ぼけと利他 村瀨孝生と伊藤亜紗の往復書簡

第28回

心ここにあらず(伊藤亜紗)

2021.11.22更新

 2ヶ月ほどまえに、中学生向けの本を出版しました。テーマは体とアイデンティティ。本というよりは体とつきあうためのパンフレットといった感じの、薄くて可愛いらしい本です。読書はあまり得意ではないけれど悶々とした悩みを抱えている、そんな10代に向けて書きました。
 10代に向けて本を書いたのは初めてだったので、いろいろと新しい経験をしました。まず、やりとりを重ねるうちに、担当編集者の方が、どんどん中学生になっていくんです。ある程度原稿が書けたらそのつどお送りするようにしていたのですが、その感想を記すメールの文面が、なんだか普通じゃないんです。「容赦ないですね」「ぼくのなかの中2が泣いています」「そうだ、メタファーはかざりなんかじゃない!」「ぼくのなかの中学生が悶絶しています(笑)そうなのかあ、って」「懐にすっと入ってくる切れ味のよい言葉に背筋が伸びました」。ちなみに、この方は実際には村瀨さんと同じくらいのお年頃です。
 もちろん、編集者は最初の読者ですから、本の想定読者になりきって、原稿を読んでくれたのでしょう。だとしても、どちらかというと抑制的なその方の実像とは、ずいぶんかけ離れた印象を与えるメールでした。コロナ禍のため打ち合わせがオンラインばかりになり、私の中でのその方の物理的な存在感が薄くなっていたことも影響していたかもしれません。だんだん誰に向けて原稿を送っているのか分からなくなってきました。
 そうこうしているうちに、書いているこちらも、時間感覚がおかしくなってきました。この本は「思い通りにならない体が思いがけないことをつれてくる面白さ」について書いているのですが、ベースにあるのは、わたし自身の子供のころの吃音経験です。言えなかった言葉を寝る前に反芻する、苦いような甘いような時間のことが思い出されます。書きながら、自分が育った実家の子供部屋にいるような錯覚に陥っていきました。
 おそらく、文章を書くこと、あるいは読むことは、必ずしも現在の自分が書いたり、現在の自分が読んだりするものではないんでしょうね。40代のときの作品でも、実際に書いているのはその人のなかの10代かもしれないし、すでに大人になった人が、10代のときの自分のために本を読むこともある。10代向けの本といっても、それはあらゆる年齢の人のなかにいる10代に向けて本を書くことなのだな、と思いました。村瀨さんの三世代のにぎやかな生活のお話を聞いて、これもひとつの出会い直しかもしれない、と思いました。

