ぼけと利他 村瀨孝生と伊藤亜紗の往復書簡

第24回

ゾンビと兜(伊藤亜紗)

2021.09.21更新

 村瀨さん、ホラー映画がお好きなんですね。いただいたお手紙にものすごく感動したのですが、本題でないところに反応してしまいました。
 私はホラー映画苦手なんです。内容以前に、ホラー映画のDVDが家にあるだけで怖い。研究室に学生を受け入れるときにも、必ず「アートか体に関することなら何を研究してもいいけど、ホラーとスプラッターだけはだめ」と釘を刺しています。
 にもかかわらず、過去に一度だけ、ゾンビに関する文章を書きました。小林耕平さんというアーティストに「作品の設計図になるようなテキストを書いてほしい」と言われて、それならばとゾンビについて書いたんです。タイトルは「ゾ・ン・ビ・タ・ウ・ン」。それをもとに作られた小林さんの作品は、2019年にANOMALYというギャラリーで発表されました。
 作品の最終形態を完全に小林さんに委ねたかったので、論理としては、自分でもよく分からないことを書き連ねました。でも、書かれていることの素材は、全部実際の経験にもとづいています。今読むと、ちょっとタマシイ的だなと思います。
 このテキストの中では、ゾンビとは「再生」であり、「あるものが実は別のものでもあった、ということが明らかになる事態」と定義されています。たとえばリメイク品を扱う店に入ったとき、リメイクされた物たちの「前世」が突然再生される感じがして、知覚に混乱が生じました。テニスボールをリメイクした椅子脚キャップは、こちらに飛んでくるように見えるし、ホースをリメイクした輪投げは、急に水が吹き出しそうな予感を感じさせます。
 こういうときに体が人の目に見せる現実は、とても鮮明ですね。理性的な、あるいは村瀨さんが書かれているように「時勢にあった」説明をつけるならば、「自分がその物について知っている観念が呼び覚まされた」ということになるのでしょう。でも体からすれば、現実と現実でないもの、存在するものと存在しないものの区別は、それほど簡単ではないのだと思います。少なくとも言葉がそれらを区別するより先に、存在しないものを存在していると感じたり、現実でないものを現実だと確信したりする、ということが起こる。あるいは「違うと分かっているのに感じてしまう」ということが起こる。

 私がホラー映画が苦手なのは、この「違うと分かっているのに感じてしまう」あるいは「感じているけど違うと分かっている」が、だんだんただの「感じてしまう」→「感じている」→「いる」になっていきそうな気がするからなんだと思います。マジになっちゃうんです。
 たとえば、お風呂に入っていて窓ぎわに幽霊が見えたら、村瀨さんはどうしますか。私は「いやいや、あなたは幻でしょ」ってちゃんとお断りできない気がするんです。「ずいぶんベタだなあ」くらいは思うかもしれませんが(笑)。自分の体が作り出す現実に、言葉が負けるんじゃないか、というのがホラーに対して感じている一番の恐怖かもしれません。でもこれは、まだまだ言葉にしがみつきたい気持ちの裏返しかもしれませんね。
 お婆さんの気迫のこもった今生の別れに号泣してしまった職員さんは、ホラーはお好きでしょうか。この職員さんが、お婆さんの「さよなら」を「いやいや、またいつでも会えますよ」とお断りできなかったところに、思わず引き寄せられました。それは、職員さんの体に蓄積されたお婆さんの存在の重しのようなものを感じさせます。でもその職員さんが、お婆さんと自分の体の「マジ」に身を任せることができたのは、よりあいという場に自分がつなぎとめられているという安心感があったからかもしれませんね。
 
