという人もいた。
仕事もみなさまざまだ。記憶が正しければ、この店で集まる仲間にいたのは、ホテルマン、消防士、とび職、主婦、会計士、俳優、歌手、不動産業者、編集者、会社経営者、運送業者、ホスト......などなど。非常に人材の幅は広い。とはいえ正確に誰が何をやっているかは考えてみるとあまりよく分からない。というのも、ほとんどそういうことが話にもならないほど現在の自分とは無関係に昔に戻れるのが地元の友だちのよさなのだ。
ただ、仕事ぶりが周囲に比較的よく知れているのは、やはり俳優と歌手の2人だった。俳優の友人は、この少し前から「仮面ライダー」役に抜擢され、さあこれから一気にメジャー路線へというところであり、餞別代りにぼくに、サイン入りのフィギュアをくれた。きっとファンにはお宝ものに違いない。その後も彼は、「息子がファンなんだ、一緒に写真を撮ってくれよ」という同級生の要望に応え、さわやかにポーズを決めてくれたものである。
一方、歌手の友だちというのは4人組のレゲエミュージシャンなのだが、彼のグループもこのときやはり、間もなく大手のレーベルからデビューするという段階だった。「いよいよメジャーデビューだぜ!」と彼は意気揚々に語り、そしてやはり餞別代りだったのか、まだ発売になる前のデビューアルバムの見本のようなものをぼくにくれたのだった。
仮面ライダーのフィギュアはさすがにバックパックに詰め込むとぐにゃりといきそうだったので旅への同行を断念していただいたが、レゲエCDはバックパックに詰め込んで、バンバリーにいたころからたまに聞いていた。中に何曲かとても気に入ったものがあり、部屋やバンの中でもよく流していたが、ぼくらが日本を出て10ヶ月が経った2004年の春ごろ、彼らのグループがタワーレコードやHMVのランキングで上位につけ、大ヒットを飛ばしているらしいことを友人経由で知った。
それを聞いてぼくはかなり盛り上がった。出発前に彼からもらったCDの曲が、いまや広く世間に知られていると考えると、興奮せずにはいられない。
その友人は、小学校時代からやたらと都会的でカッコいい男だった。鼻水をたらしながら家の周りをチャリチャリ走り回るだけが全世界だった自分にとって、すでに渋谷などに出入りしているらしいという彼は、完全に別世界の存在のように見えたものだ。
ぼくの中学時代というのは、東京ではいわゆる「チーマー文化」全盛のころ。「コワそうな人たち」が、特攻服など独自のファッションを貫くヤンキー文化と一線を画し、一般の若者から見てもじつにカッコいい服装でファッションや流行をリードしていくようになったのはこのころからなのだろうとぼくは認識している。
彼はそういうコワカッコいいとでもいうような文化をぼくたちの中学に持ち込んできた存在だった。それは彼が一度私立中学に入学し、わけあってその後ぼくの通っていた地元の公立中学に転校してきたこととも無関係ではないだろう。
いずれにしても、彼は中学時代からすでに、時代の先端を走っているような存在だったのだ。
中学1年だったとき、その彼に「こんちゃん、渋谷に行こうぜ」と、連れられて行ったのがぼくにとって初めての渋谷体験であり、そのような世界の存在を初めて知ったときだった。
服装などについてまだほとんど意識することがなかったぼくは、彼に、「これ着てけよ」と、当時流行っていたラルフローレンのボタンダウンのシャツを借り、2人で井の頭線にガタゴト揺られて、渋谷駅で降りた。
緊張しながら駅を降りると、彼の友人の、私立の女子中に通う派手な女の子が数人いて、「あ〜、元気〜? いこ〜」などといい感じに力のぬけた雰囲気で待っている。そしてみなスクランブル交差点をわが庭のようにスムーズに歩いていく。全くぼくは気後れするばかりだが、とりあえず分かった風な態度をとって自分なりに格好をつけてその場をしのごうとがんばった。
しかし初めての渋谷はそんなに甘くない。このデビュー戦はそれからとんでもない方向へと展開してゆく。
友人は渋谷に着く前に、「○×先輩に会ったら、やべーんだよ。おれ殴られちゃうかもしんねーんだ」と言っていた。中1にしてすでに会ってはならない人が渋谷にいるという状況が極めてオトナな感じがして若干の羨望すら覚えたものだが、まさかその「やべー」事態が本当に起っちまうのだから世の中は恐ろしい。
チーマーたちが闊歩するセンター街を、ぼくらも真似して闊歩していると、なんとその○×先輩がファーストキッチンの2階の窓から怖い顔を覗かせて、こちらに向かって大声で叫んでいるではないか。できすぎであるが、本当にいたのである。