 先週、修復家の方たちとお話する機会がありました。公園に設置されているブロンズ像や、巨大な野外彫刻、食堂に飾られている壁画などを手がけていらっしゃる方々です。扱っているのは作品というモノなのですが、ご本人たちの感覚は介護とそれほど遠くないように思いました。
 主に公園のブロンズ像を扱っている方は、「ホースで水をかける、という鑑賞の仕方がある」と言い切ります。作品は基本的には目で見て鑑賞するものなので、触れる機会は多くありません。その「ブランク」が、洗浄の作業を特別なものにします。腹部に水をかけたり、泡をつけて足をブラシでこすったり、ワックスをつけて顔を磨いたりしているうちに、像が全然違う存在に見えてくるのだそうです。そこには作品とのコミュニケーションがあるのだ、と。その方は、慶應大学の福沢諭吉の胸像を洗浄するワークショップを企画されたのですが、「仕上げにつやを出しすぎて諭吉さんの人相が変わった」と笑っていました。
 一方で、修復という作業は、科学者的な視点や、歴史学者的な視点も必要とします。たとえばブロンズに錆が形成されている場合。80年代は特に大気汚染が深刻で、ブロンズ像の傷みがひどかったと言います。いわゆる酸性雨の影響です。ただし今回のお話をうかがって初めて知ったのですが、酸性雨というのは、酸性の雨が降ってきて、それによって銅像が溶ける、ということではないのだそうです。京浜工業地帯の工場や首都高を走るディーゼル車から大気中に放出された硫黄酸化物や窒素酸化物が結露によって濃縮され、それが沈着するのだそうです(乾性沈着)。カラスの糞が付着していれば彼らが何を食べているかが分かるし、使う洗浄液も虫などに害がない成分のものにする必要があります。
 屋外彫刻は重い歴史も背負っています。「屋外彫刻は何度も絶滅している」とその修復家は言います。最初の絶滅は、ちょうど村瀨さんのお母さんが満洲でお姉さんやお兄さんの腕に抱かれていたころに起こりました。明治以降、二宮金次郎像をはじめとするさまざまな像が、モニュメントとして日本の各地に作られます。しかし太平洋戦争下の金属供出で、「銅像も出兵する」ことになり、そのほとんどが溶かされてしまったのです。わずかに残ったものも、「国威発揚につながる」として戦後にGHQによって撤去されるという憂き目にあいました。
 2回目の絶滅は、戦後に作られたセメント像の荒廃です。60年代以降、町の美化という目的で、セメント製の像が作られるようになりました。1961年に山口県の宇部で開催された野外彫刻展がきっかけです。しかし、それらも数十年するうちに傷みが激しくなります。しかし、設置した自治体の担当者には「金を払って買ったものなのに、なぜケアしなければならないのか」という思いがある。当時は修復のための予算なんて確保されていませんでした。「放っておかれている像がかわいそう」というのが、その方が修復の仕事を始めたきっかけです。人間と同じように像も老化し、介護が必要になります。そしてその背後には、人生を翻弄する歴史の河が流れています。
 同じ野外に置かれる作品でも、作家性の強い作品の修復を手がけている方の感覚は、また少し違っていました。作家性の強い作品の場合には、作家がどのような形を想定して作ったのか、という作者の意図が問題になります。しかし、当の作家だって、そのとき何を意図して作ったかなんて明確に覚えてはいないし、すでに亡くなっていて確認できないケースも多い。作家の作品の修復には、常にこの「分からなさとの対話」があります。修復は見方を変えれば破壊ですから、取り返しのつかない介入をしてしまう可能性もある。その修復家は、「実際に手を動かすまでに2年かかるなんてしょっちゅう」だと言います。こんなふうに、ケアする側が自分のタイミングで介入できるのは、人に対する介護とはだいぶ違う点かもしれません。切迫感がないという意味では楽なようにも見えますが、自分でタイミングを決めなければいけない、というのはどこかバンジージャンプにも似た緊張感があります。
 他方で面白かったのは、その修復家の方が、「作業を始めたら頭を使わない」と言っていたことでした。頭を使うと、毎回同じようなやり方をしてしまうからだそうです。必要なときには、作品を分解したり、穴をあけて部品を取り換えたりする必要がありますが、そこには作家の生理のようなものが見えてくる。「となりのおじさんの生活に入っちゃった感じ」とその修復家は言います。自分の基準で整えるのではなく、「おじさん」の整理に従って整えること。自分の体になじんだ技やしみついた癖で判断してしまわないために、「頭を使わない」なのだそうです。

