第27回 捕鯨の村
ララントゥカから船に乗って、ぼくたちは捕鯨村ラマレラのあるレンバタ島に向かった。
船には、パンパンに荷物の詰まった段ボール箱がいくつも積み込まれ、通路も大きな麻袋で埋め尽くされた。人はその上を歩いて船内に乗り込み、小さな子どもから老人まで、おそらく五、六○人のインドネシア人が、船内に並んだ長椅子に腰かけた。
船は決して大きくはなかったものの、思ったより揺れが少なく、船酔いなど気にすることなくゆったりと過ごすことができた。
ララントゥカからレウォレバへの船。人と荷物でごった返している乗船時の様子。 |
穏やかな航行の中、船内で唯一の外国人であるぼくらは、乗客みんなからにこやかな興味を示される。ぼくらもがんばってインドネシア語での会話を試みると、誰もがみな、うれしそうにぼくらの相手をしてくれた。
ぼくとモトコは、それまでのインドネシア滞在で、少しずつインドネシア語が分かる気になっていた。当時の日記を見返すと「おれのインドネシア語はかなりパワーアップ。ほどほどの日常会話はできるようになってきた」などと大口を叩いている。これは明らかに言いすぎであるが、しかし確かに、文法的にはめちゃくちゃながらも、とりあえずある程度の意思疎通ができるようになっていたことは間違いない。
インドネシア語は、マレー語をベースとしていて(というかほとんど同じで)、インドネシアが独立した後に国の共通語として整備された言語である。島や地域ごとに数百の異なる言語が混在し、出身地がちょっと違うと意思疎通ができませんという状況から、なんとか互いにコミュニケーションが取れるようにと、政府の主導によってインドネシア語の教育・普及が図られたというわけだ。そのような背景があるためか、インドネシア語は、世界有数の「習得しやすい言語」として名高く、ぼくたちもそう聞いて俄然やる気が沸いたのであった。
簡単そうなイメージを喚起する例を挙げると、単語を繰り返すだけで意味が変わることが多かったりする。たとえば「ジャラン(jalan)」は「道」、で「ジャランジャラン(jalan jalan)」とつなげてみると「散歩する」という意味に早変わりする。って、全てが全てこんな簡単にいくわけではもちろんないが、とりあえず短期滞在者の言語習得意欲をかき立てる言語であることは確かである。
ぼくらもその恩恵を受けて、船内でもインドネシア語を用いたシンプルなコミュニケーションを楽しめた。そして話すついでにカメラを向けてパチリと一枚ずつ撮らせてもらうと、みな喜んでくれた。そんな心地よく幸せな時間を四時間ほど過ごすと、船は予定通りにレンバタ島に到着したのだった。
これでやっとラマレラだ、と思ったが、しかし移動はまだ続く。船を降りたのはレウォレバという港町だが、ここは島の北側に位置する。だから、ここから島の南岸にあるラマレラまではさらに山を越えていかなければならないのだ。
この移動がなかなか大変だった。レウォレバで、テイクアウトの簡単な昼食を摂ってからラマレラへ向かう乗り合いトラックに乗りこんだが、荷物がいっぱいの荷台に押し込まれた状態で、非常に険しい道なき道をさらに四時間もいかなければならなかった。舗装など全くされていないガタガタの道を、トラックは、エンジンに「ウィ~ン、ウィ~ン」と悲鳴を上げさせながら進む。振動はものすごく、舌を噛み切らないように気をつけなければならないほどで、ぼくらは「こりゃきついなあ......」と激しく疲労したが、地元の人は何ひとつ文句ない顔で静かに到着を待っていた。
その道中で、ぼくらのトラックは事故を起こした。前からやってきたバイクを轢いてしまったのだ。幸いけが人はなかったものの、バイクは車輪をトラックに踏まれ、ぐにゃりとひしゃげた。
