ぼけと利他 村瀨孝生と伊藤亜紗の往復書簡

第8回

内なるラジオ(伊藤亜紗)

2020.12.21更新

 先日、ある贈り物をもらいました。相手は別に贈ったつもりはなかったかもしれませんが、私にとってはすでに大切な宝物になっています。
 それは、私が最近書いた『手の倫理』という本の一部を、一語ずつ縫うようにていねいに読み上げた朗読音源です。声の主は知人で(Cさんとします)、共通の友人である全盲のRさんのために、本の最初から一章ずつ音読しては、Rさんに送ってくれていました。それを、私も横流し(?)してもらったのです。
 Cさんはプロの朗読家ではないですし、宛先が決まった私家版ですから、読みながらときどきつまったり、余計な言葉が入ったり、言い澱んだりします。指向性のいいマイクを使っているのか、Cさんの目が本のページを追うにつれて、顔つまり音源の向きが少しずつ移動しているのを感じることができます。不思議なのは、息つぎをするたびに、なぜかCさんの手のイメージが浮かぶこと。Cさんは長いこと病気とともに暮らしていて、体にしびれがあるので、呼吸にも少し震えが混じっているように感じられます。

 ピアノに詳しい人は、弾いている音からその人の手の大きさや体型が分かるそうですね。たぶん声も同じだと思います。いや、声のほうがもっと直接的に、その人の体の質や、全身の動きが伝わってくるかもしれません。性格や職業、生まれ育った地域などがその人のしゃべり方に反映することもありますから、声には生きてきた時間そのものも含まれていると言えそうです。
 声に含まれている情報を解凍したいとき、私はよく文字起こしの作業をします。はたからみたらずいぶんおかしな作業なのですが、今回もやってみました。字面は同じですけど、本に書いた文章と、Cさんの声を起こした文章は、全然違うんですよね。

 前回の村瀨さんのお手紙に、たくさんの声が含まれていることに興味を惹かれました。数分おきに「今日は迎えに来るとじゃろか?」とよりあいに電話をかけてくるお婆さんの声。その電話ごしに聞こえる、「何回電話しよるとか!」と怒鳴るお爺さんの声。お婆さんの声が今度は公衆電話からになり、かと思えば眼鏡が見つからないお爺さんが「すっまっしぇん」とよりあいに電話をかけてくる。そもそもお年寄りと電話を介したやりとりがあるということを想像していませんでした。
 素敵なカレル・チャペックの続編でも、アダムはいろいろな声を聞いています。「果実を熟れさせる黒土があるよ」と誘惑する声。「わたしらしさ」にとどまらせようとする声。アダムは声に導かれるようにして黒土のほうへ向い、最後には神様が「おまえがエデンの園だったのか!」と叫びます。黒土を作り出す「モコモコ」も、きっとお尻の声ですね。
 お手紙の末尾に「リアルに会って話をしたい」と書いてくださっていますが、私もお会いして確認したい気持ちでいっぱいです。村瀨さんはよくよくご存知なわけですよね。お爺さんの「すっまっしぇん」がどういう発音なのか。何度言おうとしても、「ま」のあとの「っ」の難易度が高くて、うまく息継ぎができません。お婆さんの「今日は迎えに来るとじゃろか?」も、ものすごい早口な気もするし、ものすごーくゆっくりな気もする。福岡の方言なのでしょうか、「歯がいかけん」に至っては意味も分かりませんでした・・・。あと、お尻の「モコモコ」も、きっと、お年寄りのウンチが出たときの村瀨さんの喜ばしい感覚を表現した声なのではないかと思います。そこには字面からは分からない、昼下がりの光とか、遠くで聞こえる小学生の声とか、トイレに籠る匂いとかがあったのではないかと思います・・・。

