ぼけと利他 村瀨孝生と伊藤亜紗の往復書簡

第13回

感覚合わせ(村瀨孝生)

2021.03.22更新

 伊藤さんのいう「利他はうつわ」ということが、僕なりにちょっとだけ見えてきました。

 伊藤さんがお手紙に書いていた通り「老いる」とは「もれる」ことですね。介護とはその「もれる」に付き合っている。介護する側が、される側に付き合っているのですが、それは介護される側が、する側に付き合っていることでもある。する側からも「もれる」があって、される側はそれを受け取っている。ひとつの行為を巡って、お互いの「もれる」をやり取りしている。介護される、するの両者が「うつわ」なんですね。

 体が老いるといろんなところが緩んできて生理的な「もれ」が始まります。括約筋が緩んでお漏らしが始まる。意思に反して開門してしまいます。それって、とても恥ずかしい。恥部からの「もれる」なので、人の手に委ねることは簡単じゃありません。

 最近、飼い猫を看取ったのですが、最期は、四六時中うんこが漏れ出るようになりました。お湯で流して、拭きとる。そして、オムツを当てるのですが、それは、それは、猛烈に嫌がるのです。威嚇するように怒りました。猫も人間も、なんか、嫌なんでしょうね。

 「下の世話まで人にされるようになったら、もうお終い」。そんな話をたくさん聞いてきました。「できるわたし」から「できる」が「もれる」。ひとつ、ひとつ、出来なくなるたびに、ひとつ、ひとつ、「わたし」が「もれる」。それは、私のイメージする「わたし」が「私ではなくなる」ことのように思えます。
 生理的な「もれる」が「私」という「固い殻」に穴をあける。殻が硬ければ、硬いほど感情の揺れ幅は激しい。当人は開いた穴の手当てに忙しくなります。「もれない」ように体を鍛えたり、誰にもばれないように隠したり、なかったことにしたり。開き直ったりと。

 それを目の当たりにする僕たちは当人と一緒になって開いた穴に手を当てざるを得ません。当てた手に触れるものに心地よさもあれば、とてもじゃないが受け取れないドロドロとした「もれる」もある。心地よくても悪くても、「ぼ~っ」としてしまいます。共感でも反感でもない、ぼ~っとする。

 「家に帰る」と言い出して、黄昏時によりあいから飛び出していくお婆さんがいました。日勤者が勤務を終える時間帯です。そんな時に90歳を超えたお婆さんが「お母さんとお父さんの待つ家に帰る」というのですから、実現できないことをやってのけようとします。本当にお母さんとお父さんのところに行くつもりなら、お婆さんはあの世に旅立たなければなりません。

 「もうじき、晩ご飯ですよ」。「美味しいお茶がはいりました」。などと、なんとか引き留めようとする。引き留めれば、引き留めるほど、振り切って出て行くのです。仕方なく付いて行くよりほかありません。
 それでもなお、歩きながら甘言を弄して、お婆さんを引き留める。「お腹は空きませんか?」。「そういえば、美味しいプリンがあったなぁ」。「みんなが、お婆さんの帰りを楽しみに待っとうよ」。誘惑して連れて帰ろうとします。

 「ああ、そうですなぁ、あなただけ帰りなっせ」。「わたくしは、そのようなところに用はございません」。お婆さんの応えはにべもありません。連れて帰ろうとすればするほど、反磁石のように逃げていく。「早く家に帰って、あの映画を見たい」。「勤務時間は終わったのに・・・」。僕の頭は計画や目論見で一杯なんです。心は予定通りにいかない不満で一杯。それが、お婆さんに「もれる」。お婆さんは、そのことに抗っている。

 やがて、手の内が尽きてしまい、只々、お婆さんの後に付いて行く。その時の歩きが「ぼ~っ」とするになってくる。方や、お婆さんは、歩いても、歩いても、家に辿り着かない。体力も気力も尽きて「ぼ~っ」とする。お互いが万策尽きて途方に暮れたとき、思わぬ展開が訪れることがあります。

 「あんたも、帰れんかったとなぁ?」。お婆さんは、僕が同じ境遇にあると思い込む。おそらく、僕に余白ができたのでしょうね。お婆さんは僕を同類もしくは「帰ることのできない気の毒なおじさん」として書き込みます。自分の境遇をうつし替えてくる。
 そうなると、お婆さんにも余白が生まれていて、「僕の顔で泊まれる旅館があるから、一緒に行きませんか」という妄言を書き込ませてくれる。

 じゃぁ、最初から「ぼ~っ」として一緒に歩けばいいじゃないか、計画を捨て目論まずに歩けばいいじゃないか、と思うのですが、そうも、いかないのです。
僕にも予定はありますし、「ご飯が出来ました」という、最初の一言でお婆さんが留まってくれる可能性だってある。そのような、日常生活にあるごく当たり前のやり取りを手放すわけにはいきません。

