ぼけと利他 村瀨孝生と伊藤亜紗の往復書簡

第17回

「営み」に蓄積する知性(村瀬孝生)

2021.06.06更新

 お手紙が遅れてしまいました。
 近所に住む老夫婦を師匠に、日本蜜蜂の養蜂をしています。よりあいの森の隅っこに巣箱をささやかに置いています。この春、思いもしない勢いで分蜂し始めました。ピークを過ぎたのですが、まだ、終わった感じがしません。
 分蜂する数日前に予兆があります。雄蜂が気ぜわしく飛び始め、それに合わせるかのように、働き蜂たちもブンブンと羽音を立てて舞飛びます。まるでダンスです。みんなで、いつ飛び立つか打ち合わせをしているようです。よく晴れた、気持ちのよい日を選んで、巣を離れます。7000匹から10000匹の大所帯。

 師匠に「明日、分蜂しますかねぇ?」と聞くと、「それは、蜂に聞いてくれ」と答えます。もしかしたら、蜂にも分からないのでは、と僕は思うのです。実は打ち合わせなどないまま、うまく踊れた勢いで巣別れしているようにも感じます。個々がそれぞれに踊るうちに同調が深まり「今だ!」という瞬間がある。もちろん、引っ越し先は事前に探索しているようですが、巣立ちは「いのち」をかけた大冒険です。
 女王蜂に全体を指揮するような権限はないといいます。雄蜂はいても、王様はいないそうです。では、誰があれだけの群れを統率しているのでしょうか。集団にある知性というものを感じてしまいます。「食べる」「排泄する」「眠る」「生殖する」「育てる」そのために「働く」という極めてシンプルな「営み」に蓄積する知性。
 体によるコミュニケートは密度の高い合意形成を集団にもたらすのかもしれません。「太陽の位置をたよりに蜜源を仲間に知らせるダンスをする」と知ったときは、心が躍りました。そのようなダンスがあることを発見し解読したカール・フォン・フリッシュは何という人でしょう。

 蜜蜂たちは生理的「快」を自明の理とする集団ではないか? と妄想しました。寒い日や、雨の日は静かにしています。気温が上がり始めると動きが活発になり、日が沈む前には帰巣します。冬はみんなで玉になって寒さをしのぎ、溜め込んだ蜜を分け合い、飢えをしのぎます。
 時折、巣の入り口に集まって羽をブンブンしています。その姿は、かなり可愛い。羽を扇風機に変えて冷気を引き込み、中に溜まった熱気や湿度を下げているらしいのです。
 気化熱を利用して巣を冷やすといった手段もとるそうです。外で飲み込んだ水を巣内で撒くというのですが、それは雀の涙にも程遠い蜜蜂のひと滴です。集団の力を信じて1匹が諦めないのだとすると恐れ入ります。1匹の力を信じているから、集団が力を発揮するともいえる。

 では、みんなが一斉に「右に倣え」であるかというとそうでもなくて、雨が降ろうと、寒かろうと、朝早くから、夜遅くまで、活動する者もいます。時間差で活動しているのかもしれません。
 人間の社会だと、技術を身につけることで個体差を克服しようとします。よって、個体差が注目されてしまいます。さらには、道具を使って能力を拡張していきます。そこにも知の集積がありますが、蜜蜂と人間は起点が同じだとしても手段が違います。
 蜜蜂たちは個体差を気にせずに、個体数の量で補っている感じです。「お前が運んでくる花粉の量、ずいぶん少ないぜ、俺みたいに頑張れよ(スキルUPしろよ)」なんて言っていないでしょうから。

 なんか、無理なく働いて、みんなで快適になるように動いているように見えるんです。個体差にある限界を超えない範囲で、それぞれが無理なく働く。どのように働くかは、個々に委ねられている。それぞれの個体に権限があっても、集団として成立するのは生理的な「快」をベースにしているからではないか。そのことが結果的に集団を強くする。体の生理的「快」を集団で保ち、個々の命と種が守られている。そこには上部・下部といった命令系統も階層もない。そう妄想して、勝手に描いた集団性に憧れています。
 僕たちも生理的な「快」に根差している集団のはしくれです。蜜蜂たちにあると妄想した集団性を僕たちも創れないだろうかと、妄想がさらに膨らんでいます。

 生理的な快適を得るための重要なポイントはタイミングです。タイミングのあることを知り、それに合わせる、もしくは待つ。そうしないと「快」は得られません。お腹が空いたときに食べる、オシッコしたいときにする、眠たいときに寝る、体調が整わないときは静養して復調を待つ。

