ぼけと利他 村瀨孝生と伊藤亜紗の往復書簡

第29回

「いま・ここ」を生きる完成体(村瀨孝生)

2021.12.19更新

 伊藤さんが書かれた本(きみの体は何者か)、面白そうですね。10代といえば、体がどんどん変容していく年ごろです。心も激しく動き回ることでしょう。性別を問わず変容スピードの違いが嫌でも目に付いてしまいます。他者とは違う私を比較して喜んだり、悲しんだり。自分の思い通りに「わたし」が仕上がらないことで血筋を恨んでしまったり。
 老いることは10代を逆走するようなものかもしれません。その変容ぶりは10代に負けず劣らず、です。望みもしない容(かたち)に仕上がる「わたし」に戸惑う年ごろです。その変容ぶりは付き合いかた次第で、喜びにも悲しみにもなるのですが、心中穏やかではありません。
 伊藤さんの新しい本、体とつきあうためのパンフレットは青年期だけでなく、老年期に通じるものとして読める気がしました。

 体とアイデンティティというテーマは個人的にも切実なテーマです。僕は心と体の嚙み合わなさをうんざりするほど感じてきました。運動性のチック症のおかげです。いつ発症したのかよく分かりません。小学校1年生の時に岡山大学附属病院の精神科に受診した記憶がうっすらあるので、たぶん、そのあたりでしょう。右頬がこめかみ方向へと引っ張られるように、ピク、ピクと引きつります。それと鼻がピクピクし出します。父は「お前はウサギか」と言いました。
 大人になるにつれて症状は小さくなりましたが、無くなることはありません。むしろ、微妙に増えています。右足の太ももがピクピク。右肩がピクピク。なぜか右ばかり。ときには、嘘みたいにピクつかないときもあり、自分にチック症があったことを忘れるときもあります。かと思うと、倍返しでピクつきます。激しいときは顔に電気を流されたかのようにピクピクしまくります。
 最近、気が付いたのですが、心が火遊びしている感じがあります。乾燥しやすい季節は皮膚や鼻の穴がカサカサする。すると肌に引きつる感が出てくるのですが、それに気が付いた心が「ピクピクしないの?」と体に問いかけている瞬間があるんです。「あっ、忘れてた」とばかりに体がピクつき始める。そのように始まるピクピクは収拾がつきません。右頬のピクピクが耳まで到達することもあります。その時、弾みで下顎がコクリと鳴る感じがします。鳴る感じを心が見つけます。すると、頬のピクピクが消失して顎をコクリとさせる運動へと移行します。それが昂じてしまうと外耳道の奥、鼓膜のあたりに痛みが走ります。心はその痛みを怖いもの見たさで味わっている節があるのです。チック症を一番嫌っているはずの僕の心が進んで体とシンクロし始めます。
 時には体が暴走し、時には心が加担して、いったい誰の仕業で始まり、何をもって収まるのかいまだ不明です。持て余していた体の不随意運動に心が戯れ始めているようで、ちょっと困っています。チック症も吃音のように「瞬間的にやって来る分裂としての二元論」ですね。僕の場合、あろうことかチック症を嫌う心が体をそそのかして症状を悪化させている。分裂する心のおまけ付です。
 
 心と体の関係は分からないことばかりです。小学校1年生のとき、とにかく、じっとすることができなかったようです。先生から縄跳びで椅子に縛られました。運動場に行くとき、机の上を飛んで渡り、窓から飛び出たこともあります。衝動的で落ち着きがなく多動だった。なので、ずいぶんと叱られていたようですが、そのことで落ち込んだり、傷つくことがあまりなかったように思います。体は猪突猛進状態で心が傷つく暇がなかった感じです。 
 そう遠くない昔のことですが、すべての繋がりを断ち切りたくなるようなことが、身の上に起こりました。おそらく、人生で最も人を傷つけ、自分も傷ついた時期でした。けれど、よく眠れるのです。自分でも腹が立つほど、眠ってしまう。食欲は多少落ちましたが、痩せもしない。おそらく、そのおかげで体が発病しませんでした。
 不謹慎だと思うのですが、あの時、僕は目に見えるかたちで病気になりたかった。病気になって社会から離れたかった。心はそれを望んでいました。好きな映画を観ても感情が動かない。本を読んでも字面を追うだけで、何が書いてあるか分からない。瞬間でしたが日本語が日本語に聞こえず慌てました。心が病んでいる感じなのに体がシンクロしようとしないのです。計画的に無断欠勤を目論み、実行しました。頭の中に黒雲が垂れ込めてはいましたが普通に出勤できてしまうので、仕事を辞めることができませんでした。そんな僕は健康とはいえません。けれど病気ともいえない。正常ではないが、異常ともいえない。もともと心と体は相性がよくないのではないでしょうか。

 小学1年生に遡ると、僕は付属大学病院で「微細脳障害」が疑われていたのかもしれません。今でいうところの、注意欠陥・多動障害(ADHD)です。発達障害のひとつです。治療するか、しないか、医師も悩んだことでしょう。チック症もあったのでぎりぎりのラインにいたと想像します。それでも医療の対象にならなかったのは、そもそも子どもは多動で衝動的、不注意であるものという概念が勝っていた時代だからだと思います。
 2002年以降から「発達障害」と診断された子どもが急増し始めたことと、2004年に「ぼけ」が「認知症」へと言い換えられ、認知症患者が増え続けることとは無関係ではありません。子どもにある子どもらしさ、老人にある老人らしさまでもが治療の対象となりうる「医療化」の始まった時代だと考えています。「医療化」とはこれまで医療の対象とされなかった事柄が医療の対象になっていくことです。