 お婆さんは自分のために歩き、僕も自分のために歩く。そこから始まる、引き留める、突き放す、を繰り返し、お互いが手を尽くした後の「ぼ~っ」とする、がある。
 このプロセスを手放すと、支配と隷属の関係に陥ってしまうようで怖いのです。介護者の都合であれ、要介護者の要求であれ、どちらかの思惑が一方的に通ってしまえば、どちらも人を支配する可能性を孕んでいます。
 
 また、介護者が計画に固執することと、最初から手放してしまうことは、同じ態度に思えます。計画への固執は支配的になり、先手を打つように計画を手放すことは、上から目線となる。どちらも、介護者は常に一歩先を行き、要介護者は轍を歩くことになる。そのような固定された関係で「いま、ここ」を共に生きているとは思えません。
 勇み足で先を歩いたり、慌てて後ろを付いて行ったり、ごくまれに並び歩くといったシンクロに驚く。「いま、ここ」を共にするとは、そのようなことかな、と考えたりしています。

 お婆さんも僕も当初の目的は破れています。伊藤さんの以前のお手紙(第2回アナーキーな相互扶助)に「ともに負けることで介護らしき出来事が成立しているような」とあるのですが、面白いことが書いているなぁ、と思いました。「win-win」ではない、折り合い方があると思えました。

 介護される側、する側、一方的な勝ち負けのない合意に至るには、お互いの「うつわ」に「余白」が必要だと改めて感じました。そういう意味で職員を見てみると、類まれな「余白使い」の存在に気が付きます。

 ある職員は「帰る」といって飛び出すお年寄りに付いて行きました。それが、あっという間に帰ってきたのです。付き添った彼女に「どうやったら、こんなに早く、帰ってこれるの」と尋ねると「お婆さんが自分で帰りました」とキョトンとしている。
 お婆さんは「この子が私に付いてくるのだけれど、どうやら自分の家が分からないらしい。可哀そうだから、ここに連れてきた」と付き添う職員を指差して言いました。
 お婆さんは「帰るモード」から「お世話モード」に移っており、帰ることに留まっていませんでした。これは天然の「うつわ」が持つ余白ですね。深くて底が見えません。

 ある職員は一言も発することなく、お年寄りを意のままに誘導することができました。彼はターゲットのお年寄りの傍に座り、まずはじーっとしています。ジワジワと自分の視線とお年寄りの視線を合わせます。今、座っている椅子から、座り直してもらいたい車椅子へと目配せするのです。
 お年寄りがそのコンタクトに気が付くまで、目で駄目なら手で(ここ、ここ)と示す。それでも駄目なら顎で(そこ、そこ)と伝える。実に根気よくやっている。すると、お年寄りも何も言わず(ここ?)と目配せして自分から車椅子に移動してしまうのです。
 その鮮やかさを目の当たりにした職員たちは、彼の名前を取って「ノブオマジック」(仮名:利他学会議のポスターモデルである馬の名前をお借りしました)と呼んでいました。

 彼は何故、あんなマジックができたのでしょうか。言葉を手放すことで「しゃべらない」という「余白」をつくったのでしょう。お年寄りは「しゃべれない人」の意を必死に汲み取り「これでいいの? あなたの望んでいることは、こういうこと?」という風情で実行しているようでした。
 他の職員なら「さあ、車椅子に座りましょうね」と手伝ってしまうところです。彼の場合、お年寄りが自らの主体を発揮して移動するのですが、自分のためではなく彼の願いを実現するために行っています。

 彼に聞きました。「どうして、言葉で伝えないのか」と。「言葉は誤解を生むから」と、恐る恐る言うのです。お年寄りだけでなく、職員にも必要最低限の言葉ですら「しゃべらない人」でした。彼の「うつわ」には、トラウマという亀裂があって、それが「余白」と生んだのかもしれません。

 西島玲那さんのエピソードに衝撃を受けました。介助をするのが上手な人にも、ぼ~っした人が多いのかもしれません。
 お年寄りの抱えた「ぼけ」はニーズを明らかにしませんが、西島玲那さんはいい意味の「とぼけ」がある人だと思いました。ぼ~っとする介護者も同様です。対馬のよりあいの区長も村人の話が出尽くすまで「とぼけ」ているように思えます。
 無理やり意識合わせをしている感じがしません。みんなが、何かしら委ねている感じです。委ねているのだけれど、手は尽くしています。

 老いの深いお年寄りの集いにいると、途方に暮れてしまうことがあります。参加しているお年寄りの9割近い人が居眠りをする。そこに職員としてポツンと座っていると、どうしてよいか分からなくなる。そのような集まりを「睡眠ing倶楽部:スイミングクラブ」と名付け、何もしないでぼ~っとすることを肯定していました。いわゆる、感覚の開く時間です。

 一般的に介護職は常に「する」ことを考えていて、頭が計画の執行と目論見で一杯なのです。それを組織的に実行するために職員間の「意識合わせ」に奔走する。意識合わせは現場リーダーの悩みの本丸といっても過言ではありません。けれど、介護におけるコミュニケーションの土台は「感覚合わせ」じゃないか思うのです。

