ぼけと利他 村瀨孝生と伊藤亜紗の往復書簡

第6回

温泉と毛(伊藤亜紗)

2020.11.17更新

 先週末、あるイベントで極地建築家の村上祐資さんのお話を聞く機会がありました。村上さんは、南極地域観測隊として昭和基地に一年以上滞在したり、将来の火星移住計画を見据えた模擬実験に参加して、砂漠や北極圏で長期の集団生活を経験したりしてきた強者です。
 と聞くと、私などはすぐに「アドベンチャー」「サバイバル」「非日常」といったSF的イメージで頭の中がいっぱいになってしまうのですが、村上さんのお話は全然ちがっていました。村上さんの関心はあくまで「暮らすこと」なのです。極地に行くことは確かに冒険かもしれない。だけどいったん到着してしまえば、そこから先は、長い長い「生活」が待っています。村上さんは、南極や砂漠や火星の「退屈」を考えたいと言っていました。
 言われてみれば当たり前なのですが、たとえば人類が火星に行く場合、着陸するとしたら周りに何もない、平らな土地を選びますよね。もしかしたら、360度ぐるりの地平線以外、何もないようなところかもしれない。そんなところで、火星に飛び立つほどの勇気がある人たちが、数カ月や場合によって数年、かなり限られた居住空間のなかでともにすごすというのは、想像を絶する過酷な状況です。アドベンチャーではなく生活、サバイバルではなくアライブ、非日常でなく日常を考えなくてはいけない、と村上さんは言っていました。
 チームには二つの種類がある、と村上さんは言います。一つ目は、みんなで火を囲んで同心円状に集まる「焚き火」タイプ。これは「意志」によって焚きつけられた集団で、お互いの顔が見えています。火の近くは熱いくらいですが、遠ざかるにつれて、徐々に熱は弱まっていきます。
 もうひとつはみんなで同じお湯につかっている「温泉」タイプ。温泉に入ると他人どうし無言で、お互い目が合わないようにしていたりもするけれど、お湯という同じ「気分」には浸かっています。お湯にはいっていさえすれば、温度はどこもだいたい同じです。
 冒険には焚き火が必要ですが、生活は意志の力だけでどうにもなりません。生活において偉大なのはむしろ気分の力です。「こうしよう」と威勢のいい掛け声をかけたり、あるいは自分の中に持つ芯というものは案外もろい。村上さんは表面こそ重要、といいます。服をぬいで無防備になった他人たちが、大地の奥底から湧いてきたお湯に身を沈め、数分もすれば肌もとろけてお互いが違いながらも似かよってくる。生活って確かにそういうものだなあと思います。

 村瀨さんが前回のお手紙に書かれていた「なれ」について考えています。お婆さんの日課だった駅モールとデパ地下巡りに職員さんが付き合うなかで、やがてお婆さんにも職員さんにも変化が起こり始める。何も言わないけれどお婆さんは職員さんに歩調を合わせるようになり、職員さんのほうも休みの日にまでデパ地下に買い物に来ようと考え始める。やがてお婆さんは、最初は拒んでいたにもかかわらず、施設に足を向けるようになります。
 けれどもこれを「信頼関係ができた」と言ってしまうのはしっくりこない、と村瀨さんは書いています。ここにはドキリとしました。確かに「信頼」という言葉も、「関係」という言葉も、ひとりひとりの人間という「個」が先にあって、それらが契約を結んでいるという状態を指す言葉ですね。契約を結ぶことで、いっそう「個」が強まるようなところがあります。
 でも、お婆さんと職員さんはむしろ、一緒にいるうちにお互いの存在をあまり感じないようになったのではないか、と書かれています。これは「なれ」であると。お互いの体を居場所とするようになったのではないか、と。
 この「なれ」は、「慣れ」であり、同時に「熟れ」なのではないかと思いました。デパ地下が舞台だったせいか、「なれずし(熟れ鮨)」のイメージも浮かんでいたかもしれません。「なれずし」は食べたことがないのですが、発酵食品は大好きです。
 「慣れ」は新しい知識や習慣を獲得することによって起こる積極的な変化ですが、「熟れ」は物理的に近くにいることによってたがいに型くずれしていくような、時がかもす旨味という感じがします。表面がとろけています。「慣れ」には焦りがありますが、「熟れ」は意図を超えた偶然の出来事です。
 「熟れ」はとても温泉的です。職員さんも、最初は「慣れ」ようとしていたはずですが、角煮饅頭や戸惑う店員さんたちといっしょにお婆さんという湯につかっているうちに、いつしか「熟れて」いったのではないでしょうか。職員さんの関心が、お婆さんそのものではなくお婆さんの見ている風景へと移る、と書かれていましたが、この「風景」はまさに気分だなと思いました。

