ぼけと利他 村瀨孝生と伊藤亜紗の往復書簡

第21回

「わからなさ」の海(村瀨孝生)

2021.08.05更新

 僕は介護保険の要介護認定が好きで、嫌いです。
 93歳のお婆さんに調査員が質問します。
「おいくつですか?」と。
 唐突な質問に、お婆さんは自分の年齢が頭から出てきません。
(伊藤さんの息子さんとおなじですね。)
 お婆さんの手が、わなわなと震え始めます。あれはきっと苛ついています。自分の歳が分からない「わたし」に。その「わたし」にそんな質問をしてくる「わたしたち」に。
 お婆さんは答えました。

「忘れることにしています」。

 体の「できる/できない」ばかりに目をつけて、あげつらう調査の在り方が嫌いでした。「忘れる」という「できない」に対し「忘れることにしている」という「方針」で応えるお婆さんに「わたしたち」はどう応答すればよいのでしょうか。その戸惑いを感じる瞬間が好きでした。

「今の季節は分かりますか?」。
「そりゃもう、最高の季節です」。

「お生まれはどちらですか?」。
「あなたこそ、どちらのお生まれですか?」。

「お母さん、私、誰か分かる?」。
「知っとるくさ、あんたはあんたよ」。

 僕は「試される」と強い緊張が体に走ります。だから、テストはもちろんのこと、面接となるとまるで駄目でした。力が発揮できていない気がして落ち込んでばかりでした。
「できる/できない」という質問を普通の会話に変える。質問に対して質問で返す。「できない」ことがバレないように取り繕うお年寄りの、飾り気のない機智が小気味よいのです。深いぼけのあるお年寄りは、「人を試す」かのような質問でも誠実に答えてくれます。答えに「ずれ」を携えて。でもその「ずれ」は「わたしたち」が知の領域としているストライクゾーンが、いかに狭いかに気が付かせてくれる。ぼけの「知」には、てらいのない寛容な構えがあります。
 人に「わかる/わからない」を問うとき、まず、一呼吸おいて「わたしたち」の「わかる」に疑問を持つように努めています。「すでに知っている」と高をくくっていたことを覆してくれるのは、ひとりのお年寄りの存在でした。ひとり、ひとりと出会うことは既知を手放し、そのつど、立ち上がってくる意味や価値に触れることでもありました。

 先日、あるセミナーで「いい介護をするための教育は可能か」という問いをいただきました。僕は「できないでしょうね」と反射的に答えてしまいました。躊躇いのない態度に、ちょっと反省しています。
 伊藤ゼミの学生さんのように、よりあいにも「鶴の恩返し系」と「緊急オペ系」の職員がいるように思います。どちらかというと僕は「鶴の恩返し系」です。実感からしか出発できない傾向があって、それを言葉にすることに時間がかかります。
 実感と言葉の間には「わからなさ」の海が広がっています。そこを泳いだり、潜ったり、漂ったりしている。ときには溺れたり。それは、僕にとってひとつの余韻かも知れません。職員によっては、「わからなさ」にとどまることのできない人がいます。それは「緊急オペ系」でしょう。
 僕としては実感を頼りに、「わからなさ」を十二分に味わって生まれてくる言葉を声にしたい。その声を聴きたいと考えています。「わからなさ」の海が早々に概念化された言葉で塗り固められないように、十分な「溜め」をつくりたい。職員たちと肉声をもって、のんびりと対話したいと思うのです。
 ややもすると、「わかりたくない」のです。特にその人に秘められたものや孕むものを。「わかる/わからない」を手放して一緒にいることが心地よいのです。できれば、その人の「溜め」から漏れ出してきたものに仕方なく関わりたいと考えています。
 