自分なら「おっと、これは早速、アクサダイレクトか!」などと、ジョン・カビラの顔が思い浮かんだりしてしまうところだが、バイクの運転手もトラックの運転手も、顔をあわせると、特にもめることもなく「よー、大丈夫か、悪かったなあ」ぐらいな乗りで、さっさとその場で一緒にひしゃげた車輪を直し始めた。そして乗客も一緒になってみなで直す。
その間、後ろから来た車は、道を通ることができず若干の渋滞が起きていたが、それもお構いなしで、特に誰も文句を言わない。みなバイクが直るのを待ち、協力できる人は協力し、そうしていつしか、バイクはかろうじて走れる状態にまで戻ったようだった。その間わずかに20分ほどであった。
「じゃあな、気をつけていけよ!」
と、お互いそんな言葉を交わしたはずだ。そして再び、何事もなかったかのようにトラックはラマレラに向かい、バイクはレウォレバ方面へふらりふらりと駆けていった。アクサダイレクトも、アメリカンホームダイレクトも登場する余地を与えないこの世界には、それらがないからこそ持てる人間同士の知恵に富んだリアルなやりとりが存在することを改めて感じたのだ。
レウォレバからラマレラは向かう乗り合いバス。この屋根の下に、荷物と一緒に乗り込む。そしてこれがバイクを轢くことに。 |
さて、その後もしばらく土ぼこりに包まれた荷台に乗っていると、ようやく山を越えて、島の反対側が見えてきた。
すでに日が沈みかけ、空の色が赤くなりかけている中、目の前には深い青色の海が広がり、気がつくと周囲にポツリポツリと家が見え始めてくる。そして人家の前にゴロゴロしている白い大きな物体が何なのかを知ったとき、そこがラマレラだということがすぐに分かった。すなわちそれは、オブジェのように置かれていたクジラやイルカの骨だったのだ。
海辺にも何気なく置いてあるクジラの骨。 |
ラマレラは、海辺からわずかに斜面を上がったところにある。海と平行に走る細長い一本の道を中心とした小さな村だ。人口は二千人ほどというこの村には、電気も通っていなく、現代文明の流れとはほとんど無縁のような場所だった。
ラマレラ。この海辺の後ろに村が広がる。海岸に並ぶ屋根の中に船が格納されている。 |
砂浜まで降りると、その前には船を入れる小屋のようなものがずらりと並び、その中ではさまざまな色に塗られた木の船が、静かに出帆のときを待っている。そしてそのすぐ前には、干物のようなものが吊り下げられているが、それが何なのかと聞いてみると、クジラの肉だか脂だかを干したものだということだった。
砂浜近くの岩場では、まだ一〇歳にもなっていなそうな子どもたちが海を出たり入ったり、自在に泳ぎながら多くの魚を手にしていて遊びまわっている。海辺から離れある家を覗いてみると、庭で男たちが木を削って船を作っていた。
さらに、町の中心から少し外れたところには、教会があり、日曜には大勢の村人が集まってのミサが行なわれる。教会までの道の途中には、おそらく昔この地に布教に来た宣教師と思われる人物の白い像が立っているのだが、聖書を手にしたこの人物が立っているのは、なんと捕鯨船の上なのである。
そして前述した通り、多くの民家の前、そして海辺にも、クジラやイルカの白く巨大な骨がゴロゴロ転がっているのだ。
ラマレラはまさに村全体が、クジラを始めとする海洋生物とともに生きているのだった。
小さい魚はおれたちにまかせろ!といわんばかりに自在に魚を捕まえるラマレラの子どもたち。 |
そんなこのラマレラに、クジラを捕まえる瞬間を見ようとやってくるぼくらのような外国人旅行者はポツポツとはいるようで、旅行者が来たら泊めて収入の足しにしている家が当時四軒ほどあった。
ぼくらはそのうち、村を貫くメインストリート(といっても、むき出しの石の上を土などで固めただけの細い道なのであるが)沿いにある一軒の家に泊まることにした。
入ってみると予想以上にきれいで驚いたが、ぼくらはここを拠点にクジラの到来を待つことにした。この家には発電機があり、おそらく村では数少ないテレビもあった。