 もうひとつ、お手紙を読んでいて気になったのは、「毛」です。
 まず冒頭で村瀨さんが、「野良猫クロの毛」に触れたがっています。黒くて、艶やかな、あの毛並み。村瀨さんは茶わんに餌を入れて差し出します。
 お婆さんも「フワフワした白髪」を狙っています。バスなどで見かけると、思わず手が伸びてさわってしまう。嫌がる人もいれば驚きながらも身を任せる人もいて、白髪のフワフワ感と、バスの車内に走ったであろう緊張のコントラストに、笑みが漏れてしまいます。
 不埒な手ですね。「不埒な手」というのは、最近書いた『手の倫理』という本の最後の章のタイトルなのですが、思いがけず抗い難い衝動を掻き立てられてしまった手のことをこう呼んでいます。動物の体毛も、人間の髪の毛も、毛は、手を誘惑してやみません。
 「思わずやってしまう」や「やらずにはいられない」を引き出してしまう、毛の魅力。村瀨さんのお手紙を読みながら、ケアってそういうものかな、と思いました。
 そもそも毛って手がかかるものですよね。髪の毛も数日洗わないとベタベタしてくるし、長い髪なら丁寧にとかさないとすぐ絡まってきます。毎日着実に伸びるから定期的に切らないといけないし、抜けた毛が床を汚します。動物も毛が生えたものたちは、こまめに自分の体を毛繕いして清潔を保とうとするし、サルのようにお互いにグルーミングしあうことが社会性の維持に役立っている種もあります。
 その、手のかかる毛が、他人を誘惑する。たまらなくなった手がのびてきます。ふれた瞬間、手の方にもうっとりするような快感が伝わってきます。でもなでているうちに、毛が玉になっているところやクセがついているところに気づき、ほぐしたり、伸ばしたり。忙しく働いているうちに、毛の脂が手にもうつってきて、しっとりしてきます。
 引退や死別で盲導犬と別れた友人たちも、口々に「あの毛をなでたい」と言います。盲導犬の毛をなでていると心が落ち着いた、と。一般には、盲導犬は、目の見えない人の歩行や生活をサポートする存在だと考えられていますが、実際に話を聞いていると、もうひとつ、「手がかかる」という大事な役割があるように思えてきます。盲導犬は、まさにケアされることによって、目の見えない人をケアしています。
 毛のケアは日々のことですから、習慣を作り出す力をもっています。極地の生活においても、実はショートヘアーよりもロングヘアーのほうが向いているのかもしれない、と村上さんは言っています(Business Network Lab 人は習慣なしでは生きられないーー極地建築家・村上祐資が「火星」で見つけた、暮らしに本当に必要なもの)。模擬火星実験に、現代風のブロンドのショートカットの女性と、古風な長い黒髪の女性がいたのだそうです。しばらくするとショートヘアの女性が不安定になってしまったのをよそに、長い髪の女性は自慢の髪をとかすという日課を持っていた。彼女は排水溝がつまろうがおかまいなしで、まったく動じることなく極地生活を送ったのだそうです。
 試食をつまむことが日課になっていたお婆さんも、駅モールとデパ地下という広い土地の手入れをしていたのかな、と想像しました。もちろんお店の人は困ったでしょうが、様子を見てまわり、せっせと手をいれてととのえるのはかなり忙しい作業で、そのことがおばあさんの日常を支えていたのかな、と。「毛繕い」、あるいは「庭いじり」のような感じでしょうか。
 庭いじりといえば、劇作家、小説家として知られるカレル・チャペックを思い出します。チャペックは、稀代の素人園芸家でもありました。『園芸家の一年』という本のなかで、チャペックは、アダムがもし人類最初の園芸家だったらというジョークのような空想を展開しています。その様子が、私が勝手に想像するお婆さんの姿に重なるのです。

 もし彼〔アダム〕が、エデンの園に行ったなら、陶酔してあたりを嗅ぎまわり、こう言うだろう。
「ここには、あなた、りっぱな黒土がありますね!」
 そして善悪いずれを見分ける知恵の実を食べることさえ忘れてしまい、どうしたら楽園の黒土を小車いっぱい、神様の目を盗んで外へはこび出せるか、あたりの様子をうかがうことだろう。さもなければ、善悪の知恵の木が、そのまわりの地面にきれいにできたお椀形の縁どり花壇を持っていないのに気がつき、せっせとそこの土に肥料をやりはじめ、頭の上に何がぶらさがっているかさえわからない。
「アダムよ、どこだ?」
 神様が呼ぶ。
「すぐに行きます」園芸家は肩ごしにそう答えるかもしれない。「今、手がはなせないんです」
 そして、縁どり花壇をつくる仕事をつづけるだろう。

(『園芸家の一年』平凡社、p. 48-49)

 いつにもましてとりとめのないお手紙をお許しください。寒くなり、第三波も懸念されています。どうぞご自愛くださいませ。

村瀨 孝生

村瀨 孝生
(むらせ・たかお)

1964年、福岡県飯塚市生まれ。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から、「第2宅老所よりあい」所長を務める。2015年4月より特別養護老人ホーム「よりあいの森」施設長。著書に『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社)、『看取りケアの作法』(雲母書房)、『おばあちゃんが、ぼけた。』(新曜社)など多数。

伊藤 亜紗

伊藤 亜紗
(いとう・あさ)

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院准教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など多数。

編集部からのお知らせ

サントリー学芸賞受賞、おめでとうございます!

51n3EeeSDtL._SX334_BO1,204,203,200_.jpg『記憶する体』伊藤亜紗(春秋社)

伊藤亜紗さんが第42回サントリー学芸賞(社会・風俗部門)を受賞されました! おめでとうございます! 

詳しくはこちら

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

ページトップへ