 よりあいには、100歳のお年寄りが男女2名いらっしゃいます。おふたりともすべての行為に介助が必要です。介護する職員は「命がけで生きておられます」と言います。
 お婆さんは寝返りの介助をするだけでも呼吸が乱れるときがあります。肺が石灰化しているんです。ですから、入浴なんてまさに「命がけ」です。
 皮膚も体と乖離したようにだぶ付いて収縮性がありません。うかつに触るとうっ血してしまいます。完熟トマトの皮がぱっくり口を開けるように、実に簡単に皮膚が裂けてしまうこともあります。
 先日、お爺さんは食後に意識を失いました。ご飯を食べると胃は消化液を出すために水分を欲します。水分を供給するために血は胃に集まります。よって頭の血がお留守となり意識がなくなった。もしくは、血中の水分が胃に採られたことで、血の粘度が上がり一過性の脳梗塞を引き起こした。など、いくつかの原因を探ることができるのですが、いずれにしても、食事したことによって意識を失った可能性が高いのです。
 つまり、おふたりは「生きるため」に必要な最低限の行為によって「死んでしまう」おそれがあります。職員が言うように「命がけ」で寝返りをうち、ご飯を食べている。「偶然にも死んでしまう」のだと思いました。ということは「偶然にも生きている」んだなぁと。
 お爺さんの傍に付き沿いながら「よし、今なら食べられるかも」とつぶやいて職員が食事の準備をしていました。あの職員は意識を取り戻したお爺さんの体にある余韻を感じながら、どうするか考えていたのでしょう。

「介護に役立つテクノロジーって、何でしょうか」と通信系の技術者から尋ねられたことがあります。
 ある看取りが思い出されました。今にも呼吸が止まるかもしれない。そんなお母さんの知らせを受けて、息子さんは福岡へと車を走らせました。といってもスタートは東京です。どんなに頑張っても間に合わないことは明らかでした。
「母さん、俺! わかる?! 今、高速道路のパーキングにいるよ。今、向かっているから頑張って・・・」。息子さんはスマホのビデオ電話から話しかけました。スマホの画面に自分の顔を映し出し、そこからお母さんを見ています。
 姉と妹がスマホを持って、「お母さん、分かる? 目の前にいるのよ。ほら。お母さんのところに来てくれているのよ」と声をかけました。
 息子さんの顔がお母さんに見えていていたのかよくわかりません。けれど声はちゃんと届いていたと思います。息子さんの声を聴いた直後に、す~っと息を引き取りました。
 お母さんは、ほっとしたのだと、僕には思えました。体と体は離れていても「何か」が伝わっているのです。姉妹の存在が媒介となって、お母さんと息子さんを繋いでいるようでもありました。スマホを囲んで家族がその存在を感じ合う看取りがあるなんて、思いもしませんでした。
 天寿を迎える体が、いよいよ息を引き取る時、その営みはとても静かになっていきます。デジタル機器では拾いきれない鼓動と息吹が体を包む。手はその繊細だけど確かな営みを感じ取ります。病院にあるモニターの波形が突然ピーッと音を立て直線になるような死に方を体はしません。
 さっきまで温かかった体が嘘のように、す~っと冷めていきながらも、ほんのりと温みを残す「感じ」、体の営みが静かにゆっくりと小さくなって消えていく「感じ」を、遠くにいる息子さんが手や頬で感じることはできないだろうか。息子さんにある温かさや鼓動をお母さんが感じることはできないだろうか。精度の高い再現がなされる必要はありません。お母さんと息子さんにある体のリズム、ペース、トーン、そして温みが表現されれば、いいのです。その実感は余韻となって息子さんの体に残り続けるはずです。