夜になり、村中が真っ暗になる中、近所でこの家だけは九時ごろまでは電気がついている。そして夜になるといつも、複数の村人が奥の部屋に集まってみんなでテレビをじっと見ていた。
ぼくらがラマレラ滞在中、外国人はぼくたち以外には村に数人しかいないようだったが、そのうちの一人が日本人で、彼はたまたまぼくたちと同じ家に泊まっていた。写真家の郷司(ごうじ)さんという方だった。ぼくたちがラマレラに来る少し前から彼はすでに滞在していたようで、バリから一緒に来たガイドのマデさんという若くておっちょこちょいな日本語堪能インドネシア人とともに泊まっていた。
郷司さんは五〇歳ほどのとても温厚で笑顔の素敵な人で、マデさんは太陽のようなまん丸な顔でいつもけらけらと笑っている二〇代前半とおぼしき元気くんだ。二人はまるで親子のようで、マデさんが郷司さんを助け、郷司さんがマデさんをからかって、楽しそうにクジラが現れるのを待っていた。
郷司さんは、ラマレラで捕鯨のシーンを撮影するためにわざわざ日本からやってきていた。彼は、以前ベトナムでも海の民の写真を撮っていて、クジラを捕るラマレラの人々もまた、長い間興味を惹かれつづけていた対象だったようである。
滞在中、クジラが出たといううわさは全然聞こえてこないのだが、郷司さんは、毎日マデさんと一緒に出かけていき、夕方に戻ってくると宿の入り口にあるテラスに腰掛けて、外を眺め、海風に吹かれながら、その日の出来事を丁寧にノートに綴っていた。
ぼくもラマレラについてはあとで何か文章を書きたいと思っていたため、郷司さんとはいろいろと共有できることが多かった。
夕方、テラスに彼が座っているときは、ときどきぼくも隣に座らせてもらって、その日経験してきたことをお互いに話し合ったりした。そしてときに、彼の持っていた資料を見せてもらったり、また写真の撮り方についていろいろと教えてもらったりもした。一方、ぼくが自分たちのこれまでの旅や、今後の計画について話すと、郷司さんはいつも、「うん、そうかー。へえ、すごいなあ」と熱心にきいてくれたものだった。
――ラマレラについて考えるとき、ぼくはいつもそんな郷司さんのことを思い出す。だから、この原稿を書き出したとき、ぼくはよし、久々に郷司さんに連絡を取ってみようと思いついた。郷司さんとは、インドネシアで別れてから半年ほどはちょくちょくメールのやり取りをしていたのだが、ぼくたちが中国に着いたころから連絡は互いに途切れてしまった。彼は、ぼくにとってもモトコにとっても、五年間の旅で出会った最も素敵な人の一人であり、是非いつか再会をしたいと思っていたのだが、そう思いながら、気付くと最後に連絡を取ってから五年もの歳月が経ってしまっていた。
そうして今回、メールを送る前にちょっと近況でも知れたらと思い、彼の名前をネットで検索してみた。だが、ぼくはそのとき信じがたい現実を知り、呆然としてしまった。
昨年一一月に、郷司さんは亡くなられたと、彼の知人のブログに書いてあったのだ。享年五六歳。あまりにも若い。が、数年前に彼が大変な手術をされ、その後も闘病されていたこともぼくたちはいまになって初めて知ったのだった。そのブログの報を読み、そこに掲載されていた郷司さんのさわやかで優しい笑顔を見ながら、ぼくはあまりにも無情な現実を受け入れられずにいた。
ぼくたちのラマレラでの日々はまさに郷司さんとともにあったのだ。彼はぼくたちよりもずっと年配であるのに、とても真摯にぼくたちの話を聞いてくれる人で、なかなかああはできないものだよな、とモトコとあとからたびたび思い出して話すこともあったほどだ。そんな人だったから、ぼくは、
「写真家として生活していくのって大変ですか?」
と、そんなことまで不躾に聞いたりしていた。
彼は、家族のことなども話しながら、「楽じゃないけど、まあ、なんとかやってるよ」と、日に焼けた黒い顔にしわをよせて苦笑いした。その表情からは、確かに楽ではないだろうけど、写真を撮ることが本当に好きなんだろうな、ということが感じられ、郷司さんの、写真と真摯に向き合って生きているような姿にもぼくは惹かれた。
