ぼけと利他 村瀨孝生と伊藤亜紗の往復書簡

第20回

余韻にとどまる(伊藤亜紗)

2021.07.20更新

 自分の足に「歩きますか?」と聞くお婆さんに共感してしまいました。村瀨さんが「歩けますか?」と「できる/できない」の次元で尋ねた問いに、本人が「成る/成らない」の次元で応じている。お婆さんにとって自分の足は、庭の花みたいなものなのかもしれませんね。「咲きますか?」と蕾に聞くように「歩きますか?」と足に尋ねているように聞こえます。
 さいきん、小学生の息子としたケンカを思い出しました。歴史を教えているときに、「ここは絶対テストに出るから、勉強しておいたほうがいいよ」と言いました。そうしたら息子が猛然と怒り始めたんです。「勉強したって絶対出ないよ! 勉強なんてしたくない!」と。
 なぜ怒るのかなと思ってよくよく話を聞いてみたら、息子は「テストに出る」を、「テストのときに答えが自分の頭から出る」という意味だと思っていたんですね。「テストに出題される」という意味ではなくて。本人は暗記に苦手意識があって、しょっちゅう「テストに出ない」経験をしていたから、「勉強なんてしたくない」と怒り出したのでした。
 お年寄りだけでなく、子供も「できる/できない」で語れない体を生きているなあ、と息子を見ていて思います。本人も、記憶したことを思い出せるかどうかは、意志でどうこうできる問題じゃない、という感じなんですよね。ちょっと鼻がつまっているだけで漢字テストがボロボロになるし、逆に気に入った服を着ると早く走れたりする。そのときどきに「成るもの」の変動が激しいので、とても儚い現象を見ているような気分になります。まわりにできることは、確かに快を整えてやることだけだなあと感じます。

 そもそも教育とケアは、似たところがあるのかもしれません。ケアが「ケアする」という能動性から出発できないように、教育も「教える」という能動性からは出発できません。もちろん知識を与えるという意味での能動的な働きかけをすることはできますが、それはたまごボーロお爺さんにごはんをつくるようなもので、摂取されることもあれば、されないこともあります。
 こちらが与えているときに違うものを受け取ったりすることもあります。息子が幼いときに何度か動物園に連れていったのですが、彼は動物にはほとんど興味がなく、行き帰りの電車と、動物が入っている柵にばかり興味を示していました。
 ましてや、教えるべき内容が「論文の指導」のような高度のものになると、教師にできることはほとんどなくなります。書いている本人にとってさえ、「論文を書く」というより「論文が生まれる」あるいは「論文が成る」といったほうがいいような出来事です。他人が下手な言葉を投げたとしても、お婆さんに「歩けますか?」と聞くようなものにしかなりません。なんとかその人の生理がうまく回りだし、芽が出て、成長するように、庭師の態度に徹します。
 私の研究室には常に10人程度の学生が在籍しています。理工系の研究室であれば実験を一緒に行うなど共同作業も多くありますが、私の研究室は人文社会系なので、基本的には各自が自分のテーマにしたがって研究をしています。週に1回ゼミを開いて、文献を読んだり、お互いの研究の進捗を共有しますが、最終的な論文の執筆が本格化するのは秋以降です。
 学生にとっては苦しい時期ですが、教師からすると毎年が驚きの連続です。学生によって、論文の書き方が全然違うからです。何せ、本人でさえ、論文を生み出す以前に、自分という体から論文を生み出すやり方を試行錯誤しているようなところがあります。学生が安心して試行錯誤できるように、「一度くらい壊れないと論文はかけないよ」と発破をかけます。
 教師が傍にいて見ているのは、ほとんど「溜め」だけです。100枚の論文の背後が生まれるためにはその数倍の文字数の下書きが必要で、しかも下書きの中でもボツにしたはずの一節が数週間、あるいは数ヶ月の時間を経てがぜん輝き出し、論文の核に成長したりするからです。忘れると考えるのあいだのような領域に、どれだけ言葉を溜めておけるかが人文系の論文の出来を左右します。
 しかし溜め方には正解はありません。学生によって、本人の生理にあった溜めの量と時間が違うからです。私が密かに「鶴の恩返し系」と呼んでいるタイプの学生は、溜めがとても長い。どんなに促しても、書き途中の論文を見せてくれません。下手をすると一度も私が中身を見ないまま論文提出日を迎えてしまいます。
 逆に「緊急オペ系」の学生もいます。毎週のようにSOSを出してきて面談を希望する学生です。溜めがすぐに流れていってしまうので、頻繁に中身を補充しにくるのです。こちらが大したアドバイスができなくても、本人は安心して帰っていきます。
 院生室に机を並べて同時に論文を書いているわけですから、お互いの溜めが干渉することもあります。あえてその効果を狙って、Aという学生に伝えるべき内容を、Bという別の学生に伝えることもあります。個人作業でありながら、どこか影響しあっています。
 自分にはどうにもならないものたちを前にして、それを生態系のようなものとみなし、溜めの調整を行っている。教師という仕事は、とても不思議な職業だなと毎年思います。