「老人介護はタイミングがすべて」。ある職員がそういいました。僕もその通りだなぁと思います。ぼけや認知症を抱えたお年寄りに関わるとき、大切なアプローチとして「説得するのではなく、納得できるように」という鉄則があるのですが、深いぼけを抱えたお年寄りに関わるとき、その方法に限界を感じることがあります。結局、納得の押し付けで終わっているのではないか。
 説得も納得も意識的な営みで合意が成立する感じですが、タイミングが合うというのは、体や感覚の営みをベースにして合意する感じです。ぼけ・認知症状に関わらず、深い老いと関わるとき、体や感覚を媒介に合意したほうが、しっくりすることが多いです。

 いたるところにオシッコをするお爺さんがいました。人って一緒にいるだけで同調しますよね。お爺さんは、よりあいを飛び出して街中を歩き回る人だったから、ずいぶん、一緒に歩きました。一緒に歩くとさらに同調が深まります。
「お爺さんはオシッコしたいんじゃないかな」と感じることが増えてきました。予見にもとづいてトイレに誘います。ドンピシャでオシッコが出ると、タイミングをつかんだ喜びが湧いてきます。けれど、それって、なんか変です。生理的なものって、他の誰でもない「わたし」が感じるものです。それを他者が予見して先手を打つように「オシッコですか?」と介入してくる。お爺さんは、どんな気持ちだったろう。嬉しいよりも、ちょっと哀しかったんじゃないか。
 ある時、誰にも予見されることなく放尿されたオシッコがしっかりと染み込んだ絨毯を、うっかり踏んで靴下が濡れました。そのとき、お爺さんは嬉しかったんじゃないかと思いました。ぺろりと舌を出して「やった、オシッコ踏んでやんの」と、ほくそ笑むお爺さんの声が聞こえた気がしました。

 どんなに工夫してアプローチを重ねてもお風呂に入ろうとしないお婆さんに、「どうせ、入らないだろうな」と高をくくって「入る?」と誘ってみると、あっさりと「入る」と言う。慌ててお風呂を準備したことがあります。僕の意図的な誘いとお婆さんの意識的な選択がタイミングよく一致したというより、間が合ったという感じです。僕はそのタイミングにささやかな喜びを感じます。それは、後にも先にも1回こっきりのお風呂。

 そこで、インスタレーション、ルーブ・ゴールドバーグ・マシン、猫除けかもしれない「魔法陣」です。まず気になったのが、「こうば」「駐車場」「公道」という空間の位置関係です。
 3か所あるよりあいの建物には、共通した空間を用意しています。縁側です。僕らにとって縁側はとても大切なんです。中でもない、外でもない空間。第3の場所。「(よりあいの)「中」「縁側」「外」という空間の配置が光や風を取り込んで生理的「快」を与えてくれるだけでなく、魔法陣的力を発揮してくれます。「駐車場」と「縁側」は似通う点があるのかもと考えました。

「家に帰ります!」と勢いよく飛び出したはずが、縁側に吹きだまる枯れ葉が気になって「帰るモード」から「掃除モード」になる人。同じく勢いに任せて部屋から出たものの、縁側から眺めた風景に改めて「外」を感じてしまい「帰る」ことに躊躇している風情の人。「帰れない」ことを知っている無意識が、「帰りたい」と逸る意識を諫めているようにも見えます。これは「中」のエピソードです。
「外」のエピソードは、よりあいに通うことのできないお婆さん。送迎車に乗れないので、息子さんが車椅子にお婆さんを乗せてやってきます。ふたりで縁側に腰かける。僕らはお茶を出して迎える。「母さん、入ってみるね?」と息子さんが誘うのですが、お婆さんは「嫌」のひと言。そんなやり取りを数か月繰り返して、よりあいの中に入る日が訪れました。

 共通しているのは躊躇できる「溜め」の場所になっていることです。そして、お年寄りの「気」を変える。僕らが直接支援しないですむので、まさに「魔法陣」です。
 中からは「外」しか見えません、外からは「中」しか見えません。縁側は「中」と「外」が同時に観える空間です。「駐車場」の魔法陣にも同じ性質があるのかなぁ。「こうば」と「公道」に挟まれた「駐車場」は「溜め」ることで「気」の変わることを待つ場所かもしれません。「溜め」は「タイミング」をより計りやすくしてくれます。合わせやすくも、外しやすくもするのです。

 そう仮定して考えると、主宰者(こうばの人?)は、あの駐車場に配置した「物」たちの力を借りながら、タイミングを合わせたり、外したりして、「何」かの「気」を変えようとしているのかもしれません。
 よく、土地にある「気」を鎮めるために家相や方角を大切にする人がいますよね。昔の人は土地と方角を観て、神社や仏塔を建てたり、門や石を配置したと聞きます。ばんじゅうとクリオネ型の電球、オシロスコープや釘など、それらを繋ぐ有刺鉄線が、仏塔や巨石と同じ役割をすると気が付いてしまったのかもしれません。日々、福にタイミングを合わせ、邪を外すために配置の研究している。

