文学のなかの生命文学のなかの生命

第12回

立ち留まること―カフカの「門」

2018.05.01更新

 生きていると、ふと立ち留まることがある。昨日まで生き生きと街を歩いていたのに、朝起きると生きる力が失われている。何かが生きることを阻んでいるような、なぜだか前に進めないような、そんな瞬間が時おり訪れる。人は人生の節目節目において、あるいはなにもない日常において、ふと立ち留まる。動き続けることが生命の業だとすれば、立ち留まることは人間の業なのかもしれない。

 僕たちは立ち留まる。しかし、それは何によってなのか。僕は、カフカの作品を読むといつもそのことを考えてしまう。

『掟の門前』

 フランツ・カフカ。奇妙な寓話を書くこの作家の作品のなかでも、とりわけ不可思議な小説がある。『掟の門前』という短編だ。物語は短く、いたってシンプルである。ある田舎の男が門を訪れる。門は空いているが、門番がいる。門番が言うには、この門を通ってもよいが、この先には延々と門が続き、奥にはさらに恐ろしい門番がいる。男は恐ろしくて門に入ることができない。それでおしまいだ。

 男は何日も何年も門の前で立ち尽くし、また門番にすがりつき、泣きついて門に入れてくれと頼みこむ。まったく動じない門番に対して、男は考える。門があるからには、誰かが入るために作られたはずだ。しかし、自分以外には誰も門に入ろうとしない。いったいこの門は何のためにあるのか?そう問い詰めると門番は言う。「この門は、お前一人のためのものだった」と。そして男は、門の前で疲れ果てて死に絶える。

 カフカは、掟の門の前で立ち留まった。しかも、その命尽きるまで立ち留まった。男を立ち留まらせているのは「門」であり、門はなんらかの「掟」である。さて、この「門=掟」とはなんなのか?このたった数ページの短い小説/寓話をめぐって、様々な解釈が存在する。

『城』と権力

『掟の門前』は、カフカの長編小説『城』の「縮約版」であるという解釈がある。『城』では、遠路はるばるある村に到着した一人の測量士Kが、「城」からの発注で仕事を請け負ったにもかかわらず、いつまでも城に入ることができないという、またも奇妙な物語だ。測量の仕事をはじめたいKが依頼を確認しようと村の人間に訪ねても、誰も城の役人と繋げてくれない。城の役人に会うには入城の許可証がいるが、許可証は城に入らないともらえないという。笑えるが笑えない不条理なカフカ的ジョークの世界である。

 測量士Kは、役場をたらい回しにされ、書類を漁り、城の役人を追いかける。仕事がなくてお金に困り、しかたなく街の汚い学校の住み込みの掃除夫をやるはめになる。けれども、城には決して入れない。

「喜劇」とも「悲劇」とも読めるこの物語は、実はひとつの権力構造の問題を鮮やかに描いた批評性を持っている。この村において行政を司る「城」は絶対的な権力を持っているが、城の役人の姿はほとんど現れない。村の人々は恐れおののいて名前を口にすることさえ怯え、測量士Kでさえ、壁の穴から覗き見ることができたくらいである。つまり、城は「不可視の権力」なのである。

 不可視の権力が人間を立ち留まらせる。それが『城』のテーマのひとつだ。この権力は、近代以前の王や神の権力とは異なる。権力はどこにも顕現せず、その力を見せつけることもなく、それどころか力の所在さえ分からない。絶対王政や独裁政治から民主主義と官僚機構の行政システムへと社会がその設計をアップデートしつつあったその最中、カフカは新しい時代に到来する不気味な権力の姿を予見していたのだ。

 物語は後半になって、実はこの匿名的な行政システムの権力は、民衆が勝手に怖れているものにすぎないことが明らかになっていく。政府(城)は民衆に直接的に権力を行使するわけではない。民衆が、城の役人の気持ちを(現代風に言えば)「忖度」し、城が発効する所在不明の様々な「公文書」を解釈することによって、自ら権力に従っているのだ。

