第34回 ボルネオ島のリッチな国
ジャングルを出たあとにシパダン島を経て、再びコタキナバルに戻ったのは、2004年8月7日の早朝4時のことだった。バスを降り、まだ眠りから覚めない街なかをふらふらと歩いて安宿へ転がり込む。そして5時間ほど睡眠をとると、ぼくらは、いま戻ってきたばかりのコタキナバルから出発する準備を始めた。
余計な荷物を日本に送るべく郵便局を訪れて(でも閉まっていて送れず)、そして近くで遅めの朝飯を食ったあとは、バーガーキングでちょっとリッチにコーヒータイム。それから昼ごろ、ジャングルに行く前に泊まっていた宿にあずけてあった荷物を取りに行き、あとは宿に戻って、メールをしたり読書をしたり(宿には日本語の文庫本あり。たしか読んだのは森村誠一作品)。そして夕方再び、外に出て、KFCで軽くスナックを食べ、これから行く隣国ブルネイの通貨ブルネイドルをゲットして、イスラム系のレストランで晩飯を食べたのだった。
つまり、この町を出る準備といっても、ほとんどはダラダラと過ごしていただけ。そうして、コタキナバル最後の日も平和に夜をむかえたのだが、しかしこの日は、夜にこそ、ビッグなイベントが待っていた。
そのイベントを楽しむべくぼくらは宿に戻った。
客が少なかったのをいいことに宿のラウンジを占有し、がっちりと席を取ってぼくとモトコはテレビのチャンネルをあわせた。
そう、イベントというのはテレビのなか。中国で開催中のサッカーアジアカップ決勝戦、日本・中国戦だ。ジャングルに行く前からその行方が気になっていたアジアカップを、日本が決勝戦まで勝ち上がってきてくれたおかげで(特に、ヨルダン戦でのPK戦などでの、川口能活の神がかり的なセーブのおかげ)、ぼくらもその最後の試合を、熱い気持ちでコタキナバルで楽しめることになったのだ。
ぼくはサッカーに関しては、こういうビッグゲームしか見ない完全なにわかファンでしかないけれど(そしてモトコは、ぼくが見るから引きずられて見る、という程度)、それでも2002年の日韓ワールドカップ以来、その熱はまだ冷めずに十分にその熱量を維持していた。久々にゆっくりとサッカーを見られる環境にいることがうれしかった。
さて、その試合――。狭いラウンジで、
「がんばれ! いけー!」
とテレビに向かって叫んでみる。すると、それとは比べ物にならない大きな声で、中国人がブーイングを浴びせているのがテレビのなかから聞こえてくる。中国の観客の「反日」ムードは、もちろん日本対中国のこの決勝戦においても健在だった。
試合の相手が開催国なので応援の大きさの違いは当然だが、しかし、サポーターたちが一丸となって相手国へブーイングを浴びせるのは、なんとも苦々しい光景であった。もちろん、歴史的、政治的にいろんな問題があることは承知しているし、自分はどちらかといえば中国寄りな考えを持っていたものの、それでも、サッカーの試合でのあの雰囲気は、全くしっくりこなかった。
だが、そのブーイングのなか、日本は奮闘した。福西、中田浩、玉田が得点を決め、3-1で日本は勝利を手にした。2006年のドイツワールドカップに向けて、日本は順調にステップアップしている気がした。
しかしやはり気になった。
「中国って、どんな国なんだろう」
日本人にとってはなかなか肩身が狭い世界なのかもしれない。でも、ぼくらがいま向かっているのは中国なのだ。中国こそが、ぼくたちが次に暮らす国になる。ぼくはその試合を見ながら、おそらく半年後ぐらいには始まっているはずの中国での生活を想像した。
コタキナバルからは、大きなボルネオ島を海沿いに南西に移動するつもりだった。この地域は大部分がマレーシア領だが、その途中にはブルネイという小さな国がある。だからマレーシア内の移動の途中に一度ブルネイへと国境を越えることになる。
まずコタキナバルから、ラブアン島へボートでわたり、そこからさらに別のボートでブルネイへ。船で国境を越えるのはこれが初めてだった。この移動が案外ハードで、コタキナバルからラブアンへのボートでぼくは激しく酔い、珍しく吐いてしまった。
ボートを降りて、ブルネイへと入国すると、ぼくらはすぐにバスに乗って、首都のバンダルスリブガワンへと向かう。
緑が茂っている郊外の様子は、隣のマレーシアとほとんど変わりはないが、その緑の中にポツリポツリと見える家一軒一軒がとても大きくきれいな豪邸であるのが印象に残った。車もみな、2、3台ずつあったような。ブルネイは、ボルネオ島の一角にちょこんと領土を持つだけのとても小さな国だが、同時に、世界でもっとも裕福な国ともいわれるのだ。石油が豊富に採れるのである。
バスは30分ほどでバンダルスリブガワンに到着した。バスを降りると、ぼくらはすぐにユースホステルへと向かった。リッチな国だけに比較的物価は高く、その中でもっとも安く泊まれるのがここだと聞いていた。
が、着いてみると、開いているはずのレセプションに人がいなく、チェックインができない。同じように待っていたポーランド人女性も、「まったく、なんで誰も来ないの?」とプリプリしている。聞くとこのポーランド人は日本在住とのことで、すでにぼくら以上に日本的な感覚が身についていたらしい彼女にとっては、この適当さが許せないようだった。