 福岡には宮地嶽神社みやじだけじんじゃというところがあります。ある日、海に沈む太陽が参道・鳥居とシンクロしながら本殿と繋がります。鳥居の中にすっぽり収まりながら海に沈む太陽。四方に放射する夕焼けが参道を照らすと、1本の「光の道」が現れて本殿を射します。それは、年に2回しかありません。
 人間の太陽とシンクロしたくなる願望を体現した場所は世界にもありますよね。エジプトのアブ・シンベル神殿。メキシコのシビルチャルトゥン遺跡。神殿や遺跡に限らずとも、人はなぜ、一瞬をかけて太陽とシンクロしたがるのでしょうか。農耕、祭事、自然科学・・・蜜蜂のダンス。
「駐車場」にある魔法陣は太陽が放つ光をとらえようとしているのかもしれません。または、不可思議に配置された「物」たちが光に照らされることで生まれる影に「何か」が浮かび上がったりするのかも。それも年に1~2回のタイミングで。それだと、少し高さが足りないかな。
 ひょっとすると、風かな。配置された「物」を風が抜けるときに音がする。万が一そうなら、どんな音なのか気になります。風が演奏する瞬間を楽しめそうです。さらに、その音にある周波数と「こうば」が共鳴・共振すると「何か」が起こる。雨も風と同様にタイミング次第で「何か」が起こりそうです。 
 土、太陽(光)、風、雨(水)。あまたある自然にタイミングを合わせる、外す。自然にある法則性を計算しつくし、一瞬をとらえる。それは極めて人為的ですが奇跡を感じる感動があります。それでいて、謙虚さと不遜が裏腹にあるようで変な感じです。

 伊藤さんが見つけた「魔法陣」はその日から8年も続いています。もっと前から、行われている可能性もあるんですよね。ひっそりと作り続ける主宰者。その営みを観察・鑑賞してきた伊藤さん。その事実だけでも世界は面白さで満ちていますね。いつまでも、謎であることを祈ります。

 おわりに、「よりあいが機能集団を超えてきた」という件です。機能集団とは社会学で使われる用語ですが、目的が明確でその達成のために、人為的・計画的につくられた集団をいいます。そこから考えると、確かによりあいは介護を目的とした機能集団です。けれど、なんというか・・・。
 ご主人が深いぼけを抱えたことで、よりあいと関わることになった妻がいます。妻の人柄もあって、僕たちは「お母さん」と呼んでいます。10年の利用経て、ご主人は天寿を迎え、一緒に看取りました。当時、お母さんは79歳ぐらい。夫が亡くなっても、僕たちのためにヨーグルトをつくり続けてくれました。
 娘さんは独り暮らしのお母さんを心配して同居を始めます。お父さんの看取りを縁に、娘さんはよりあいの調理員として働くことになりました。ところが、病気でお母さんよりも早く他界してしまいます。
 お母さんは再び独り暮らしとなり、今は99歳です。昨年から転倒が増えました。そのたびによりあいに寝泊まりし、回復すると自宅に帰ります。そこには介護保険上の契約や利用者といった関係はありません。

 なぜ、お母さんは僕たちにヨーグルトをつくり続けたのでしょうか。なぜ、僕たちは契約外のことをするのでしょうか。ヨーグルトは僕たちやお年寄りの便通の為、お母さんへの支援はその必要がお母さんにあるからです。でも、それだけではありません。 
 お母さんも僕たちも、今は亡きご主人に顔向けできるように(意を汲み取るために)行動している節がある。死者から報酬はありませんし、社会からの求めでもないのですが、お母さんとご主人のことを知らない、よりあいの若い世代にも「内発的な関係」が承継されています。
 お母さんは言います。「お父さんがぼけたお陰で、私はよりあいと繋がった。こうやって生きていけるのは、お父さんの導きだと思う」と。このような言葉は他のご家族からも聞こえてきます。僕たちも死者の導きのもとに動いている、動かされていると感じる時がある。
 自己の決定に実在しない第3者の存在を招いて関与させているようです。第3者は死者に限りません。その働きには自己の利益を拡大するための人為性・計画性を超える側面があるのではないでしょうか。まだ、表現しきれていませんが・・・。

 楽しく書けましたが、とりとめもなく、筆を走らせました。すみません。

 追伸:僕は「薄いアルミがくしゅくしゅと巻き付けられた買い物カート」が常連であることに「やっぱり」と思ってしまうのですが、その理由が分からず、もやもやしています。

村瀨 孝生/伊藤 亜紗

村瀨 孝生/伊藤 亜紗
(むらせ・たかお/いとう・あさ)

村瀨 孝生

1964年、福岡県飯塚市生まれ。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から、「第2宅老所よりあい」所長を務める。2015年4月より特別養護老人ホーム「よりあいの森」施設長。著書に『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社)、『看取りケアの作法』(雲母書房)、『おばあちゃんが、ぼけた。』(新曜社)など多数。

伊藤 亜紗

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院准教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など多数。

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