ぼけと利他 村瀨孝生と伊藤亜紗の往復書簡

第26回

裏切りと解毒(伊藤亜紗)

2021.10.23更新

 村瀨さんこんにちは。お返事が遅くなってしまいました。うかうかしていたら、いつの間にやら秋です。
 前回のお手紙、戦慄しながら読みました。介護のプロである村瀨さんであっても、あるいは介護のプロだからこそ、お母さまの介護となると「母殺し」「子殺し」と呼びたくなるような激しい感情に苛まれるのですね。私のような素人からすると「原点」とも思えるそんな混乱した場所に、いつでも人をつれもどしてしまえる介護という営みはすごいです。そこで起こる母と子の出会い直しは、「慈悲に満ちた寛容に目覚める」といった感動的なものではなく、有縁が孕む危険なしがらみを無縁所で成仏させる作業である、と村瀨さんは書かれています。
 利他は、「もらったらお返しをしなければならない」という返礼義務のあるところには生まれません。そこにあるのはあくまでプレッシャーのかけあいであって、本当の意味で相手から何かを受け取っているわけではないからです。
 一方で、親というのは、そもそも返礼することができない存在です。返礼は、返すことによって借りをなくし、相手との関係を切る可能性を作り出します。しかし親というのは、少なくとも生物学的には、絶対に関係を切ることができない存在です。親に対してどんなに「ありがとう」と言っても何だか伝え切れない感じがするし、逆に子供に「ありがとう」と言われると「うれしいけど、そんなこと言われても・・・」という気になる。まさに切っても切れない「有縁」の関係であるがゆえに、返礼によって関係を精算することができません。
 じゃあ、返礼的関係の外部にある親子関係は利他なのか。簡単にはイエスと言えないような気がします。確かに親子の間には返礼の義務はないかもしれませんが、それはそもそも返礼の可能性がないからだとも言えそうです。俗に親から子への「無償の愛」と言われるような関係も、精算する可能性を奪われているという意味では、子にとっては返礼義務のプレッシャーよりも苦しい関係になり得ます。
 ところが村瀨さんは、ぼけには親子のあいだにさえ「無縁」を作り出す力がある、と書かれています。ぼけの深まった親が欲望を剥き出しにしたり、ついに自分のことが分からなくなったりするという経験は、しばしば苦しみとともに語られるものです。実際、それはたいへん苦しい経験なのだと思います。しかし村瀨さんにならって別の見方をすれば、それは「互いに与え続けた債権債務の関係から解き放たれること」でもある。
 この往復書簡のきっかけとなったオンラインの対談で、「「利他」の問題を考えるときに、お年寄りとかかわることは究極な感じがする」と口走りました。そのときは、ぼけのあるお年寄りが相手だと、自分のした行為が本当にこれでよかったのか確証が持てないため、各々が任意に与えて任意に受け取るような、よきすれ違いの余地が生まれるのではないか、と考えていました。宛先が溶ける感覚、とでも言えばいいのでしょうか。相手のためにした自分の「つもり」が、そのとおりには受け取られず、違った仕方で受け取られる。相手が不意に差し出したうつわによって、自分の行為がぐにゃりと変形し、そのまま居場所が与えられる。抽象的ですが、そんなイメージです。
 しかし、前回のお手紙を読んで、もう一段も二段も深いところで、ぼけと利他の関係を捉え直すヒントをいただいた気がしています。ぼけには、返礼という概念とそれに費やした時間そのものを解毒する力があるのですね。それは、宛先が溶けるというより、社会的な通念もろとも自分という存在の地盤が溶けるような出来事なのかな、と想像しました。それはある意味ではとてもニヒリスティックな地点です。駄洒落で恐縮ですが、存在の地盤が「溶ける」ことは、自分の存在の謎が「解ける」ことでもあり、それはとても怖いことだと思います。
 利他が能動的な「よきこと」ではなく、むしろやってくるものを歓待することであるならば、自分が変わることは、利他にとって不可欠であるように思います。もしそれが関わった人がまったく変化しないような利他、「計画だおれ」がまったく生じないような利他であるなら、それは演技や自己満足である可能性が高いです。子が親を介護することで地盤を失うというのは、まさしく自分が変わることであり、そして変わることのなかでは最大級のものですね。
 学生時代に研究していたポール・ヴァレリーというフランスの詩人は、「時間はあらゆる矛盾を矛盾でなくする」と言っています。あんなに納豆が嫌いだった人が、ひょんなことから毎朝食べるようになる。いつも対立していた二人が、気づけば一緒に住み始めている。長い時間の中で人は無限に変わりうる、というのは確かにニヒリスティックな視点です。
 でも逆説的にも、このニヒリスティックな視点に想いを馳せるときにこそ、宛先や返済に頓着せずに自分の可能性を溢れ出させる人間の豊穣さに出会えるようにも感じています。それは、人間関係にしろ、財産にしろ、時間をかけて溜め込む、という貯蓄の観念の否定です。そしてこのニヒリスティックな豊穣さが、利他という出来事を可能にするようにも思います。