「おい!テメー、何やってんだ、コラ! どの面下げて歩いてんだ! そこで待ってろ!」
などと雄叫びを上げ、○×先輩が窓から姿を消した。
「ああ、やべえ、マジで会っちゃったよ」と友人は一瞬苦虫を噛み潰したような顔をしたが、しかたねーなと、あとはがっつり構えている。そしてその横でぼくは圧倒的にビビッていた。
○×先輩は確か当時高校1年だったが、おっかない顔をした高校生が怒り狂ってファーストキッチンの階段をダダダダダーッと駆け下りて向かってくるという図は、その標的が自分でなかったにしても十分に恐ろしいものだった。しかもぼくにとってこんなことは全く初体験なのである。
階段を軽快に駆け下り(見てないけど、たぶん)、やってきましたとばかりに店からセンター街へと出てきた○×先輩は、ロンゲ茶髪のコワイケメンで、上半身はやたらと黒い肌に白のタンクトップ。下はブーツカット(か、ベルボトム)にエンジニアブーツという、まさに夏のチーマーのお手本のような装いだった。そしてそのイデタチで、視線を上下に揺らして友人をにらみ付けながら、凄んだ。
「おい! テメー、こんなところで何してんだ、あー?!」
とにかくこのシチュエーションにビビリまくっている自分は、目立ちすぎないように横で脇役に徹しながらことの展開を見守った。若干背がデカめで油断すると態度までデカく見えかねない自分をそのとき呪った。
○×先輩は般若のような顔でさらに凄み、友人はしおらしく応対する。ぼくはその横で、彼が殴られたらどうしよう、と心臓をバクバクさせながら成り行きを見ていた。
しかし、友人はなかなかの交渉力を発揮した。○×先輩は相変わらず般若顔ではあるのだが、一向に暴力を振るう気配はない。先輩は言いたいことをいい、友人もそれに真摯な対応をした挙句、話はついたようだった。その間おそらく数分間だったろう。そして
「おめー、ふざけてんじゃねーぞ、わかったな! 二度と顔を見せんなよ」
などという結びの言葉で、○×先輩が自らこの難局を収めにかかったので、「おお、よかった......」とぼくはつかの間ほっとしたのだった。しかしその1秒後にぼくは、人の心配をしている場合ではなかったことに気付かされた。
○×先輩は、突然ぼくの方に身体の向きを変えて、般若眉のままこちらに視線を移し、あごをしゃくりあげながら、勢いよくぼくに向かって言ったのだ。
「で、おめーは誰だよ、あー!?」
全く予想しない展開にぼくがびっくり仰天したのはいうまでもない。いきなり誰だよって言われても何をどう説明していいのか分からない。にわかに「近藤です」といってもこの状況からして、「おお、そうか、ヨロシク!」と爽やかに終わるはずがなかった。そして、このスピード感とスリル満点の展開の中、とっさに出た言葉が、
「友だちです」
という、これ以上ないほど簡潔で嘘偽りのない100点満点のはずの返答だった。しかし、理不尽とはこういうことを言うのだろう。○×先輩はなぜか、非の打ち所のないその回答に対して怒りのボルテージを上げたのだった。
「なにい? トモダチだあ?! ふざけてんじゃねーぞ」
ぼくは1ミリたりともふざけてはいなかったのだが、○×先輩はそういった直後、ふざけていたかどうかぼくが自分で考察を深める余裕も与えないまま、ウサイン・ボルトばりのスピードで一気にぼくの方へと歩を進め、先端に鉄板の入ったのエンジニアブーツを履いた右足で、ぼくの左太ももを思いっきり蹴り上げたのだった。
ボカッ、と鈍い音を立てて、ケリはズシリと太ももに響いた。その後、高校のバスケ部時代に太ももの肉離れがクセになったのを○×先輩のせいにするつもりはないけれど(って、だいたい○×氏はぼくの先輩でもなんでもないのだけれど、とここで急に気がつきました)、とにかく痛かった。
ぼくは顔をしかめ、情けないほど内股気味に身体をゆがませ、左のももを押さえた。「どうしておれが......」と思いつつ、「何すんだよ、このヤロウ!」などと言い返せるはずもなく、痛さをアピールし、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。その様子に○×先輩も満足したのか、彼は最後の台詞をビッと吐いた。
「行けよ」
そして、やっと解放されたのだった。たぶん、ぼくは「すみません」などと全くわけのわからない謝罪をしながら、その場をずらかったはずである。
なんなんだよ、ここは......。渋谷ってなんて怖いところなんだ......と、中1のぼくは完全に腰が砕けてしまった。「これからはもう、半分はオトナなんだぞ!」と中学入学時には必ず言われるものだが、まだ完全に子どもであったことを精神的にも肉体的にも痛感する体験であった。渋谷へのそのときの強烈な印象は、いまもしっかり残っている。
