ぼけと利他 村瀨孝生と伊藤亜紗の往復書簡

第25回

肯定と否定の真空地帯(村瀨孝生)

2021.10.05更新

 伊藤さん、ホラー映画だめなんですね。その理由に「だんだんただの『感じてしまう』→『感じている』→『いる』になっていきそうな気がするからなんだと思います」とありました。その感覚は僕も共感できます。でもそれは、子どもにある感覚かな。きっと、伊藤さんの体にはその感覚がイキイキとしているのでしょうね。伊藤さんの体の中で子どもと大人が同時並行的に存在しているというか・・・。子どもの実感と大人の理屈が伊藤さんの中で影響し合っているように思えます。ぼけの世界に通ずるセンスをお持ちです。
 お年寄りの中から、幼児が現れる様子をタイムスリップすると考えていましたが、それは過去→現在→未来といった時間のベクトルとして捉える観念的な理解であることに気付かされました。僕の中にも子どもや青年がグラデーションの薄い膜で現在の「わたし」と繋がりながら同時並行的に「いる」のかもしれませんね。

 お手紙を読んで伊藤さんはホラー映画嫌いのホラー体質であると思いました。まだ確認されていないゾンビが自分の中に何体かいるみたいですし。もう十二分にホラーです(笑)。さらに、兜をかぶった英国紳士風ゾンビに助けられているなんて、ホラーからファンタジーに転じています。伊藤さんが一度だけ書いたゾンビに関する文章「ゾ・ン・ビ・タ・ウ・ン」は、リメイクされた物たちが前世の姿で動き出すように見えた実体験が基になっています。その感じ方は霊媒師と言っても差し支えありません。また、浴室の窓際にいる幽霊を「お断り」できそうにないのですから、伊藤さんは立派な「巻き込まれる力」をお持ちなのだと推察しています。「巻き込まれる力」はホラーに欠かせない資質です。

 ホラー映画に登場する主人公も不意に起こる現象に巻き込まれていきますよね。伊藤さんの言う、「違うと分かっているのに感じてしまう」→「感じている」→「いる」になってしまう。主人公が「いる」という振る舞いに転じてしまうと、これまで属していたはずの共同体から徐々に孤立していきます。信頼していた一番身近な人から頭がおかしくなったと思われたりします。さらに、社会的に登場する多くの他者から、治療や更生の対象として包囲されていきます。時には犯罪者とみなされて追われることすらあります。既成概念を乱すモノの存在はマジョリティにとって恐怖なのです。
 主人公は「わたしの実感」を誰からも分かってもらえません。まさに孤立無援(無縁)の状況にまで追い詰められます。主人公は社会にあるさまざまな包囲網をかいくぐる一方で、容赦なく迫り続ける「実感の正体」と向き合わざるを得なくなります。
 けれど、そんな主人公に行動を共にする「人」が登場します。影の薄い友達のひとりだったり、見も知らない人だったり、反目し合っていたはずの人だったりと。僕は彼らの引きずられっぷり、振り回されっぷり、に魅力を感じてしまいます。共感できていないのに、半信半疑のまま主人公と共に巻き込まれてしまう、謂わば、道連れになる他者の存在が好きなんです。たまに実力のある専門家が主人公の遭遇している困難の大きさにビビり、狼狽えながらも巻き込まれます。それも好きです。

 お手紙に、「『目の前に倒れている子供がいたら誰だって身が動くでしょう』のような、人間本性に訴えかけてくる道徳的なニュアンスも嫌いでした。『身が動く』について語ろうとすると、『身』なのに『心』の話になってしまう難しさを感じていたんです」とありました。伊藤さんが抱えておられた「問い」にとても考えさせられました。その「問い」を抱く伊藤さんに強く共感しました。
 介護をベースに考えると、一時的な善行や超越的な命令にしたがって「身が動く」では、乗り切れない「時間」が横たわっています。介護関係が20年以上続くお年寄りは少なくありません。そのような「時」を共にする態度があると感じてきました。どんなに感動的でも刹那的な情動は継続しない、目指すべき理念では身が持たない、文化はどこか他人ごとです。淡々とした「する」だったり、「ループする巻き込まれ」のような感じといえばいいのでしょうか。
 そんなとき、ホラー映画に登場する道連れになる他者たちが思い浮かびます。先は見えない、終わりも提示されない状況に、「共感しているともいえない」、「人間本性に訴えかけられる『身が動く』でもない」、けれど行動を共にする他者の存在です。

