ぼけと利他 村瀨孝生と伊藤亜紗の往復書簡

第30回

信頼のナルホイヤ(伊藤亜紗)

2022.01.08更新

 村瀨さん、あけましておめでとうございます。お正月は東京も人の出が少なく、風もなくて、なんだか静止画の中にいるみたいです。
 前回のお手紙、窓から飛び出た村瀨さんの体が、どさっと自分の腕の中に落ちてきたようでした。不随意に顔が引きつるチック症のこと、それをそそのかす心の火遊び、多動な体に傷つく暇もない心、引きこもりたい心と病まない体の分裂。体の来歴を語る村瀨さんの言葉には、何度も書いては消したような推敲の跡が感じられ、これはものすごい贈り物をもらってしまったな、と身が引き締まる思いがしました。
 私は、その人が自分の体について語るのを聞くのがとても好きです。というか、研究という枠組みのなかでそれをすることが私の仕事なのですが、体の話には、さいきん見た映画の話や、おすすめのレストランの話とは違う、特殊な魅力があるように思います。
 長い時間をかけてつくられたその人の体という、放っておけば秘匿されてしまうものを、自分も分けてもらっている。そのことに、共犯者になってしまったというぞくぞく感と、秘密を手元に預けられた以上引き返せないという覚悟と、ちょっとでも自分を信じて語ってくれたという喜びが、ぐちゃぐちゃに入り混じったような気持ちをいつも味わいます。それは、まるでその人の体をうけとってしまったような感覚です。
 体をあげる、あるいは体をうけとる、とはいったいどういうことなのでしょうか。ケアの場面では、それが体を人に任せる営みである以上、何らかの仕方で自分の体から留守になる必要があります。それは体をあげることだ、と言えるような気がしています。ケアしてもらうとは体をあげること、ケアをするとは体をうけとることなのではないか。
 もちろん、村瀨さんがこれまで語ってくださったように、この「あげる」と「うけとる」のあいだには、ひとそれぞれの作法や塩梅があって、一筋縄ではいかないわけですが、体って、そもそも自分のものでなくてもいいのかもしれませんね。目の前で人が倒れたら、放っておくことはできません。その見た目の所有者だけでなく、居合わせた人みんなにも応答責任を生み出すのが、体という物体の面倒くささであり、面白さです。
 前回のお手紙で、ALSのお母様の介護をされた川口有美子さんのお話を紹介しました。「患者さんにも、毎日毎日他人に介護されるうちに、自分の体が自分だけのものじゃない、という自覚が生まれてくるのではないか」というお話です。これは、自分の体を徐々に家族やヘルパーさんにあげる、ということなのかなと思います。家族やヘルパーさんはその体をうけとり、共有の畑のようにそれをケアすることで、ひとつの共同体として安定していきます。
「自分の体を他人にあげる」とは、心身二元論ですね。心身二元論というと、自分という人格のなかで心と体が分裂しているという意味にとらえられがちですが、そもそも体は自分のものでなくてもよかった、という前向きな発見と見ることもできます。たとえば吃音の人が、「思った言葉を体が発してくれない」という分裂によってつまずくとき、それは「意図して伝えることを諦めて、他者の受け取ってくれる力に任せる」ことに通じていきます。
 体は、私とあなたのあいだに置かれている。自分の体が自分の手には負えなくなったら、その物体を他人の手に渡してしまう。そう考えると、心身二元論は、何だか底抜けに明るい思想です。
 もちろん、そう思えるためには、いくつかの前提が必要でしょう。そのなかで最大のものはおそらく「信頼」です。「あげたら他の人がうけとってくれる」という信頼なくては、人は自分の体を手放すことはできません。うけとられず、自己責任に帰される体は、不安定な「分裂」にとどまるでしょう。
 信頼が心身二元状態を可能にする。そのためにはきっと、日常生活で口走るようなレベルの信頼ではだめですね。それはたいてい、心身が統一された個と個のあいだで交わされる信頼にすぎませんから。何しろ、心身二元状態はときに生死に関わります。自分の体を人にあげるのですから、自立や尊厳にも関わります。暴力と隣り合わせともいえる二元状態を可能にするのは、「ここまで信じることができるのか」と戦慄するような奥行きのある信頼であるはずです。

