小さき者たちの生活誌小さき者たちの生活誌

第5回

うつろう

2018.08.16更新

明治になって政府が、〔草刈り場だった山を〕一人一人に割ってくれたそうですたい。それでみんな開墾してカライモを一年か二年か作りましたところが、税金をかけたって。ただで作ってよかっじゃろうて思っとったところに、税金が来たもんだから、みんなびっくりして戻してしまったそうです。・・・政府の税金はだんだん高うなってな。百姓は、税金分の作物を作りださん。それで、酒一升でも二升でもつけて、「田圃もろうてくれろ」て頼んでまわりよったそうです。(岡本達明・松崎次夫編1990『聞書水俣民衆史I 明治の村』草風館、53-54頁)


 1971年から約20年かけて、のべ400人もの水俣の人びとの聞き書きを収録した『聞書水俣民衆史』(全5巻)。第1巻「明治の村」では、幕末から明治にかけての村の姿が古老たちの語りから浮かび上がってくる。その生々しい民の声には圧倒される。
 
 水俣は、江戸時代、肥後と薩摩との藩境にあたり、軍事的な要衝だった。藩境警備のための地侍も多かった。明治10年の西南の役では、1週間にわたって官軍と敗走する薩軍との激戦地となった。「御一新」によって侍の時代が終わり、一時、開放的な雰囲気が広がった。

ばあさんが嫁に入って来たときは、明治の前やっでな。ばあさんは士族の家から来て、じいさんは百姓やったったい。それでばあさんだけ傘さして歩きよらったて。じいさんは傘さしちゃならんかったて。百姓は、下駄と草履ははいてよかったが、傘はだめ。羽織はいいけど、絹の着物はだめ。舟津の漁師、水夫の衆は、絹の着物は着てもいいけど、下駄、草履はだめやったてな。それではだしで歩かんばいかんとやったて。(40頁) 

 百姓も苗字をもつことが許された。庄屋が「わっどん〔おまえたち〕にも苗字をくれるけん、判〔印鑑〕を彫って来え」と言うと、村の衆は大根やカライモに彫って行った。「わっどんのは腐れてしまう」と怒った庄屋が判をついてみると、字が反対になっている。たった1人、大工をしていた男が木に正しく「緒方」と彫っていた。庄屋が「みんなこの緒方って苗字にしろ」と言うので、野川村は全員緒方になった。判がいるときは、みんな大工に借りに行った。肩に担ぐほどの太い木に彫られた判だった。

 一方で、あらたな規制もはじまった。かつて夏の農作業のとき、女性でも腰巻きだけをして、上半身裸なのがふつうだった。それが明治になり、巡査が見回りにくるので、着物を着るようになった。近代化のなかで、古い習慣がことごとく否定されはじめた。

 焼酎も自分たちでカライモや米から蒸留して自由に飲んでいたのが禁止された。煙草も勝手に作って吸っていたのが、すべて買わなければならなくなった。いずれも酒や煙草から「税」をとるための国策だった。

 明治6年から14年にかけて地租改正による税制度の改革が行なわれ、税の金納がはじまった。水俣では、そのお金を稼ぐ仕事(銭取り)自体がほとんどなかった。多くの百姓は金貸しに借金するしかなかった。

稼ぎがないから、村にある銭は僅かなもんやった。それで銭持っとる者が金貸しして、ほくそん(ぼろくそ)肥えたったい。5円の銭を借ろうとしても、ただじゃ貸さんとたい。担保入れなければな。担保は田の畑の山のてな。そして期限に納めきらなければ、担保引き上げたい。(58頁)

 多くの百姓が借金の担保に田畑や山をとられ、金貸しが大地主へと成長していく。村の者は誰もが金貸しの小作になり、得米(小作米)を納めなければならなくなった。不作で得米も納められないと、また山などの土地を奪われた。

そうして、金貸しがみんな得米取り(地主)になってしもうた。・・・百姓で自分の田圃持っとる者は、もう僅かなもんやった。・・・得米取りは銀主(ぎんし)どんていいよった。・・・水俣の者は、銀主どんを親方親方ていうて奉っとったっじゃもん。百姓はどこも萱屋やったが、陣ノ町の銀主組は瓦屋やった。(61頁)