......と、このセンター街の顛末は完全に脇道であったが、この友人はそうしてぼくに広い外界の存在知らしめてくれたのであった。そしてこの渋谷でのケリによって、ぼくにさらに広い世界を夢見るようになった......ということは全くないのだが、このケリへと導いた友人が紆余曲折を経てレゲエミュージシャンとなり、先に書いた通り、ぼくが日本を出る前にCDを渡してくれたのだ。
そしてそれから1年後の2004年の夏にはすでに彼は全国的に知られる存在になり、ぼくとモトコはそのころバリやジャカルタあたりをうろうろしながら、彼の活躍を遠くから眺めていた。ネットで調べると確かに彼のグループは名を轟かせている。
湘南乃風の若旦那――。
それがいまの彼の、知られた名前となっていた。
若旦那の活躍を知ってからますます、自分はこの1年でどれだけのことができたのだろう、とぼくは考えるようになった。
少なくとも全く仕事になっていなかった段階から、一応文章を書いてお金をもらうという経験を何度かすることはできた。しかしその一方、書いて食べていくということがいかに大変かを、このころリアルに感じるようになっていた。たとえば、1ヶ月間取材をして書き上げた東ティモールの記事によって得たのは、写真込で4万円ほどでしかないのだ。
実際に書くだけで生計を立てていくイメージはまだほとんどつかなかった。そしてそう感じるとき、友人が歌を歌うことで生活をしているということがいかにすごいことなのかが少し分かるような気がするのだった。
ただ、ぼくらがそのとき旅していた国々においては、4、5万円というのはそれなりのまとまった額ではあった。宿代は一泊数百円でしかなかったし、食事代を含めても1日1000円程度の出費で済んだ。だから、移動費などを抜かせば月に4万円あればとりあえず旅の費用のかなりの部分をまかなえることになる。
そう思うと、いまこうして旅をしながら興味の惹かれたことを取材して、ライターとしてやっていこうとするのは決して悪い方法ではないように思えた。少ない金でもなんとか食べていけるし、しかも旅を続けていけるのだ。その上日々の体験のすべてが自分の経験として身に付いているという実感もあった。それがこの先、どのような形になっていくのかは、もはや想像すらできないが、ぼくにとっては先が未知であること自体が、むしろワクワクできて楽しかった。
そしていま、若旦那となった友人の活躍は、「オレもがんばろう!」という気持ちを強く起こさせてくれたのだった。
それからもうひとつ。日本を出て1年ということは、ぼくとモトコが一緒に暮らしだして1年ということでもあった。ワンダーインの狭い部屋からバンの中での寝泊り、そしてゴキブリの多いディリの宿や南京虫ウジャウジャのジャカルタの安宿。環境は決して芳しいとはいえないときも多く、とくにバンバリーを出てからはそんな中でほとんど24時間2人で一緒に過ごす日が続いていたが、その割には、仲良くやっている方なのだろう。いつもケンカは絶えないが、しかし夫婦としてかけがえのない日々を一緒に送っているという実感は2人とも強く持っていた。
バリからは、ビザ更新のためにジャカルタから一度シンガポール&マレーシアへ出国。渋谷のケリ事件は遠い北方での出来事 |
さて、バリを出てからのことを簡単に書こう。
バリのあと、ぼくたちは西に向かい、ジョグジャカルタ、そして首都ジャカルタに行った。インドネシアは観光ビザでは1ヶ月しか滞在できなかったため、ビザの更新もかねてジャカルタから一度マレーシアのジョホール・バルへ飛び、シンガポールにも足を延ばした。それから再びジャカルタに戻ったときは、バンバリーで知り合ったジャカルタ在住のドイツ人一家の家に泊めてもらうことになった。
この家でちょうど出発1周年の日を迎えたのだった。
だからというわけではないが、その家では、日本を出て以来もっとも優雅な日々を過ごさせてもらった。ドイツのパンやビールに加え、鯛やラム肉など豪華な料理から新鮮なマンゴスチンまで、連日連夜、酒池肉林的食事が続いた上に、マッサージ師にマッサージしてもらって、庭のプールで優雅に泳いで......。
まるで王様のようにリッチな日々の中で、旅は2年目に入った。
その家での数日の滞在で、もともとなかったエネルギーまで補給させてもらい、すっかりスイッチを入れ換えた。そしていよいよぼくたちは、自分たちにとってインドネシア最大の見所となるある島に向かって、新たな移動を開始したのだった。