 昨年末に、極地旅行家の角幡唯介さんと対談させていただく機会がありました。(いつも近況報告になってしまいすみません)
 角幡さんは、グリーンランド最北の村シオラパルクを拠点に、世界最北の地を犬橇で2ヶ月かけて長期旅行をする、ということを2019年から毎年行っている方です。最北の地というと、何だか極限に挑戦しているようなイメージがありますが、角幡さんの関心は「人類未踏の地を走破する」というような従来の冒険のイメージとはちょっと違っています。むしろ「同じところに小さな違いを見つける」のが面白いのだそう。「北極の地を裏庭化したい」と角幡さんは言います。
「同じところに小さな違いを見つける」ことが重要なのは、「狩り」です。角幡さんの旅は、狩りをしながらの旅です。「人類未踏の地を走破する」場合には自分の目的が行動の中心にありますが、狩りをする場合には、何度も来ている見慣れた場所に生じた変化に気づき、獲物の身になってその痕跡を感じとる力が必要です。狩りの本質は介護やケアに似ている、と角幡さんは言います。確かにそうかもしれません。狩りは征服ではないんですね。
 そんな角幡さんの狩りの師匠は、地元に住むイヌイットたちです。もっとも、イヌイットの世界もかなり近代化しているようですが、その根底には今でも狩り的な世界観がある、と角幡さんは言います。
 そのイヌイットの世界観を凝縮した言葉が「ナルホイヤ」です。「ナルホイヤ」とは、現地の言葉で「わからない」「なんともいえん」ということ。明日の天気を訊いても「ナルホイヤ」、お父さんは今どこにいるのと訊いても「ナルホイヤ」、昨日何を食べたかと訊いても「ナルホイヤ」、犬橇はもうやらないのかと訊いても「ナルホイヤ」・・・。何を訊いても返事の八割はナルホイヤで、全く話にならないのだそうです。ある意味で、ぼけが徹底している文化なのです。
 本多勝一は、この「ナルホイヤ」の背景に、計画概念の欠如を見出します。イヌイットたちがくらす世界は、昼と夜の明暗の交代が失われた、区切りのない一元的時間のつらなりです。景色ものっぺらぼうのように広がる無変化かつ無際限の世界です。この単調さゆえに「くりかえし」がおきず、ゆえに何かを数える契機もない。じっさい、イヌイットたちは数の概念が希薄で、直感的に分かるのは「5」までだと言います。
 しかし角幡さんは、この「ナルホイヤ」にむしろ積極的な意味を見出します。それは、「〈今〉への没入を徹底的に肯定する態度」なのではないか、と。それは、「〈今〉を予期の確認作業にしない」と言い換えることができるかもしれません。
 近代化した都市に住む人にとっては、「天気予報で今日は晴れだと言っていたから、傘は置いていこう」といった行動様式が当たり前です。たとえ出かける前に空を見上げることがあったとしても、それは「今日は晴れ」という予報を確認するだけの作業になってしまいがちです。けれども、そんなふうに予期を前提に生きることは、〈今〉の微妙な変化を見落とすことにつながりかねません。遠くに怪しい雲があるかもしれない。風のなかに湿気が混じり始めているかもしれない。そうした小さなサインを見落とすことは、都市に生きる人にとってはせいぜい服が濡れる程度かもしれませんが、狩りによって食糧を得ている旅人にとっては致命的です。
 だからこそ「ナルホイヤ」が重要になる。実際、イヌイットたちは、自分の感覚で見聞きした直接経験を徹底的に重視します。たとえば8頭の獲物を追っていて6頭を仕留めたとき、彼らは引き算によって「逃げたのは2頭である」と判断することはしません。もし逃げたところを実際に目で見たのが1頭であれば、彼らにとって「逃げたのは1頭」なのです。
 そんなイヌイットの世界観に親しんでいる角幡さんですが、やはり圧倒的に違うと感じることも多々あるそうです。たとえば、彼らは、帰りの食糧を持たずに旅に出ることができます。獲物がほとんどいないような場所を何百キロも旅するにもかかわらず、もしものために十分な食べ物を積んで出かけたりはしないのだそうです。
 なぜそんなことができるのか。それは、彼らが無鉄砲だからではありません。角幡さんは、自らとイヌイットの決定的な違いは「大地への信頼」だと言います。土地や動物をひっくるめた自然そのものとしての大地を信頼しているから、「食糧がなくてもたぶん何とかなる」と思える。もちろん、彼らには狩りの技術や豊富な土地の知識があります。でも、最終的な根拠を「自分」におけるほど、自然は甘くないでしょう。にもかかわらず、そして、だからこそ、彼らはむしろ大地の方を信じている。この先どうなるか分からないという不確実性があったとしても、大地を信頼しているから、計画が不要なのです。
 私が面白いなと思ったのは、この大地への信頼を、角幡さんが「組み込まれている」という言葉で表現したことでした。「土地や動物の事情に組み込まれること、土地と自分を隔てる境界線を消すことがいちばん効率的であり、自由になる」。組み込まれてしまえば、自分もその一部だから、不確実性はもはや不確実性ではなくなるんですよね。「獲物を捕れると思うことに飛躍がない」と角幡さんは言います。
 自分という存在を、大地という計り知れないメカニズムの一部だと考えるこの感覚は、川口さんのお母様の体が、何人もの他者の日常の中に組み込まれることによって生を保っていることと、どこか似ているように思います。体を自分でないものの中に組み込んでしまう。そんな信頼の深みに私はまだまだ到達することができませんが、そういう生のあり方が、おそらく存在するのだろうと思います。
 角幡さんは、日高山脈を地図なしで登山したそうです。地図がないから、どっちにいけば何があるという未来予測が立たないし、そもそも自分の足元の地面が何という山の何という尾根なのかも分からない。時間のベクトルと言葉が失われたそれは、むきだしになった「生の山」だと角幡さんは言います。ぼけの深まったお年寄りの見ている世界と、どこか通じているかもしれません。

村瀨 孝生/伊藤 亜紗

村瀨 孝生/伊藤 亜紗
(むらせ・たかお/いとう・あさ)

村瀨 孝生

1964年、福岡県飯塚市生まれ。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から、「第2宅老所よりあい」所長を務める。2015年4月より特別養護老人ホーム「よりあいの森」施設長。著書に『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社)、『看取りケアの作法』(雲母書房)、『おばあちゃんが、ぼけた。』(新曜社)など多数。

伊藤 亜紗

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院准教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など多数。

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