 地主に収穫の3分の2を納め、小作は3分の1しか手元に残らなかった。もともと山並みが海に迫って土地の狭い水俣は、田畑の面積も小さかった。山の畑にカライモや麦、粟などを育ててしのいでいた。それらの土地の多くも、もう一人の大地主の土地だった。

水俣には、昔から「ごないか〔御領家〕」というてな、もう一人大地主が居られたっじゃもんな。〔熊本藩主の〕細川さんたい。水俣の丘陵地帯は、ごないか畑というて、ぜーんぶ細川さんのハゼ山でしたもんな。・・・百姓はごないか畑の下作をして、〔ロウソクの蝋をとる〕ハゼの実で上納を納めよったんです。わしの親父の代から、そのまたずっと昔からな。水俣には、ごないか畑の他にゃほとんど畑はありませんでな。水俣の百姓は、田圃は銀主から借りて作る、畑はごないか畑を作るして、暮らして来たんです。(78-79頁)

 明治30年にハゼの実から蝋をとる仕事は「肥後製蝋会社」という会社の事業に変わる。熊本から派遣されてきた「役人」は、畑の土地にもっとハゼの木を植えろと厳しく命じた。ハゼの木のあいだにカライモなどを育てて食料を確保していた人びとは困窮する。

ハゼの木がうんと茂ってきて、畑の下作ができんようになった。ハゼの木が茂れば影になるし、その影の分だけ根張りがいくんです。根張りで水分を取ってしまう。カライモでも赤くなってしまいますもん。粟はもうパタッとできんです。麦は冬の作だから、ハゼの葉が落ちて、畑の真ん中もハゼの木の下もできます。できますばってん、木の下の実は、小もう(小さく)なってしまいますもん。(80頁)

 海に近い平地部の「町うち」の百姓にとっては、江戸時代から唯一の銭取り仕事が塩田での労働だった。女性も子どもも、年中、塩田に通って重労働を続けた。

塩浜は、はだしで入らんばいかんとですたい。もう足の裏は焼けて固くなって、少々ツン貫かっても〔突き刺さっても〕分からんですもん。手はエチオピア人とひとつですたい。鍬とかモッコ〔運搬道具〕とか使うから握りだこができて、木綿針突きさしたっちゃ、何のこたなかですもんな。天気さえよければ、肩から担ぎ棒が外れる日は1日もなかったです。(123頁)

 この塩田でつくられた塩も、政府による専売局の設置で自由に販売できなくなった。そして明治43(1910)年に水俣の塩田廃止が決定される。すでに水俣に進出していた「日本窒素肥料株式会社」(チッソ)が工場を拡大したのが、この広大な塩田跡だ。水俣工場で硫安の製造が開始され、工場排水のヘドロが不知火海に流されたのは塩田廃止からわずか4年後のことだった。

 お金を稼ぐために労働する。いまではあたりまえのことだが、かつてそれはかならずしも「あたりまえ」ではなかった。近代国家の税制や産業振興のなかで、民衆が生産のための田畑や山を失い、「銭取り」の労働を強いられるようになった。小さき者たちの暮らしの移ろいのなかに、いまなぜこのような世界に私たちが生きているのか、その問題の根が見えてくる。

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松村 圭一郎

松村 圭一郎
(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。岡山大学准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを続け、富の所有や分配、貧困と開発援助、海外出稼ぎなどについて研究。著書に『所有と分配の人類学』(世界思想社)、『文化人類学 ブックガイドシリーズ基本の30冊』(人文書院)、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)がある。朝日新聞にて「松村圭一郎のフィールド手帳」を連載中(毎週火曜日掲載)。

この記事のバックナンバー

09月14日
第6回 かかわる 松村 圭一郎
08月16日
第5回 うつろう 松村 圭一郎
07月10日
第4回 まじわる 松村 圭一郎
06月18日
第3回 いのち 松村 圭一郎
05月11日
第2回 おそれる 松村 圭一郎
04月16日
第1回 はたらく 松村 圭一郎

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