 利他は、しばしば「身が動く」という言葉で語られます。「これをすると自分のためになる」といった損得のそろばん弾きが始まる手前で、もう体が動いて、相手に関わっている。そんな行為にこそ利他が宿るといいうのです。言い換えれば、「体に先を越される」ということですね。さまざまな偶然から利他という研究テーマを得て一年半になりますが、自分がずっと考えている体の問題との接点はここにある、と思ってきました。
 でも「身が動く」という言葉には、どこか「無私」のニュアンスがあって、いまひとつリアリティを持てないでいました。「目の前に倒れている子供がいたら誰だって身が動くでしょう」のような、人間本性に訴えかけてくる道徳的なニュアンスも嫌いでした。「身が動く」について語ろうとすると、「身」なのに「心」の話になってしまう難しさを感じていたんです。
 ところが村瀨さんのお話をうかがっていると、「身が動く」をちゃんと倫理のレベルで、つまり具体的な状況のなかでの戸惑いをふくんだ人間関係の問題として捉えることは可能なのだ、と思わされます。前回のお手紙で、村瀨さんはこう書かれています。「おそらく介護する体にはこれまで関わってきたお年寄りたちの「日々気を配っているもの、感じようとしているものがつくりあげた、目には見えないほんとうの姿かたち」が堆積しているのではないでしょうか。このような営みは介護する体に限らず、すべての生活する体に生じていると思います。」
 ポイントは、たぶん時間ですね。「身が動く」の背後に時間の堆積があるということに気づくことができれば、それは時間を溜めるうつわとしての体の問題に帰ってきます。人は何か超越的な命令にしたがって「身が動く」のではなくて、体に溜まったものによって「身が動いて」いる。体は、まさに村瀨さんが話してくださった「閃き」が起こるような、うごめくコンポストなのだと思います。
 面白いのは、自分の体はひとつしかないということですね。だから、Aさんと過ごした時間の堆積が、ふいにBさんに向けて身を動かしたりする。Aさんとの時間がAさんとのあいだに閉じていなくて、他の人との関係に無節操につながったり混ざったりしている。「人間関係」というと、ふつうは体の外にあるものと思われていますが、実は体の中にもあるのかもしれません。
 特に相手が自分には理解しがたいものを含んでいるときには、その謎が自分の中に残り続け、それを解く鍵が別の人によって与えられることがありますね。リハビリパンツのお婆さんが、村瀨さんの体の中でミチコさんの謎を解いたように。「僕の体を媒介にミチコさんとリハビリパンツのお婆さんが会話した感じ」。すごく面白いなと思いました。村瀨さんの体のなかで、リハビリパンツのお婆さんが利他的な存在になっています。

 無関係なものの関係、あるいは平行のなかの交差、といったものに興味があります。
 さいきん『ドライブ・マイ・カー』という映画を見ました。村上春樹の短編をもとに濱口竜介監督がつくった三時間もある映画です。
 主人公の男は、妻を病気で突然亡くしています。妻を救えなかったという罪の意識にさいなまれながら、妻が最後に残した言葉の意味を探しています。
 面白いのは、この映画では、人と人が対面で話すシーンがものすごく少ないんです。たいてい、車の中とか、バーとか、横の関係で人と人が話している。相手に言葉を届けるというよりは、各々が空間に向かって言葉を置いているような、平行の関係です。
 その空間的な平行関係は、そのまま人と人の関係でもあります。主人公のとなりで、母を失った経験について語る人がいる。その人はあくまで自分の母のことを話しているのですが、それが主人公のなかで妻の見え方を変えてゆくのです。主人公は演出家・俳優でもあるのですが、自分が舞台であつかっているチェーホフの戯曲とのあいだにも同じようなことが起こります。関係ないのに、関係してくるんです。
 主人公にとっての妻と、その人にとっての母、そしてチェーホフの戯曲。本来、それぞれに自己完結した存在なのに、たまたまそばにあったために、共鳴が起こって、謎が変質していく。人間の欲望や意図にもとづくヒューマンドラマだったら一時間で終えることもできると思いますが、この作品は存在どうしの関係を描いているので、三時間かかってしまいます。