 セラフと西島玲那さんのお話はいつも感情移入してしまいます。セラフはずっと玲那さんの左にいたのですね。ふたりはいつも「いま、ここ」で何を成すべきかに息を合わせ、後は成るにまかせて、一緒に世界を受け止めてこられたのだと。感覚の交換はまだ続いて、セラフはそこに居ないことで応答する。それが余韻を生んでいるのですね。
 セラフと玲那さんが繰り返してきた感覚合わせに想いを馳せました。セラフは玲那さんに感覚を開く。玲那さんもセラフに感覚を開く。ふたりの間には、どのような感覚の交換があったのでしょうか。
 セラフは玲那さんにある「いつもと違う感じ」に気を配る毎日であったと思えるのです。ふたりでひとつの行為を成すには、つねにタイミングを合わせる努力が互いに求められます。そのつど、間合いを取り続けていると、その人の体に流れるリズムやペースのあることを知ります。すると、なんとなくですがトーンの違いに気が付くようになる。「今日は、いつもと違うなぁ」という感じが体に残るのです。
「違和感」が、引っかかるように体に残り続ける時は、主治医に伝えます。「いつもと、違う感じが気になります」と。その訴えに基づいて主治医が診断すると、治療すべき病気が見つかることがある。その確率はかなり高いのです。ありがたいのは、主治医が僕たちの実感を信じてくれることです。
 いつもとの違いを感じることは危機を避けるうえで大切なことでした。セラフは玲那さんの危機を回避することを、ひとつのミッションとして社会から与えられていました。その点では僕もセラフと同じ立場にあります。だから、盲導犬としてのセラフに教えてほしいことがたくさんあります。

 介護して思うのは、お年寄りの実感に付き合うことの大切さです。実感は二つあるように思えます。「体と脳が一体となった実感」と「体と脳が乖離した実感」です。
 例えば、お腹が「グウ」となる→「何か食べたい」という直球のような実感は介護する僕たちも受け取りやすい。「体と脳が一体となった実感」です。
「オシッコが出ます」。当人の訴えに応じて何度もトイレに行くのですが、オシッコはお出ましにならない。膀胱の機能に異常はないのに尿意を感じてしまうお年寄りがいます。これは、かなりの変化球でキャッチしにくい。体からの信号を脳が翻訳し間違えたのかと思えてしまいます。これが「体と脳が乖離した実感」です。
 いずれにしても、当事者にとっての実感は、いままさに自分の体で起こっている事実なのです。それが、論理的に起こり得ないことであっても。
 僕は交通事故で入院したことがありました。その時、尿道にカテーテルが挿入され、袋につないでオシッコを溜めるという処置が施されました。しばらくすると、お腹が張って仕方ありません。膀胱がパンパンで破裂寸前のように感じるのです。
 看護師さんを呼んで「オシッコで膀胱が破れそうです」と訴えるのですが「大丈夫よ。袋はまだ一杯じゃないから」と諭されました。確かに、膀胱にオシッコが溜まっているはずがないのです。じゃあ、あの苦しさを感じているのは体なのか、脳なのか、それとも心でしょうか。自分でも分かりません。
 おそらく、ベッド柵にぶら下がった袋にオシッコが溜まることで、膀胱は尿道と同じ通過するだけの管となっていたはずです。それでもなお、膀胱は袋にある圧力を感じていた。血や神経の通わぬシリコンやポリウレタンで作られたカテーテルと袋に、僕の膀胱がシンクロしている。その圧に破裂すると実感したのです。
 当事者が直面しているのは、「正」「誤」でも「正常」「異常」でもない、「わたし」が生き生きと感じていることなのです。

 そんな一筋縄ではいかない実感が人にはあります。セラフ、君にはそれがどう観えましたか。玲那さんにある実感をどのように受けとめたのでしょうか。
 熱い・冷たい、痛い・快い、怖さ・安らぎ、空腹・満腹など体に生じる実感は、生き物に通底するものだと思うのですが、それがふたりを繋ぐ基礎となっていたのでしょうか。
 君が道の真ん中で座り込む姿から想像してみました。君は自分の実感を玲那さんに伝えることに実直だったのかもしれませんね。君が感じた怖さや安らぎをちゃんと伝えることで玲那さんを守っていたのではないかと、思えてきました。

村瀨 孝生/伊藤 亜紗

村瀨 孝生/伊藤 亜紗
(むらせ・たかお/いとう・あさ)

村瀨 孝生

1964年、福岡県飯塚市生まれ。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から、「第2宅老所よりあい」所長を務める。2015年4月より特別養護老人ホーム「よりあいの森」施設長。著書に『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社)、『看取りケアの作法』(雲母書房)、『おばあちゃんが、ぼけた。』(新曜社)など多数。

伊藤 亜紗

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院准教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など多数。

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