1時間、2時間。誰も来ない。そのうちに、ここが、男女は完全にわけられていて、夫婦であろうが、一緒の部屋に泊まることはできないということもわかってくる。イスラム教国の、青少年のためのユースホステルとは、そういうものなのかもしれない。ケータイもない状況では、部屋をわけられると何かと不便になるが、まあ仕方ない。「時間を決めて待ち合わせるしかないね」と、モトコと相談したりした。
そして、3時間。しかし誰もこなかった。その状況を通りがかりの人に話してみると、
「これがブルネイ時間だよ。早く慣れるようにね」
などというではないか。どうもブルネイの人は、時間に適当なようなのだ。
お金持ちのきれいな国ということで、漠然と、かちっとしたイメージを持ってきたが、どうやらこの国は、そういうわけではないようだった。
ブルネイは、35万人(当時)の国民を「スルタン(国王)」が支配する王国だ。スルタンの放蕩生活ぶりはなかなかすごく、たとえば1996年、彼は自分の50歳の誕生日に、マイケル・ジャクソンを呼んで特別にコンサートを開いてもらっちゃったというのは有名な話である。
また、街を歩いていると、いたるところにスルタンの顔がある。デパートの大売出しの垂れ幕のようなものがいろんなビルに貼られているが、それらは商品やセールの広告ではない。どれも、少し斜めにポーズを決めたスルタンの凛々しい姿が描かれているのだ(実際、シャープなイケメンなのでなかなか絵になる)。
バンダルスリブガワンの中心部。この調子で、街はスルタンの顔だらけ |
しかも後に、コタキナバルで送りそこねた荷物を日本へ送るときに切手を買うと、もちろんその切手の上でも、彼がニカリと渋く笑っていた。まるで独裁国家じゃないかという感じだが、一見、まさにそんななのである。
しかしだからといって、スルタンが我が物顔でひどい圧制をひいているというわけではない。スルタンはリッチなボンボンであることは間違いないが、その有り余る甘い汁をちゃんと国民にも分け与えている。何しろこの国は、税金なし、医療、教育はタダ、土地ももらえるというのである。そうであれば、スルタンが豪遊していようが、国民としては特に文句はないのだろう。
が、文句がないというか、文句をいうことができないというのも事実らしい。現地の若い男性に聞いたところによれば、そんな王室の悪口はタブーであり、秘密警察もうろうろしているということだった。しかしそれも、みなの基本的な生活が十分に満たされているために特に問題にならないのだろう。そして、ユースホステルのレセプションの状態からの偏見かもしれないが、必要なあらゆるものがタダで手に入るとみな労働意欲がわかないのかな、と想像する。本当に金があるというのは、そういうことなのかもしれない。
いずれにしても、みんながリッチなこの国の格安ユースホステルは、客の存在をすっかり忘れているようだったため、ぼくらは3時間待った挙句、あきらめて街の中心からは少し離れた別の宿に泊まることを決めた。ユースホステルより少し高くはついたが、なかなか快適な宿が見つかった。
さてそのバンダルスリブガワン。街を歩くと人は少なく静かであり、家はどれも大きかった。各ビルから2次元の巨大なスルタンがいつもぼくらを眺めている。
確かにこぎれいにまとまっている。でも、なんだか活気がない。夜になると、町の中心的な建物がパッパッと輝く電飾で彩られるのだが、それもなんだかチープな雰囲気が否めない。しかも、バスは、夜6時だか7時にはその運行を終え、全く持って夜は静まり返る印象だった。
平和ないい国なはずである。しかし、なんなんだろう、この物足りなさは。
この町の最大の見所のひとつに巨大な水上集落があり、そこにももちろん訪れた。「カンポン・アイール」(Kampung Ayer)と呼ばれるその集落は、水辺の上に、木やトタンでできた簡素な家が多数並ぶ形でできていて、一見かなり貧しげな雰囲気が漂っている。茶色く染まった水の上に、木の板が並べられただけのような橋がかかり村をつないでいるが、その中には学校、病院、モスク、そして警察署や消防署もあるという。豪邸が立ち並ぶ他の地区とはかなり装いを異にしていたが、この水上集落は600年以上という歴史を持つブルネイの伝統的な存在なのだ。
リッチで、土地ももらえるはずのこの国で、この水上生活を続けている人がいるのは単純に不思議だった。しかもその上、この集落には、3万人、じつに全人口の1割近い人が住んでいるのである。
このアンバランスさこそが、唯一ぼくにとって、活気のないこの街に静かに潜む意志のような気もするのだった。
水上集落「カンプン・アイール」。この風景がかなり広い領域に広がっている |
ワイルドなボルネオ島のなかに現れた小さくリッチなこの国は、ぼくらにとっても休憩地のような場所だった。3泊したのみで、しかも、首都のバンダルスリブガワンしか見ていないこの国について、なんら語ることはできない。
水上タクシーも、バンダルスリブガワンでは重要な交通手段 |
ただ、別に大きな魅力を感じなかった一方で、ほっと一息つける国だったことは間違いない。
ちなみに、スルタンの顔の切手を貼ってここから送った荷物は、当分日本に届かなかった。たまに、「届いた?」と実家にメールで連絡しても、「いや、まだ」とのことだった。そうして半年ぐらいして、ああこれはもうどこかでなくなってしまったのだろう、と思っていたころ、突如、荷物は日本の実家に届けられた。
これもまた、「ブルネイ時間」なのかもしれない。
それに慣れる時間もなく、ぼくらはブルネイから再び国境を越えて、今度はコタキナバルの反対側のマレーシア領へと入っていった。