 ぼけを抱えたお年寄りには、さまざまな理由で街を歩く人がいます。世間では「徘徊」と呼びます(徘徊は一般的には「意味なく歩き回る」と理解されていますが、当事者にはちゃんと理由があるので、「歩き」としておきます)。
 僕たちはその「歩き」に付き合うのですが、実にいろんなところを歩くことになります。田んぼのあぜ道。荒れ果てた里山にある獣道。中学校の校庭。人様のお家の庭。登り切れない神社の階段。温泉センターの厨房を通り抜けたこともあります。
 あるBOOKセンターにお爺さんと入り込みました。お爺さんは本が好きでした。本の陳列を勝手に変え始めます。その横で僕は元に戻す。ふたりの奇妙な行動に店員さんは不可解をあらわにした視線を送ってきます。事情を話し、「このまま見守って下さい」とお願いします。店員さんは「どうぞ」でもなく「困ります」でもない、「ハぁ⤵」と答える。
 翌日もそのBOOKセンターにお爺さんと一緒に訪れるのですが、その時の店員さんの態度に何とも言えない雰囲気があります。「いらっしゃいませ」でもない、「お断りします」でもない、「来た・・・」という感じ。
「どうぞ」と「困ります」の間にある「ハぁ⤵」。「いらっしゃいませ」と「お断りします」の間にある「来た・・・」。この「ハぁ⤵」と「来た・・・」には、肯定しがたい、けれど否定しきれない、といった真空地帯のようなものがあります。戸惑いや躊躇ためらいが発動する手前の空白の状態がある。店員さんはその空白から見守り続けているように思えるのです。もしそうなら、そんな店員さんにシンパシーを感じます。お年寄りの「歩き」に付き合う心持に似通うものがあるんです。共感があるわけでもない、人間本性に訴えかけられる「身が動く」でもない境地。そこにはささやかな自由がある。

 先日、文化人類学者の松村圭一郎さんとお話しする機会を得ました。著書である『くらしのアナキズム』の中に「公界」という言葉が出てきます。「無縁」の者たちが集まってつくる「場」のようなものだと思います。日本の中世にあった市場(いちば)がそれにあたります。

「無縁・公界・楽」で、市場(いちば)が自由と平和が保障された「無縁所」であり、「公界」だった。~ 阿弥陀寺の境内は、債権債務の関係という世俗の縁から切りはなされ、逃れられる聖域だった。喧嘩や口論、押し買いや狼藉が禁じられていたのも、外部の争いを持ちこむことが許されない無縁の場所だったからだ。
(『くらしのアナキズム』P118~119)

 飛躍するのですが、「公界」という「無縁」の空間は、店員さんの「いらっしゃいませ」と「お断りします」の間にある真空地帯と似通うものがあると思えました。店員さんは社会の規格からはみ出して歩く僕たちを無視できずに一緒にいる。「無縁」という平行関係を保ちつつも何かが蠢いてしまう面白さ。社会から漏れ出す者を受け止める「無縁所」と店員さんの体に生じた真空地帯に同じ匂いがします。そこにあるささやかな自由と平和。お爺さんと僕はその空白に逃げ込めた気がします。
 
 母の介護が本格化して2年になります。順調にぼけが深まっています。僕の考える順調とは母のぼけに荒ぶりがないことです。母はときどき混乱しますが、ぼけは荒ぶっていません。母の混乱とは、これから食べる「ご飯」が朝食なのか、昼食なのか、夕食なのかが、分からないといった些細なものです。「これ、何ご飯?」と尋ねる母が可愛く見えるときすらあります。よくノーパンで過ごしていますが、それは母の確信犯です。常に排泄しやすい体制を取っています。孫が訪れると、さりげなく座布団で隠します。まるで、アキラ100%みたいです。
 最近、実家に居ついた野良猫に猛烈に執着しています。母は「猫が迷ってしまい、帰ってこれない」という心配をつくり出して、心ここにあらずになってしまいます。そうなると、トイレの場所が一時的に分からなくなって、外デッキで用を足してしまいます。母の中にいる子どものマジが大人の母を惑わしているようです。
 とにかく猫が心配で裸足で外を歩き回ります。さらに車庫と家をつなぐ扉に鍵をかけるようになりました。そこからしか出入りできないヘルパーさんが中に入れない事態が生じます。「猫を外に出られなくする」という母の作戦です。子どものマジに突き動かされた大人の悪知恵ですね。
 お分かりでしょうが、猫はどこからでも出入できます。そもそも野良猫ですから。そのことが分からない母にぼけの深まりを感じます。ヘルパーさんも母の一連の行為を認知症の仕業と考えています。