 私の中にも、もう十年くらい住み続けているおじさんがいます。知り合いでもなんでもないのですが、混んだ駅のコンコースで見かけました。実際にその姿を見たのは合計して一分にも満たないと思います。顔も覚えていません。
 最初にそのおじさんを見かけたのは、電車の中でした。おじさんは席に座っていて、私はその斜め前くらいに立っていました。「英国紳士」といった雰囲気の小綺麗な人だったと思います。三揃いのスーツ姿で、静かに新聞を読んでいました。
 電車が駅につき、人がどっとホームに吐き出されます。流れに乗ってそのまま改札のほうに向かったのですが、コンコースがずいぶん混んでいる。どうやら急に雨が降ってきたようで、傘を持たない人が駅の中に立ち往生しているのでした。
 私も傘を持っていませんでした。とりあえず改札を抜けましたが、空は真っ暗で雨足も強く、しばらく雨宿りが必要そうでした。
 と、さきほどのおじさんが私の横を通り過ぎていきます。傘を持っていないようなのですが、あれあれと思う間もなく、三角形の形をしたものを頭に載せました。そして、歩調をゆるめることなく、そのままのスピードで雨の降る中に出ていきます。
 おじさんがかぶったものは何か?何と、それは兜でした。おじさんは、さっきまで電車の中で読んでいた新聞紙で、いつの間にか兜を折っていたのです。子供のころに端午の節句に作って遊んだような、あの両側に角がついた兜です。おじさんには孫がいたのかもしれません。
 いずれにせよ、それを戦国武将のように悠然と頭に載せ、しかし身のこなしはあくまでスムーズに、おじさんは雨けむる町に颯爽と消えていきました。まるで、イギリスではこれが当たり前だ、というような風情でした。奇を衒った様子もなく、背筋はピンと伸びていて、後ろ姿はまさに紳士そのものでした。
 あまりのことに、私には一瞬時が止まったように思えました。狐につままれたような気分です。そして、その光景がそのまま焼き付いてしまいました。
 不思議なのは、何かに迷っているときや、自信が持てないときに、おじさんの後ろ姿が浮かぶことです。
 学会発表の前の不安な時間とか、初めて誰かを訪問するようなときに、おじさんがやってくるんです。おじさんは、発表の内容とも、その訪問相手とも、まったく関係ないのですが、雨の中を歩く兜の後ろ姿を見ているうちに、ああこれでよかったんだ、と思えてくるんです。
 おじさんも、こんな仕方で私を助けているとは、まさか思わないでしょうね。もっとも、おじさんを実際に見てからもう十年近くになるので、私のなかのおじさんは、本物とはだいぶ変わっているのかもしれません。
 そう考えると、あのおじさんは不死のゾンビみたいですね。事あるごとにやってきて、私の横を通り過ぎていくゾンビ。いままでその存在をちゃんと意識したことはなかったのですが、同じようなゾンビが、他にも何体か自分の中にいるような気がします。

村瀨 孝生/伊藤 亜紗

村瀨 孝生/伊藤 亜紗
(むらせ・たかお/いとう・あさ)

村瀨 孝生

1964年、福岡県飯塚市生まれ。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から、「第2宅老所よりあい」所長を務める。2015年4月より特別養護老人ホーム「よりあいの森」施設長。著書に『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社)、『看取りケアの作法』(雲母書房)、『おばあちゃんが、ぼけた。』(新曜社)など多数。

伊藤 亜紗

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院准教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など多数。

編集部からのお知らせ

本日9/21、村瀬孝生さんが松村圭一郎さんと対談されます!!

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 本連載で伊藤亜紗さんと往復書簡をしてくださっている村瀬孝生さんが、本日、MSLiveに初出演! 松村圭一郎さんとご対談いただきます。
 まもなく発刊の『くらしのアナキズム』において、松村さんは「生活者」が持つ潜在的な力に光を当て、アナキズムは生活者としてよりよく生きるひとつの手段であるといいます。そして、松村さん曰く「村瀬さんこそ、くらしのアナキストではないか」と!
 大きな国家に対して、弱い存在である「生活者」に可能性を見出す松村さんと、社会的には弱者とされる「高齢者」に寄り添いつづける村瀬さん。それぞれが向き合うものの先に、今の社会であたりまえとされている「正しさ」や「ルール」や「システム」を揺さぶることのできる可能性が秘められているのでは?
 合理化された社会では否定されがちな「老い」や「高齢者」に対する見方をひっくり返す、お二人の対話をぜひお聴きください! 今からのお申込みも大歓迎です!

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第25回 肯定と否定の真空地帯(村瀨孝生) 村瀨 孝生/伊藤 亜紗
09月21日
第24回 ゾンビと兜(伊藤亜紗) 村瀨 孝生/伊藤 亜紗
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第1回 答えを手放す(村瀨孝生) 村瀨 孝生/伊藤 亜紗
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