第6回
かかわる
2018.09.14更新
大正の中頃から昭和のはじめ頃というのは、奇妙な時代やったなぁ。村の持っとる所が、神経〔病〕みたいに、金使い始めたもんなぁ。・・・〇〇さんは、町から芸者を家に連れて来て、一日越しに散財やりよったで。芸者が、島田結って踊るもんやっで、珍しかったいなぁ。部落の者は、全部見に行きよったっじゃっで。老いも若きも全部。
(岡本達明・松崎次夫編1989『聞書水俣民衆史III 村の崩壊』草風館、85頁)
前回紹介した『聞書水俣民衆史』の第3巻「村の崩壊」から。もともと裕福だった士族や庄屋の家にくわえ、百姓から借金のかたに土地を手に入れて大地主となった新興富裕層の没落がはじまる。編者たちは、そこに「放蕩狂時代」という見出しをつけている。
水俣川のほとりの「大園(うぞん)の塘(とも)」には、たくさんの「女郎屋」が立ち並ぶようになっていた。毎晩のように、そこで庶民から集められた「財産」が消えていった。それは、貨幣経済のなかで、山や畑などの土地が百姓たちの手から離れ、容易に現金に替えられるようになった時代のひとつの帰結でもあった。
現金があるとなると、今度は、必ず使わせる人間が出て来っとな。おだててな。いっしょについて行って、遊ぶ人間がな。財産処分した金に、人がたかってきたわけ。親父は、若い頃は酒を飲まなかったていうばってん、さあ酒は飲む、女は買うで遊びだした。親父が、芸者上げて、ビール瓶並べて、飲んどる写真が残っとるよ。〔家屋敷を手放して得た〕2500円は、誘い水になったっじゃろ。それから次々、田圃、山、て売り飛ばした。最後には、おふくろの弟の保証かぶりをして、引っ越した家まで打ち売って、昭和10年には、ようと元無しになってしまった。まこてー、おちぶれたもんやった。(92-93頁)
こうして多くの地主たちが財産を失い、没落していった。ある者は、道楽に大枚をつぎ込み、ある者は新規事業に失敗して、家屋敷を売り払った。広大な土地に洋館や馬小屋などが建ち並ぶ家屋敷を失い、薄汚い鶏小屋で晩年を過ごした「旦那さん」もいた。最期を知る人は、次のように語る。
死なしたときは、病気せずにおって、寝たまま、死んどりなったっです。よかったです。もう終戦後でした。・・・部落の人たちが、お通夜に来てくれなったばってん、もう寒うしてたまらんとですたい。それで、部落の人たちに頼んで、あるだけ庭筵(にわむしろ)を運んで来てもろうて、周りの金網に、吊り下げてしもうたです。火を焚くといっても、薪物一本ないでしょうが。「火でも焚かにゃ、どもこも、居りゃならんばい。みんな、薪物持って来てくれんな」。また、薪物担いで来てもろうてな。そしてから、お茶汲みするてしても、旦那さんと〔妻の〕オトクさんのお茶碗が、二つあるだけでしょうが。お茶碗も、私の家のを、持って行ってな、「こりゃもう、ここに置いとってよかで。旦那さんに香典じゃ」ていうてな。何もかも、そげんしてお通夜したっですばい。(123頁)
折しも大正から昭和にかけての1920年代は、第一世界大戦後の戦後不況から世界恐慌のあおりをうけた昭和恐慌へと不景気が日本全体を覆っていた。水俣に工場を建てた日本窒素肥料株式会社も、一部の工場を閉鎖売却し、生産を縮小して主力を植民地の朝鮮半島に移した。それで大量の失業者が出た。
食い詰めた者を救済する施設も、行政サービスもなかった。生活のための職や土地を奪われ、住む家を手放せば、流浪するほかない。水俣にはたくさんの「勧進(物乞い)」が河原などに棲んでいた。大正8年生まれの男性は、こう述懐する。
橋の左右は、草っ原みたいな河原やった。橋の下には、勧進小屋が、かかっとった。河原にも、いまの団地みたいに、ずっと勧進小屋ができとった。夕方になれば、小屋小屋から煙が出てな。俺共が子供の頃は、水俣中の河原という河原、橋という橋の下には、どこでもそげんして、勧進共が住みついとったっじゃろ。寒くなれば、居らんようになり、暖かくなれば、またやって来る。(182頁)