 けれど、家族からするとちょっと違うんです。「母は猫を支配しようとしている」と息子である僕の目には映っているのです。猫を心配していることは間違いないのですが、その心配こそが「相手を自分の思い通りにしようとする執着から生まれている」と考える僕がいます。それは、ぼけや認知症によるものではなく、母そのものの姿であると。
 子どもから大人になった僕が、母もひとりの人間であることに気が付いてしまうのです。冷徹な大人の目で母を見たとき、僕の中にいる子どもが、いじけてしまうときがあります。「ああ、母のあの態度が僕にある生きづらさをつくったに違いない」。「チック症があるのは支配されて育ったからだ」。「落ち着きがないと、ずいぶん叱られたけど、その落ち着きのなさは、お母さん、あなたから譲り受けたものだったんですね」とか。疲れたりすると、僕の中にいる子どもが荒ぶり始めます。そんなとき、凄く不安になります。僕は母をひとりの人間として尊重できるだろうかと。
 家族介護にある恐ろしさは「情実」にあると考えています。家族にある「情実」は複雑に絡み合ったあざなえる縄のようにしがらんでいます。その縄に絡み取られて介護することはとても危険なんです。けれど、見方をかえると親を介護することは、深く絡み巻き込む縄をひとつ、ひとつ、解きほぐす機会でもあります。それは楽しくもあり、悲しくもある。母と子ではなく、互いにひとりの人間として出会い直すことなのだと考えるようになりました。
 けれど、僕の考える出会い直しは「慈悲に満ちた寛容に目覚める」といった感動的なものではありません。僕の中にいる荒ぶる子どもによる「親殺し」であり、母からすれば、大人になった僕から介護を受けることで、母にある子どもの僕を殺す「子殺し」です。「有縁」が孕む危険なしがらみを「無縁所」で成仏させる作業。それは、互いに与え続けた債権債務の関係から互いを解き放つ作業。「家族」という国家や社会が与えた規範からふたりで逃れる作業。深まるぼけの力をかりて母はその作業を進めています。遅れをとらず、僕も母に続きたいと考えています。ふたりしてゾンビになって、「シン・母と子」になるつもりです。

村瀨 孝生/伊藤 亜紗

村瀨 孝生/伊藤 亜紗
(むらせ・たかお/いとう・あさ)

村瀨 孝生

1964年、福岡県飯塚市生まれ。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から、「第2宅老所よりあい」所長を務める。2015年4月より特別養護老人ホーム「よりあいの森」施設長。著書に『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社)、『看取りケアの作法』(雲母書房)、『おばあちゃんが、ぼけた。』(新曜社)など多数。

伊藤 亜紗

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院准教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など多数。

編集部からのお知らせ

村瀬孝生さんと松村圭一郎さんの対話「弱さとアナキズム」

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 去る9/21(火)に開催した、村瀬孝生さんと松村圭一郎さんの対談イベント「弱さとアナキズム」のアーカイブ動画を販売しています。
 〇自分たちが作ってきた概念から解放されるのが「ぼけ」、〇介護保険によって起こる分断、〇問題を解決する鍵は「巻き込まれること」、〇人類学と介護の共通点、〇人間の弱さを前提にしたコミュニケーションなど、本連載に直に通じるテーマをめぐって対話が展開します。
 ケアにはアナキズムが底流している。今回の村瀬さんの文章から、その感覚が何度もよぎった方は少なくないのではないでしょうか。ぜひ、動画もご覧いただけますとうれしいです。

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第25回 肯定と否定の真空地帯(村瀨孝生) 村瀨 孝生/伊藤 亜紗
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