 声にはずっと関心があります。
 特に最近は、オンラインで人と話すことが多いので、存在感が希薄なぶん、声の印象が強く残るように感じています。
 CさんとRさんも、そのほか数名の友人と一緒に、毎月一回、オンラインで集まって3時間くらいおしゃべりをする仲間なんです。「コロナ・ビールの会」という名前の会で、新型コロナウィルスの感染拡大以降に始まった集まりです。
 月に一回という定期開催の感覚が面白くて、そうすると、会と会のあいだも、なんとなくつながっている感じがするんですよね。「次回のコロナ・ビールの会まであと10日だな、あの人は病院に行くって言ってたけど、どうしたかな」みたいに。
 他のメンバーも同じ気持ちのようで、どんどん「分科会」ができ始めました。全員で盲導犬の看取りを支えたり、数名で分身ロボットを使っているメンバーといっしょに展覧会を見に行ったり、松島から活〆マダコを取り寄せてたこ焼きパーティをしたり。ケアのような遊びのような研究のような活動がたくさん生まれて、コロナ・ビールの会が、報告会のような感じになってきました。
 コロナ・ビールの会は、声によってつながった「月イチ」の関係ですが、よりあいは、体ごとのつきあいが基本の「毎日」ですね。月イチと毎日では、いっしょにいることの意味が違うのだと思いますが、それでも「定期開催」という今まで苦手だったものの面白さを感じ初めています。「次」を約束することが、接続と切断を作り出し、そこから利他やケアが生まれているような気がしています。

 お年寄りたちは、どんなふうに他の人の声を聞いたり、自分の声を出したりしているのでしょうか。
 ピエール・パシェというフランスの文学者が、自身のお母さんが老いていく姿を見つめています。パシェのお母さんは一〇〇歳を超える年齢なのですが、とにかくよくしゃべる方なんです。というか、黙ることができなくなってしまった感じ。たぶん、そこには通常の意味での「しゃべる」とはちょっと違うことが起こっているのではないか、とパシェは考えます。
 パシェが電話をかけると、お母さんは、「いまラジオですごく面白い番組をやってた」と言うんです。ところが、その番組の内容をよくよく聞くと、彼女の若い頃の話なのですね。つまり、お母さんにとっては、自分の過去の出来事が思い出として湧き上がってくることと、ラジオから聞こえるDJの声が自分に語りかけてくることが、経験としてかなり近いものになっているらしいのです。パシェの言葉を借りるなら、お母さんの中には「内なるラジオ」があるらしいのです。

真先に自分自身に関与している思い出を物語りはじめるとき、彼女は自分のなかからお話が湧きでるのを感じているのではないか。ラジオの放送局がいくつもあるように、お話の放送局がいくつもあって、そこにいけばいくらでもお話しが汲みだせる、無限に汲みだせると感じているのではないか。

(ピエール・パシェ(根本美作子訳)『母の前で』岩波書店、2018年、10頁)

 パシェのお母さんは、もともと話をするのがうまかったのかもしれませんね。私自身は、自分の体験談を初めて人に話すときに、伝わらないのではないかという不安で胸がいっぱいになってしまい、出来事と言葉のあいだの裂け目にひゅーっと落ちるような感覚になります。でも、自然に言葉が出てくる人であれば、あるいは私のような人間でも何度か言葉にして語った話であれば、自分の中にラジオがある感覚になるというのは、何となく分かるような気がします。私の同僚が、自分で授業をしながらいつも全然違うことを考えていて、気づくと授業が終わっている、と言っていたことを思い出しました。
 パシェのお母さんが面白いのは、この内なるラジオに、彼女自身がわくわくしているところです。「自動再生」しているのではなくて、「リスナー」なんですよね。その証拠に、パシェがタイミング悪くラジオの放送中に電話してしまうと、お母さんは早く切りたそうなそぶりを見せるのだそうです。

とにかく彼女ははやくふたたび言葉の列車・調子に乗りたいのであり、あまり長く引き止められたくないのだ。それは彼女の人生の列車・調子だ。乗車しているのはもはや彼女独りで、その車輪の音の伴奏をする物語を聞いているのも彼女独りだ。

(17頁)

 お母さんは、内なるラジオを聴きながら、「ノって」いるのではないかと思います。音楽を聞きながら散歩したり作業したりすると楽しい気分になるように、聞こえてくる声に身を任せる心地よさを味わっている。自分で自分に巻き込まれている、あるいは自分で自分をケアしているのかもしれません。これは、吃音の人が演技をしながらだとどもらないのとちょっと似ているなと思いました。
 声のうち、言われる言葉の字面に注目すると、情報の伝達という一方向のベクトルが見えます。でも、リズムという音楽的な側面に注目すると、言う人と聞く人の区別があまりなくなりますね。ノっているときには、聞こえてきた歌をただ聞いているだけですまなくなって、自分でも口ずさんだり、首や足で拍子をとったりし始めるものです。
 実際、パシェのお母さんにとって、リズムはとても重要な要素であるようです。短い言葉に節をつけて言ってみたり、テーブルや布団を叩きながら話すことがあるのだそうです。