 日勤者の「鼻」を夜勤者が引き継ぐことがあります。みんなで集っていると、ふと、うんこの匂いがしてくる。香るお婆さんを慌ててトイレに誘導するけど、漏れてない。しばらく座ってみたものの、出る気配もない。
ここはいったん、あきらめて集いの場に戻る。それを境に「鼻」はお婆さんから関心を逸らさなくなります。歌っていても、おしゃべりをしていても「鼻」は嗅ぎ続けています。
 「ピンとくるたびにトイレに誘ったけれど、結局、お出ましになりませんでした。もうそろそろ、今夜あたりと思うんですよね」。日勤者は「鼻」の得た情報に「感」を交えて夜勤者に報告する。夜勤者は日勤者の「感」を頼りに「鼻」を引き継いで、お婆さんに関心を寄せる。その「鼻」は「夜勤者」の「鼻」ですが、日勤者の「鼻」でもある。

 感覚器の共有から始まる「感覚合わせ」を日々繰り返す。僕の「肌」にはこのような感触だった。私の「鼻」はこう匂った。アタイの「耳」にはこんな風に聞こえた。オイラの「目」にはそう映った。「わたし」が受け取ったトピックの味わいを、それぞれに話す。
この営みを繰り返していると、その人にとって必要と思えることが浮かび上がってきます。

 お婆さんというには若すぎる人が入居しました。彼女の荒ぶりは取り付く島がありません。主任は「僕たちの支援でどうにかなる感じがしない」とため息をつく。
 早々に「ここは私の家です。みんな出て行ってください」と大声が出る。物を投げる。噛みつく。職員やお年寄りに「貧乏人のくせに」「ブスのくせに」と言いたい放題でした。職員たちにできたことはため息の共有です。
 彼女の何に「ふれる」と暴力を引き出してしまうのか。職員たちは、とにかく彼女の「嫌」なことは「しない」を実行しました。職員たちの付き合い方は、彼女と交流すること自体をいったん断念しているように見えました。
 すると彼女の「する」が立ちあがってきます。昼夜を問わない「食べたい」。今すぐ「聞きたい」長渕剛。さっき「入った」けど「また入る」お風呂。「飲みたくない」薬。
 ひとつ、ひとつ、付き合ううちに、ゆっくりと荒ぶりが鎮まってきました。鎮まるは少し神がかっていますね。息が整うと表現した方がいいのかもしれません。荒ぶりという全力疾走の頻度が少なくなってきました。それと同時に暴走気味の「する」もマイブームが去るように少なくなる。とても、ゆっくりと。

 介助には避けられない「さわる」「ふれる」が伴います。どちらにも大なり小なりの抗いがある。抗いの訴えることは「して欲しい」ではなく「してくれるな」です。「するな」という要求。まず、それに応えることが僕たちの「する」ことになる。
 よって、抗いを手探りするような「さわる」「ふれる」になる感じがあります。接触のあり方がイマイチだと強い抗いがある。そこそこ、的を射ていれば何も起こらない。怒るでも喜ぶでもない、何も起こらないことに着地する接触です。

 「感覚合わせ」とは対馬のよりあいに似て「あーでもない」「こーでもない」となって方針がなかなか立たない。「しない」ことに手を尽くした結果、立ちあがって来た「する」に身を委ねる。その「する」は生じるもので、計画に織り込めるニーズとは違うものに思えます。あえてニーズと呼んだとしても、それが言葉になるまでずいぶんと時間がかかります。

 計画の在り方について、改めて考えさせられます。計画は目的を達成するための手順を記し予定を組むものですよね。ですから「する」ことしかありません。「しない」ことが書き込まれることはない。「する」ことへの自由が、おもしろおかしく開いていくには「しない」が深く関わってくるのではないでしょうか。
 そして、計画にはもれなく工程表が付いてきますよね。昨今は、その工期があまりに短すぎます。生身の人間の欲する時間が反映されなくなりました。

 僕はそのような風潮を「しなければならない症候群」と勝手に呼んでいます。この症候群には「過剰なせっかち」という特性があって「遊び」や「余白」を許しません。ぼ~っとしようものなら「チコちゃん」から叱られます。介護の世界にも蔓延していて、ちょっと、うんざりしています。

 単年度の決算が5年に、いや10年、せめて3年になるだけでも世の中は変わるんじゃないでしょうか。(笑)

村瀨 孝生/伊藤 亜紗

村瀨 孝生/伊藤 亜紗
(むらせ・たかお/いとう・あさ)

村瀨 孝生

1964年、福岡県飯塚市生まれ。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から、「第2宅老所よりあい」所長を務める。2015年4月より特別養護老人ホーム「よりあいの森」施設長。著書に『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社)、『看取りケアの作法』(雲母書房)、『おばあちゃんが、ぼけた。』(新曜社)など多数。

伊藤 亜紗

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院准教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など多数。

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