 私の研究目的のインタビューに応じてくださる方のなかにも、溜めるために応じてくださったんだな、と思う人がいます。たとえば、何かしらの喪失を抱えている方です。喪失の事実は苦しいのだけれど、でも喪失の余韻を失うのはもっと苦しい。無理に物事を前に進めてしまわないようにするために、インタビューに応じてくださる方です。
 昨年の秋に盲導犬の看取りをした人の話を、月に2回、聞かせてもらっています。3月のお便りにも登場してもらった、西島玲那さんです。最初に話を聞いたのが去年の12月28日で、もう半年以上になりました。まだまだ終わる気配がありません。生きていたときに盲導犬が道の真ん中で座り込みをした話や、競馬場で馬に遭遇したときの様子などを、ひとつひとつ話してもらっています。
 さまざまな葛藤がやってきます。犬と自分は確かにひとつの世界で生きていたと思っても、自己満足だったかもしれないという疑いが頭をもたげることもあります。でもそれについて彼女が語ることは稀です。
 春に、共著の形でひとつのエッセイをつくりました。彼女が語ってくれたことを私が文章にしたのですが、末尾に、彼女がLINEで送ってくれたメッセージを付け加えました。

やっぱりまだまだ体の一部がふにゃふにゃして、左の足がセラフによりかかろうとして私があんまりちゃんと左足を支えてない気がします。左手はもう三ヶ月くらいはセラフのリードを握っていないはずなのに、リードを使ってセラフと手を繋いでいる自分の手をどこかに忘れてきたみたいに思えます。大袈裟ではなく、まだ自分の左側の、特に足と手は自分のものでなくなったような気がして、白い杖を握る力加減がうまくできてないみたいです。しょっちゅう杖を落としますもん。不便だけど、まだこのまんまの体でいたいですね。今の手が自分のものに思えるようになったら、それはそれでとてもさびしいですから。(「セラフと新潟逃避行」『文藝』2021年夏号)

 セラフというのは彼女がとても大切にしていた盲導犬の名前です。セラフをずっと体の左側に連れていたので、セラフがいなくなった今でも、彼女の体の左側にはセラフの余韻が残っているんです。余韻とはとても大切なものですね。それを彼女は「体のふにゃふにゃ」として感じている。白杖を落としてしまったりして不便だけど、そのままでいたい。「ふち」を閉じたくないのです。
 天気は未来志向だけど、体は過去を余韻として残します。わたしは10年くらい前からヨガをやっているのですが、ヨガが自分にあっているなと感じるのは、ヨガが余韻を重視する営みだからです。バンザイしてからその腕を下ろすと、肩や脇の下にバンザイの余韻が残りますよね。この余韻の時間は、ポーズをとっている間よりも、体が生き生きしています。
 だから、ヨガではポーズとポーズのあいだの時間は、休憩ではないんです。それは次に向かう準備の時間でもあります。体に残る余韻にとどまることが、おのずと次のポーズを呼び込んでいきます。
 多飲症という水飲みがやめられない病気があります。精神科に長期入院中の患者さんの20%前後に起こるそうで、水を飲み過ぎると失神やけいれんの発作が起こるので大変危険です。でも、禁止すればするほど隠れて飲んでしまう。
 その対処法として山梨県立北病院が「申告飲水」というアプローチを提案しました。看護室内においしい冷水を置いておいて、喉が渇いたと感じたら、患者さんは堂々とそれを飲みにくるようにしたのです。隠れて飲むのではなく、みんなと一緒に飲む。そうすると、過度の水飲みが改善されていくのだそうです。
 これは私の想像ですが、看護室でみんなと飲む水には余韻があるのだと思います。五臓六腑に染み渡る、とまではいかなくとも、飲んだ水が体にひろがっていくおいしさを感じることができる。陰で飲んでいたときは「体を浄化しなければ」のような抽象的な意味に焦らされて飲んでいた水が、他の人とのつながりの中で、味わうことができる対象になるように思います。

 天寿を迎える体が弱々しくない、という村瀨さんの実感には本当に驚かされました。死と言えばどうしても「停止」のイメージがあります。しかし村瀨さんは、死ぬときほど体はフル回転して絶好調だと言う。死をあれほどたくさんのカギカッコを使って描写した人はいないのではないでしょうか。全身のあちこちが楽器のように音を立て、全体が指揮者のいないオーケストラになっているかのようです。
 そのオーケストラをなるべく阻害しないように、ただ成るにまかせること。それがお迎えを待つことだと村瀨さんは書かれています。「お迎えを待っていると時間がゆっくり流れ始め、空間に粘りが出てきて、まったりする」。ここにもやはり溜めがありますね。
 看取りの「ふち」を触った経験は、体のなかに強い余韻を残すのではないかと思います。さいきん職場の同僚がお父様を亡くされたのですが、さいごに納棺の作業を手伝ったそうです。病院服からスーツに着替えさせたのですが、手を引っ張って痛くないか、背中にシワが寄って気持ち悪くないか、などと考えているうちに、遺体でありながら介護しているような感覚になったと言います。同僚はとても満足気でした。
 余韻は生と死、在と不在、過去と現在の境界を超えて、体と体、体とモノをつなげますね。余韻や溜めといったものをむしろ主にして私たちの営みを見直してみると、「教える」「看取る」「味わう」「感じる」といった動詞の裏拍をとるような、違う世界が見えてきますね。私にとってはとても新鮮な世界です。この視点から見えてくるものを、もう少し考え続けてみたいと思っています。

村瀨 孝生/伊藤 亜紗

村瀨 孝生/伊藤 亜紗
(むらせ・たかお/いとう・あさ)

村瀨 孝生

1964年、福岡県飯塚市生まれ。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から、「第2宅老所よりあい」所長を務める。2015年4月より特別養護老人ホーム「よりあいの森」施設長。著書に『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社)、『看取りケアの作法』(雲母書房)、『おばあちゃんが、ぼけた。』(新曜社)など多数。

伊藤 亜紗

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院准教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など多数。

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