しばしば、いくつかのことばがフレーズ、あるいはフレーズの断片を形作り、意味をもつように思えても、彼女のやり方でもっともすごい点はなんらかのイントネーション、なんらかのリズムを彼女が求めているように思えるところだ。いくつかのことば(たとえばmama, ママ)は彼女に、拍をつけ、抑揚を与え、リズムをもたせることを可能にする(ma-a-ama)。あるいは意味やことばの作成や展開に無頓着な様子でことばをどんどん発しながら、指で元気よく、小さなテーブルや布団、椅子や肘やわたしの傷んでひどく過敏になっている手を叩く。このリズム付けに彼女は大きな満足を覚えるらしいのだが、その満足はどうやらだれとも共有したくないようだ。わたしがその流れに乗って答えようとすると、彼女は苛立ち、やめるか非難する様子をみせる。

(96頁)

 「意味やことばの作成や展開に無頓着な様子でことばをどんどん発しながら」というのは、歌うということなのでしょうね。私が以前接したお年寄りも、話していると自然と歌になったり、手が踊り始めたりする方がいたことを思い出します。でもパシェのお母さんの場合には、リズムは自分だけのものなのですよね。そこに他人がノろうとすると嫌がる。パシェのお母さんも、園芸家のようにリズムを手入れしている感覚なのかもしれません。
 リズムと特別な関係を結んでいるお母さんと会話するのは、きっと不思議な経験だと思います。お母さんの話す言葉は、彼女の意思のあらわれなのか、リズムが彼女にしゃべらせているのか、読み取るのはほとんど不可能に思えるからです。
 もちろん、お年寄りでなくても、意味でなくリズムで話すということはけっこうあるように思います。また吃音の話になってしまいますが、私は、言いにくい単語があっても、別の人が直前にその単語を言ってくれると、なぜかすっと言えるんですよね。「フライ返し」が言えないなと思ってもじもじしているときに、「フライ返しある?」って言われると、「フライ返しね、はい」って渡すことができる。自発的には言えないけれど、他人につられながらなら言える。だから言いたいこととは別に、つられることを優先してしまうことがあります。ずっと韻を踏みながらしゃべれたら楽なんですけどね。

 ここまで考えても、結局「すっまっしぇん」や「今日は迎えに来るとじゃろか?」がどんな声なのかは分かりませんでした。ぼけとリズムの関係、自発的なものとつられているもの、ノることとケアすること。声が人を触発したり、情報を侵食したりするメカニズムにとても興味があります。
 余談ですが、細馬宏通さんという人間行動学の研究者が、「詩の練習」というポットキャストをやっていらして、よく聞いています。その12回目の放送の中で、「さざんがきゅう(3×3=9)」がすごいとうという話をしていました。口の運動の快楽としては、あそこが九九のクライマックスではないかと。たしかにゾロ目はドラマチックですね。私は「はっぱろくじゅうし」あたりもいいなと思ったりします。村瀨さんはどの九九が好きですか?

村瀨 孝生

村瀨 孝生
(むらせ・たかお)

1964年、福岡県飯塚市生まれ。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から、「第2宅老所よりあい」所長を務める。2015年4月より特別養護老人ホーム「よりあいの森」施設長。著書に『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社)、『看取りケアの作法』(雲母書房)、『おばあちゃんが、ぼけた。』(新曜社)など多数。

伊藤 亜紗

伊藤 亜紗
(いとう・あさ)

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院准教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など多数。

編集部からのお知らせ

サントリー学芸賞受賞、おめでとうございます!

51n3EeeSDtL._SX334_BO1,204,203,200_.jpg『記憶する体』伊藤亜紗(春秋社)

伊藤亜紗さんが第42回サントリー学芸賞(社会・風俗部門)を受賞されました! おめでとうございます! 

詳しくはこちら

伊藤亜紗さん『手の倫理』(講談社選書メチエ)

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人が人にさわる/ふれるとき、そこにはどんな交流が生まれるのか。
介助、子育て、教育、性愛、看取りなど、さまざまな関わりの場面で、コミュニケーションは単なる情報伝達の領域を超えて相互的に豊かに深まる。
ときに侵襲的、一方向的な「さわる」から、意志や衝動の確認、共鳴・信頼を生み出す沃野の通路となる「ふれる」へ。
相手を知るために伸ばされる手は、表面から内部へと浸透しつつ、相手との境界、自分の体の輪郭を曖昧にし、新たな関係を呼び覚ます。
目ではなく触覚が生み出す、人間同士の関係の創造的可能性を探る。

(講談社書籍紹介ページより)

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