 処方し易い薬が開発されると、これまでさじが投げられていた症状に希望の光が当たり始めます。適切な処方が広く行えるように症状が分類され診断基準が設けられる。そして対応マニュアルができあがる。専門医でなくても診断できるようになる。医療における治療法の民主化と病理における正しい理解を啓蒙する大衆化は医療の基盤を整える一方で、「認知症は脳の病気」という短絡的な認識を社会に流通させもします。
 もちろん、治療の可能性が出てくることは、症状で苦しむ人たちにとって大きな救いです。とても喜ばしいことですが、「発達障害」も「認知症」もあくまで症状であって原因疾患ではありません。ですから、症状が個体の病気によるものなのか、そうではないのか「分からなさ」でいっぱいなんです。症状を引き出す原因は病気に収まらず、生活や社会、自然の営みを含んだ、さまざまな事象が絡み合っているということなんですよね。であるにも拘らず、可視化できる分かりやすさに偏った概念の共有は「分からなさ」への躊躇いや畏怖を失わせていきます。
 自分の実感からちゃんと考えることに躊躇いが生じて、マニュアルに従うことで安心を得ようとします。現実的には、症状が訴えていることに耳を傾けることもなく、ただのリスクとして排除するために安易に薬が処方されることが始まります。本来、薬は自分のために服用するものですが、対応する社会の側(介護する側)の都合で飲まされることが起こり始める。症状で苦しむ人たちが社会にとってのリスクであるかのようにすり替わってしまう。分からないことへの躊躇いのなさは、ささやかな希望を絶望に変えかねません。そのような現状を目の当たりにしてきました。

 子どもや老人に限らず、認知の在り方は多様に満ちています。けれど僕たちのつくる社会という器は、その時々の概念で容(かたち)が偏ります。よって、人間の認知の在り方があまりに多様であるがゆえに、器からこぼれる人が出てくる。その、こぼれた人たちが社会の都合によって治療や訓練の対象者としてラベリングされていくのです。時には合法的な排除へと繋がっていく。僕はそのことが受け入れ難い。

 そんな、こんなで、僕には病理とは違う文脈で老いを手づかみしたい衝動があります。子どもと老いの領域には概念や精神世界から一方的に観るだけでは、了解できない体の世界があります。
 長生きした体は不思議なんです。たとえば、耳は遠くなる一方で、直接届いている声よりも、壁から跳ね返ってくる最新の声を拾っている感じがあります。聞こえ方が単に鈍化しているのではなくて、受け取り方が繊細になっている。真夏に寒さを感じる人が少なくありませんし、各感覚器官は鈍化しつつ繊細になり、体全体の感受は敏感になる。天気や気候の影響力がとても強くなります。
 世界のとらえ方も変わってきます。より実感に寄ってきます。楽しさは短く、苦しさは長く、そうやって時間が自由に伸び縮みする。空間の見え方も、いま・ここの風景をありのままに写実するようになる。ちょっとした光の当たり方で見慣れたものが初めて見たものになる。かと思うと、初めて訪れる場所を、体に記憶された風景に引き寄せて、よく知っている場所にしてしまう。
 記憶もそのような体の受け取りに反応する形で唐突に再生されたりもします。キンモクセイの香りに誘われて思い出せない記憶の存在を感じ、さしたる理由もなく哀しみや喜びが湧いてくるように。時系列から逸れながら、空間とも結びつかず、脈絡なく誘い出された記憶と感情に導かれて行動が始まっていく。
 時間と空間の概念を失い、記憶が朧げになるということは、過去から現在を経て未来に向かう時間のベクトルを失ってしまうことです。明日への備えができず、今、どうすべきかが分からなくなる。過去からは、さまざまな年代の私が立ち上がってくる。立ち位置を失い私が溶け出していく。その恐ろしさはいかばかりのものか。ぼけが荒ぶる背景にはこのような恐怖が潜んでいるように感じます。わたしの中にある野性と理性がかみ合わなくなるのかもしれません。けれど、その混乱の先には未来に対する憂いや、過去に刻まれた辛い呪縛からの解放がある。そこには深い安らぎがあるように思えるのです。

 深いぼけにもたらされる概念からの完全解放とは、川口有美子さんの言葉を借りれば「完成された」状態なのかもしれません。「いま・ここ」を生きる完成体。深いぼけを抱えたお年寄りを介護するとき、体と心がホッと安堵することがあります。「いま・ここ」を生きる体をケアすることで、ケアする者も「いま・ここ」を生きることができる。そのことが安寧を生むのではないでしょうか。
 川口さんのお母様にある深い安寧は川口さんを始めとしたヘルパーさんたちによる「耕し」が深く関わっていると思いました。心はお人好しでいい加減な面がありますが、生身の体はやはり正直です。生理的な要求が快適に満たされないと長くは生きられません。そんなことを考え続けていました。

 追伸
 ハチミツ、少ない量で恐縮ですが、楽しんで下さりなによりです。僕の字に着目された思いもしない感想に猛烈な恥ずかしさを感じた次第です。
 今回のお返事ですが、書いた字の上に重ね書きをするような感じで、繰り返し書き重ねました。目には見えない文字たちが下敷きとなって沈んでおります。言い訳にもなりませんが、予定の期日にお送りできず、すみませんでした。もう、年末ですね。メリークリスマス! そして、よいお年を。

村瀨 孝生/伊藤 亜紗

村瀨 孝生/伊藤 亜紗
(むらせ・たかお/いとう・あさ)

村瀨 孝生

1964年、福岡県飯塚市生まれ。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から、「第2宅老所よりあい」所長を務める。2015年4月より特別養護老人ホーム「よりあいの森」施設長。著書に『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社)、『看取りケアの作法』(雲母書房)、『おばあちゃんが、ぼけた。』(新曜社)など多数。

伊藤 亜紗

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院准教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など多数。

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