時間の中で変わる、という意味では、村瀨さんも私も、無事に老いることができれば、やがて介護される側になりますね。子に介護されるのでしょうか。専門職の方に介護してもらうのでしょうか。介護のプロであった人が介護されると、どんな感じがするのでしょうか。
 子と自分の関係を考えると、やはりそこには他の人とは違う縁があるなと感じます。それは単なる生物学的なつながりを超えて、長い間すぐ近くに体があった、ということから生まれる縁です。
 たとえば私の子供は、私が吃音のせいで言おうとした言葉を飲み込むと、すぐにそれを察知します。そしてしばらくしてから「さっき何て言おうとしたの?」と聞いてくるのです。夫にも、「何かをしゃべろうとする直前にモスキート音みたいな音がする」と言われたことがあるので、何か音ならぬ音が出ているのかもしれません。いずれにせよ子供は、私がマスクをしていようが、後ろを向いていようが、私が言葉を飲み込んだことに気がつきます。
 それはある意味ではすでにケアをしてくれているということでもあります。素直に、とても嬉しいです。けれども、母親の体に徴候を読み取ることが習慣化しているのではないか、と思うと少し複雑な気分になります。子供は、母親の吃音の徴候だけでなく、表情や機嫌の変化にも敏感に反応しているように見えます。聞こえない声までも聞こうとする姿勢が、どもる体のそばにいることによって、醸成された可能性があります。
 家庭の外で大人との関係がうまくいかない場合、その原因が「徴候の読みすぎ」にあると思える場合があるのです。「あの先生、ぼくと話すときだけ『こいつバカだな』って顔してる」なんていう愚痴や不安をよく口にします。徴候の読み合いは、長い時間、体をそばにおいた人間同士を結びつけ、同時にしばる縄だなあと思います。
 だから、子供が私のどもりを笑ったとき、悲しいと同時に解放された気がしました。私は日本語以外だとどもりが重くなるのですが、海外の美術館にいったとき、クロークで「luggage」が言えなくて「ラララララララ・・・」となりました。言われた受付の人もびっくりしてとまどっているのですが、子供はとなりで大爆笑。差別的な意識とは関係ないところで、歌っているようなその音を純粋に笑ったのです。
 自分にはないその感性が子供にはあったのだと知って、ちょっとほっとしました。徴候の読みから離脱する可能性が見えたからです。あとから「どもっている人は真剣だから笑ったらダメ」と親としての釘を刺しましたが、同時に「えーそんなに面白かった?」となぜか照れ笑いしてしまいました。それが無縁所なのかは分かりませんが、子の「裏切り」によってある種の真空地帯が生まれ、逃げ込めたような気がしました。
 傾聴よりも裏切りに救われるのですから、まったく不思議です。当事者の方にインタビューをするときも、ついつい裏切りをしかけようとしてしまうところがあります。死角に入ろうとしてしまうのです。その方が一生懸命伝えようとしていることから耳を逸らし、本人が考えたことのないことを引き出したくなってしまう。もちろんそれはたいへんに暴力的なことです。相手の気持ちを損ねてしまうこともあります。でも、そうでなくては、本人に贈り物ができない気がするんです。

村瀨 孝生/伊藤 亜紗

村瀨 孝生/伊藤 亜紗
(むらせ・たかお/いとう・あさ)

村瀨 孝生

1964年、福岡県飯塚市生まれ。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から、「第2宅老所よりあい」所長を務める。2015年4月より特別養護老人ホーム「よりあいの森」施設長。著書に『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社)、『看取りケアの作法』(雲母書房)、『おばあちゃんが、ぼけた。』(新曜社)など多数。

伊藤 亜紗

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院准教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など多数。

編集部からのお知らせ

『ちゃぶ台8』に、村瀨孝生さんと松村圭一郎さんの対談が掲載されます!

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 今年9月に開催した村瀨孝生さんと松村圭一郎さんの対談「弱さとアナキズム」が、読み物となって、11月刊の雑誌『ちゃぶ台8』に収録されます!
「弱さ」を起点として私たちの社会をとらえ直そうとするお二人の対話は、本連載の内容と深く響き合います。ぜひ、お手にとっていただけますと嬉しいです。
 【主なトピック】
 〇介護の領域は国家に一番近く、また国家から一番遠い
 〇お年寄りやぼけの世界はアナーキー
 〇「小さな政府」が人をどんどん管理していく
 〇組織を維持するのではなく、「結集しては解散」をくりかえす
 〇死にゆく人に感覚を合わせながら合意する

『ちゃぶ台』詳細はこちら

 また、対談の全編はアーカイブ動画からご覧になれます!

アーカイブ動画はこちら

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