 魂のない存在をケアするというのは、いったいどういうことなのでしょうか。
 そのことを考えるきっかけとなったもうひとつの出来事は、週末の川口有美子さんとの対談でした。川口さんは、1995年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断されたお母さまを、12年にわたって介護をしつづけました。ご存知のとおり徐々に筋肉がやせて体が動かなくなる病気で、川口さんのお母さまも途中から人工呼吸器をつけ、最後にはまぶたを閉じたまま目も固定され、意思疎通ができなくなりました。
 意識は明晰なのに意思疎通ができない状態は、想像するだけでも大きな恐怖をかきたてます。しかし、川口さんがお母さまを通して経験したことは、少し違っていました。意思疎通が取れなくなった段階でお母さまの脳波を測ったところ、シータ波が出ていたのだそうです。シータ波とは、瞑想など深いリラックス状態で見られる脳波のこと。川口さんは、「母は完成された」と思ったと言います。「母は天国と地上の真ん中らへんにいる」「母はもうこの世のことには興味がないし、私たちのことは心配していないんだな」。もちろん、体が動かなくなる過程ではいろいろな葛藤があったはずですが、川口さんは、どこかで「任せよう」と思ったお母さんの意思を尊重しなければならない、と考えました。
 面白いのは、お母さまが、魂としては「天国と地上の真ん中らへん」の存在として完成されながら、同時に、代謝する体を地上に残していた、ということです。川口さんは、「母の体のまわりで、私たちはとても幸せにくらせていた」と言います。家族だけでなくヘルパーさんたちも、お母さまの体をいい状態に保つことが楽しかった、と。脳死を「植物状態」と表現することがありますが(川口さんのお母さまは脳死ではありませんでしたが)、文字どおり「心ここにあらず」の体をみんなでケアすることは、農業のような共同性を生むのかもしれません。
 患者さんにも、毎日毎日他人に介護されるうちに、自分の体が自分だけのものじゃない、という自覚が生まれてくるのではないか、と川口さんは言います。実際、「自分は死んじゃってもいいけど、自分の体がないとまわりのみんなが困る」と言う患者さんもいるそうです。みんなが困らないように、自分の体を地上に残しておく。川口さんのご著書のタイトルは「逝かない身体」なのですが、これは「死なない身体」という意味ではなくて、「生かしておく身体」という意味だったのだ、と知りました。まるで「自分の体の留守をみんなにあずかってもらう」みたいな感じですね。
『どもる体』の序章にも書いたのですが、ずっと二元論に関心があります。心と体を別々のものとして考える、心身二元論です。確かに、西洋の哲学の文脈では、20世紀以降は一元論的な考え方が主流です。二元論はコテンパンに否定され、「心は体である」というような言い方がされてきました。でも、一元論だと言えるのは、うまくいっている体を前提にしているからなんですよね。うまくいっていない体は、必然的に二元論になります。心は〇〇したいと思っているのに、体はそのとおりにならないのですから。
 その二元論にもおそらくいろいろなタイプがあります。吃音の二元論は瞬間的にやってくる分裂としての二元論ですが、川口さんのお母さまは分離することによって平穏がもたらされるような、均衡としての二元論を生きていました。心と体を遠く引き離すことによって見えてくるのは、「人間」の狭い定義なんかはるかに超え出るような、未知なる生のあり方です。二元論は、一歩間違えると本人の思いを無視することになるので、慎重な態度が必要なのですが、そこにある生のかたちに新たな身体論の可能性をさぐってみたい。そんな「心ここにあらずな体」に思いをめぐらせた数週間でした。

追伸
素敵な素敵なよりあいの森のはちみつ、ありがとうございました! 大学に送っていただいたので、未来の人類研究センター事務の中原さんと、コピー室でこっそりひと舐めしました。舌に乗せると徐々に濃くなって、黒蜜やメープルシロップの味まであらわれますね。まさに蜜の味です。そして初めて拝見した村瀨さんの手書きの字。負けず劣らず濃密な村瀨テイストで、中原さんと感激しました。

村瀨 孝生/伊藤 亜紗

村瀨 孝生/伊藤 亜紗
(むらせ・たかお/いとう・あさ)

村瀨 孝生

1964年、福岡県飯塚市生まれ。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から、「第2宅老所よりあい」所長を務める。2015年4月より特別養護老人ホーム「よりあいの森」施設長。著書に『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社)、『看取りケアの作法』(雲母書房)、『おばあちゃんが、ぼけた。』(新曜社)など多数。

伊藤 亜紗

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院准教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など多数。

編集部からのお知らせ

『ちゃぶ台8』に、村瀨孝生さんと松村圭一郎さんの対談が掲載されます!

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 今年9月に開催した村瀨孝生さんと松村圭一郎さんの対談「弱さとアナキズム」が、読み物となって、雑誌『ちゃぶ台8』に収録されます! 11/26(金)にリアル書店先行発売、11/30(火)にオンライン書店を含めたすべてのお店での公式発売です!
「弱さ」を起点として私たちの社会をとらえ直そうとするお二人の対話は、本連載の内容と深く響き合います。ぜひ、お手にとっていただけますと嬉しいです。
 【主なトピック】
 〇介護の領域は国家に一番近く、また国家から一番遠い
 〇お年寄りやぼけの世界はアナーキー
 〇「小さな政府」が人をどんどん管理していく
 〇組織を維持するのではなく、「結集しては解散」をくりかえす
 〇死にゆく人に感覚を合わせながら合意する

『ちゃぶ台』詳細はこちら

 また、対談の全編はアーカイブ動画からご覧になれます!(※11/26(金)までの限定公開です)

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アーカイブ動画はこちら

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