「勧進」のなかには、その名を誰もが知るような有名人もいた。馬場という部落の河原には「塘の外の三五郎どん」と呼ばれた者がいた。「熊本県芦北句郡水俣町馬場河原 三五郎どん」で手紙が届くと言われた。三五郎どんは「ライ病」(ハンセン病)だった。2人の兄弟と一緒に暮らしていたが、兄弟が相次いで自殺する。その後、三五郎どんも姿を見せなくなった。堤防の下の「勧進部落」は汽車の車窓から丸見えだった。やがて「見苦しい、町の体面にかかわる」と警察によって撤去させられた。
流浪の民のなかには、精神を病む者も少なくなかった。「神経どん」と言われ、それぞれに愛称をつけられ、笑われたり、いたずらされたりしながらも、町のなかでひときわ存在感を放っていた。
勧進だけじゃない、わたしたちの子供の頃は、神経どんもうんと居らったで。丸島には、<犬の子節っちゃん>とか、<船津の八重ちゃん>とか、<小田代勧進>とか、よう来よったもんな。犬の子節っちゃんは、赤子を亡くして、神経にならったという話やった。頭は乱暴にして、子犬を二匹も三匹も、懐に入れて歩きよった。その犬の子に、わが乳を飲ませるもんやっで、乳首は犬の子が吸って、まこてー、こげん腫れとった。船津の八重ちゃんて、大きな女の、やっぱり頭がおかしかった。「唄を歌わんかい」ていえば、同じ唄を何回でも歌わった。「同じ唄ばかり聞くのも、きつかねぇ」ていいよったったい。小田代勧進というのは、もうよかばあさんで、「何でもいいからくれろ。飯食わせろ」ていいよった。ふゆじ(怠け者)じゃいよ、神経じゃいよ。(189-190頁)
いまも精神を病む人はたくさんいる。なのに、じっさいに町で出会うことは少ない。日本は世界的にも精神病患者の長期入院が突出して多い。かつては否が応でも、そうした人びととの関わり合いがあふれていた。彼らも、その関わりのなかで、かろうじて生きることができた。子どもたちにとっても「普通」とは違う人びとがいる光景は、あたりまえの日常だった。
水俣弁で「アチャ」(=聾唖)と呼ばれた女性がいた。親子三人で墓所のなかの小屋で暮らしていた。アチャの息子、「兄(あん)ちゃん」とほぼ同い年だった男性は、その思い出を語っている。
アチャと兄ちゃんは、もらいに出るとき、いつも僕の家の前を通って行く。自然と家に寄って行くようになったんな。うちのおふくろは、「寄って行かんな」ていうふう。親父は〔鹿児島の〕長島者で人のよかったけん、「よかよか、上がれ。お茶でも飲んで行け」ていうふう。家には、昔のしきたりで、便所の横に、柿と枇杷と南天が植えてあった。枇杷がなったとき、兄ちゃんが、「おばちゃん、食べていい?」ていったら、おふくろは、「木に登って全部ちぎってしまえ」ていうた。喜んでなぁ。原種の枇杷で、小さな実やった。そんなわけで、兄ちゃんと僕は、友だちになったんな。(197頁)
アチャは、ものもらいするだけでなく、いくらかもろうて洗濯仕事したりして、夕方墓場に戻るときもあった。アチャは、うりざね顔のほっそりした人で、うちのおっ母さんよりきれい、て思うたこともある。一度僕が転んで泣いとったら、メンソレータムを出して塗ってくれた。継ぎはぎだらけの尻切れ半纏を着とったな。垢まみれじゃなかった。兄ちゃんのみなりは、普通の子とあまり変わらんかった。・・・僕が、昭和20年10月復員して戻って来たら、兄ちゃんは兵隊に取られて戦死してもうとった。お国というのは、勧進の子も忘れんとじゃな、て思った。(198-199頁)
小さき者たちは、けっして弱き者の均質な集団ではない。ある者は成り上がり、ある者は落ちぶれる。壮健に生きる者もいれば、心を病む者も、身体に障害をもつ者もいる。傷つけ合い、たかり合い、足を引っ張り合いながらも、ときに肩を寄せ合い、意識し合いながら、隣人として生きてきた。
たぶん「寛容」ではない。「共生」とも違う。拒絶したくても、手を差し伸べる羽目になる。見たくなくても、出会ってしまう。そんな距離感のなかで小さき者たちは隣り合って暮らしていた。その「距離」には、現代の福祉社会が克服できたことも、そこから抜け落ちてしまったことも、ともにあるように思う。
編集部からのお知らせ
2018年10月19日(金)発売の『ちゃぶ台Vol.4』には、松村圭一郎さんが「人間の経済 商業の経済」を寄稿くださっています。どうぞご期待ください!