だからぼくは、自分がいま旅をしながらライターとしてひとり立ちするために悪戦苦闘していることについても郷司さんに話した。細々と仕事はしているけれど、これで自分が将来食べていけるイメージはまだ全く見えていない、でも、がんばりたいとは思っている、と。
彼は「大丈夫だよ」などと楽観的なことは特に言わずに、優しく笑いながら、「二人の生き方は羨ましいよ」などと言ってくれたように記憶している。ぼくはそんな言葉に、よし、がんばろうと励まされたり、郷司さんのように素敵に年をとっていきたいな、などと思ったりしていた。
そしてもうひとつ、ラマレラでの郷司さんといえば、忘れられないことがあった。ある日、彼に非常に不運なことが起ってしまったのだ。
その日は土曜日で、ラマレラでは「バーターマーケット」すなわち物々交換の市場が開かれる日だった。ラマレラでは、クジラは単に村人の食料となるだけではなく、彼らはクジラ肉を貨幣として使っている。すなわち、男たちが海へクジラを捕りに行くのに対し、女たちはクジラ肉を担いで山に行き、クジラ肉を、山の民が育てたトウモロコシなどの農作物と交換してくるのである。
ぼくはラマレラ滞在中、初日から風邪で具合が悪くて前半は寝てばかりいて、残念ながらこの日の市場を見に行くことができなかったのだが、その日の朝、郷司さんはマデさんとともに市場を見に行った。そして昼ごろ、宿に戻ってきた。が、彼は、いやあ、やっちゃったよ......、という顔をしてこういうのだった。
「カメラ、落としちゃったんだ、海に......。市場からの帰り、山道は大変そうだったから、船で回って戻ってきたんだけど、船から下りたときに、足滑らせちゃってね。カメラごとドボンだよ......」
ニコンのカメラが二台、そしてレンズもすべて水没してしまったのだ。あまりの悲惨な展開にかける言葉もなかった。山道を歩いて帰ってきたガイドのマデさんに預けようかとも思ったものの、まあ、大丈夫だろうと自分で持ってきてしまったのが間違いだったと悔しがったがもちろん後の祭りだ。
郷司さんは、これでクジラが出たら悔しくてやりきれないから、もうぼくは帰るよ、と急遽帰ることを決めた。
「いやあ、しかし、本当にバカなことをしてしまったよ」
と何度も何度も、少し笑いながらも、やはりとても悔しがっていた。そんな郷司さんに、ほんとに残念です......などといいながら、ぼくは、彼がラマレラを去ってしまうことをとても寂しく思っていた。
のちに郷司さんと別れるとき、彼は、「来年、きっとまたラマレラに戻ってくるよ!」と笑顔でぼくたちに言った。もちろん、来年こそはクジラを撮影するためである。
そしてモトコは、郷司さんが来年戻ってきたときのためにと、ラマレラを去る前に、宿のゲストブックに郷司さん宛のメッセージを残してきた。だが郷司さんがその後ラマレラに戻ってくることができたのかは、ぼくたちは知らない。
いま、その郷司さんが亡くなられたことを知って、あの旅の日々から本当に時間が経ってしまったことを思い知らされた。彼がすでにこの世にいないと思うと、旅でのすべての出来事が、遠い昔のことのように思えたりもするのだ。
しかし、旅の日々がいくら遠い過去のこととなろうとも、ここラマレラで経験したことはぼくにとって、郷司さんの素敵な人柄とともに、どれだけ時間が経とうとも忘れられないものとなった。
その経験とは、ラマレラについて六日目のことである。この日、村の男たちとともに船に乗って、一緒に漁に行かせてもらうことになったのだ。
その日はちょうど、夜明け前に郷司さんが、壊れたカメラとマデさんともにトラックに乗ってラマレラを発った日であった。そして郷司さんがラマレラを出た二時間ほど後の七時ごろ、ぼくは宿を出て、木造の小さな船が待つ砂浜へと、斜面の道をゆっくりと下りていった。