 カフカは、権力の正体をかつての「独裁的実権」ではなく「官僚機構」へ、そして民主主義的な「同調圧力」へと看破していく。今からおよそ100年前の1922年に書かれたこの『城』という作品の洞察には驚くべき先見性があり、現代の権力問題を考える上でも必読の書と言えるだろう。さて、カフカが立ち留まった「門」はこの「不可視の権力」だというのがひとつの解釈だ。

追放されたカフカ

 また、カフカの実存的な観点から解釈することもできる。『掟の門前』は、原書のドイツ語では「Vor dem Gesetz」と書く。「掟」と訳されたGesetzは「法」の意味を持つが、これはカフカにとっては重要なことである。カフカはユダヤ人であり、ユダヤ人における律法は、神との契約を意味する。

 青年グレゴール・ザムザが一夜にして虫へと変貌してしまう小説『変身』も、いわば神との契約(掟)を破ってしまった人間の惨めな末路を描いている。カフカの短編にはこうした動物の寓話が異様に多い。人間が突如として動物に帰してしまうこと、それを防いでいるのが「掟」、あるいはユダヤ的「律法」、すなわち神との契約であったという考えがカフカにあった。門に入れないということは、神から見放されたということだ。神との結びつきこそが人間の存在根拠であるならば、神から見捨てられた者は、もはや人間ではなく動物や虫と同じなのだ。

 また、作家の複雑なアイデンティから解釈されることも多い。カフカは1883年にプラハに生まれたが、当時のプラハはボヘミア王国の首都で、オーストリア=ハンガリー帝国に属す複雑な民族的状況にあった。辻瑆氏の要約を借りれば「国籍上はオーストリアに、文化的にはドイツに属し、多数のチェコ人のあいだに生活しながら、血筋の上ではユダヤ人(1)」というのがカフカの引き裂かれたアイデンティであった。

 あるいは、カフカは保険協会に勤める小官吏で、市民階級でも労働階級でもない。また、『判決』で描かれるように「父」との長年の確執があり、同じ女性と二度結婚して二度離婚するという「女」にも受け入れられない身であった。彼は「神」にも「社会」にも「家族」にも自らを認められなかった。あらゆる「門」がカフカを追放したのだ。

 哲学者のモーリス・ブランショは、『城』で測量士Kが、決して城へとたどり着けないにもかかわらず、彼がまったく情熱を失わない不思議を、彼がはじめから「締め出されている」からだと言っている。Kはもともと可能性など持っていないのだから、「不可能なもの」へと向かうしかないのだ。カフカは「この世から、また彼自身から追放され、世界の不在をむりやり押しつけられ、真の宿り地のない流謫の運命に委ねられている(2)」。

 ブランショは、測量士Kの運命を「彷徨すること」であると言った。はじめからこの世から追放され、彷徨いながら、しかもどこにも受け入れられることのない人生。それがカフカの悲運だと言うのだ。カフカはある手記でこう綴る。「どこへ馳せろというのだ 家を出て遠くへ(3)」。こうしてみると、たしかにカフカの旅路はあらゆる「掟の門前」で拒否されている。

拒絶の門

 どこへ彷徨ってもあらゆる場面でカフカを拒絶する「門」。それにはありとあらゆる解釈があった。しかし、かたちを変えて幾度も反復される同じ構造の物語を読み続けていると、僕にはカフカの門が、具体的な抑圧者であるよりは、なにか得体のしれない鵺のように思えてくる。

 掟の門は、それが「権力」であれ「父」であれ「律法」であれ、何でもよかったのではないか。逆にいえば、掟は「何でもあり得る」。だからこそ『掟の門前』のような、抽象性の高い物語が書かれた。その奇妙なまでの抽象性によって、「門=掟」は何の象徴でもないのと同時に、あらゆるものの象徴でもある、という二重構造を持つ。

 カフカは、掟の門の前で命尽きるまで立ち留まった。たしかにカフカは、学校でも会社でも国家でも、神でも、どこでも自分が排除されていると感じ、父親には自分への抑圧を非難する長大な手紙も書いている。彼を抑圧する強大な力(掟)は現実に存在しただろう。

 しかし、カフカは『掟の問題』というテクストのなかでこんなことを言っている。「われわれが見つけ出したと称している掟など、そもそも存在しないかもしれない(4)」。そして、掟は「しょせんは頭の遊戯にすぎないのではないか」とさえこぼしている。

 もしかすると本当は、自分を脅かす「門」や「掟」などないのかもしれない。しかし、理由なき出来事に人間は耐えられない。自分の人生を阻む理由があれば、まだそれを克服する努力ができる。しかし、何の理由もなく生きる力が奪われるとしたら、どうしようもないではないか。

 だからこそ、カフカはありとあらゆる場面で「門」を見た。門を自ら創り出したとさえ言える。門は不安によってどこまでも肥大化する。勇気を振り絞ってひとつの門をくぐり抜けたとしても、また新たなる門が待ち構えている。門は延々と無限に続くのだ。そうして結局は、どこにも入ることができない。

幻想の門

 なぜカフカは「扉」や「壁」ではなく「門」を描いたのか。「門」には囲いだけがあり、物理的には通過可能なゲートである。しかし男は通過できない。門はいわば、「壁無き壁」と言っていいだろう。カフカの物語において、彼の行動を阻む壁は常にある種の「幻」として現れ、実行的な力を行使しない。門は幻想の壁なのだ(5)。

 しかし、人間においては幻想こそ最も強力な現実である。だからこそ、実際にカフカは門の前に立ち留まり、もがきながら苦しんだ。物理的な壁であれば、人はそれを突破するためにありとあらゆる行動をとるだろう。しかし、もしも壁など存在しないのに、ありありとした巨大な幻想の壁が立ちはだかっていると感じたならば、人は幻想の壁の前に為す術もなく立ち留まるだろう。

 もしかすると、人間にはそもそも幻想と現実を区別する能力などないのかもしれない。別の言い方をすれば、人間は幻想を完全に消し去ってしまうことはできない。しかしそのうえでなお、人間が生きていかなければならないのならば、必要なのは幻想から逃げることではなく、むしろ幻想を受け入れ、幻想を操作する能力ではないか。

 そう考えると、幻想を観る能力、あるいは幻想の前に立ち尽くしてしまうことそのこと自体が、人間であることの意味なのかもしれない。ただの動物ならば、迷うことなく門をくぐるだろう。また、AIのような合理的な推論システムを搭載したロボットであっても門をくぐるだろう。

 ただ本能で動く生物でもなく、また思考する機械でもない、その微妙な狭間で佇む人間だけが、門の前で立ち留まるのだ。それぞれの、その者だけに現れる巨大な幻想の門の前で。

註)
(1)カフカ,1966
(2)ブランショ,1968
(3)カフカ,2002
(4)前掲書
(5)デリダは『掟の門前』をめぐるテクストにおいて、掟が「異様な幻想性」を、門が「幻視性」を持つことを指摘している。デリダの論旨においては、掟による禁止が無限に「遅延される」ことが、掟=法の起源であることを示すためだが、その効果として門が男へと「現前」せず、カント的な純粋理性による道徳よりもいっそう不気味(unheimlich)になると述べる(デリダ,1986)。

参考文献
フランツ・カフカ,辻瑆(訳)1966.『審判』,岩波文庫.
フランツ・カフカ,池内紀(編訳)1987.『カフカ短編集』,岩波文庫.
フランツ・カフカ,池内紀(訳)2002.『カフカ小説全集 6』,白水社.
フランツ・カフカ,前田敬作(訳)1971.『城』,新潮文庫.
モーリス・ブランショ,粟津則雄(訳)1968.『カフカ論』,筑摩叢書.
ジャック・デリダ,三浦信孝(訳)1986.『カフカ論』,朝日出版社.

下西 風澄

下西 風澄
(しもにし・かぜと)

1986年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学後、哲学を中心に講演・執筆活動を行う。生きていることの意味は、生命や意識にいかに生じるのか、哲学や認知科学を横断して研究している。論文・執筆に「フッサールの表象概念の多様性と機能」(『現象学年報第33号』)、「色彩のゲーテ」(『ちくま』,筑摩書房)などの他、詩作品「詩編:風さえ私をよけるのに」(YYY PRESS)も寄稿。近刊に絵本『10才のころ、ぼくは考えた。』(福音館書店)。

twitter : @kazeto

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