第8回
やまい
2018.11.24更新
60年間、病気と付き合ってきたCさんが「わたしらはね、方々に謝って回らんといかんのですよ。行商だった母が、海べたから山間部に向けて、魚を売って回り水俣病をふりまいたと思うと、申し訳なくて申し訳なくて。わたしは、水俣病になることはできんと、そう思っておりました」、「病気は努力で治すと思い頑張ってきました」と言う。(永野三智『みな、やっとの思いで坂をのぼる:水俣病患者相談のいま』ころから、2018年、42頁)
1974年に全国からの寄付をもとに設立された水俣病センター、相思社。本書は、そこで10年ほど患者相談を引き受ける著者の日記をもとに編まれた。水俣に生まれたことを恥じ、逃げるように故郷を離れた著者の率直な思いをつづった「まえがき」は、涙なしには読めない。
冒頭の言葉は、魚の行商をしていた両親のもとで育ち、10代のころから耳鳴りや手のしびれと震えに悩まされてきた男性の言葉。15歳で名古屋に出て溶接の仕事を覚えたが、手の震えから30代で仕事を辞め、建設会社で働いてきた。幼い頃は、売れ残った魚がすべて食卓にあがり、どんぶりいっぱいの魚を食べていた。味覚も失われ、故郷を離れてからご飯を美味しいと思ったことはない。いくつもの病院で原因不明と言われた。2018年、東海地方で行なわれた水俣病の検診会場にあらわれた。
水俣を離れた土地にも、いまだに症状に悩まされる人びとがいる。よく物を落とす、転びやすい、味覚や嗅覚を失う、吐くほどの頭痛、めまい、耳鳴り、こむら返り、手足のしびれや震え・・・。人によっても違う。長い間、発病に気づきながら名乗り出られなかった人も多い。相思社の設立に奔走した、ある80代の女性も症状はあった。でも、チッソに勤めながら水俣病患者を支援していた夫からは「水俣病になること」に反対された。
うちん人はね、自分は水俣病患者の世話ばし、掘り起こしはするくせおって、家族の水俣病は知らんぷりやったもね。(59頁)
家族のあいだでも、水俣病であることを隠しつづけてきた人もいる。ある母親は、自分が水俣病だと、長年、娘に打ち明けられずにいた。娘は、結婚してすぐに家事がまったくできない状態になっていた。さまざまな症状に悩まされ、病院からは原因不明と言われつづけた。ずっとおかしいと思いながらも、自分が水俣病だと認めたくなかったという娘さんから相談を受けた著者が、母親に「娘さんとお話ししてみたらどうでしょうか」と提案する。母親は、こう答えた。
言えません。お互いが水俣病だなんて知ったら惨めになるだけですもん、あの子も私も。水俣病は惨めか病気ですもん。(72頁)
ある島では、役場や漁業が「こん島から患者ば出したらならん」と言って、水俣病隠しをしていた。獲った魚が売れなくなるなどの理由で、網元が「一人も患者を出せない」と呼びかける漁村もあった。
友人が「元気そうなのに申請するなんて、ニセ患者だ」と言うのを聞いて、申請できずにいた人が、症状が重くなり、悩みに悩んで相談に足を運ぶ。水俣病に対する差別意識があり、妻が相思社に相談に行ったと知ると叱りつけた男性が、人知れず耐えてきた症状が悪化し、ひっそりと相談に訪れる。
水俣病に苦しみながらも、それを自分自身で受け入れることができない。そして、水俣病ではないかと思って認定申請をしても、認められる可能性はきわめて低い。若いときから症状に苦しんできた人が認定申請に行って、「めごいねさん(魚の行商人)がたくさん魚を売りに来ていた」と告げると、県職員から「そんなのは関係ないですもんね。公的な書類が必要なんです。領収書を持ってきてください」と言われる。
医者に診断書を書いてくださいと頼んでも、「関わりたくない」と言って断られる。医療費が無料になる被害者手帳を病院に見せても、「これは使えません」と言われ、手帳を発行する県に相談しても、「お医者さんがそういうなら、そうなんじゃないですか」などと対応される。
病であることの認定/未認定、補償や救済策などの制度のはざまで、人びとは大きな葛藤の渦に巻き込まれきた。第1次訴訟で闘って認定患者となった男性は、裁判のあとに起きたことをこう振り返る。
裁判ば闘っとる時は良かった。支援の若いもんもいっぱいおって、俺も闘うぞという気持ちば持ってやりよった。ところが、裁判の終わって家に帰ったら、近くん衆(し)からいじめられるも、いじめられる。俺だけじゃなか、子どももぞ。助けてくれる者の無か。孤独、惨めなもんたい。
俺たちばいじめた衆が、今度は俺たちば利用して水俣病になりよるがな。水俣病になるための書類(申請書類)に「漁師さんの〇〇さんに魚をもらった」「漁師さんの〇〇さんの手伝いをした」ち、俺や父ちゃんの名前ば書いて。そうして、やすやすと水俣病に認められよる。俺たちの受けた苦しみは何やったつや。(88-89頁)
人びとのあいだには、よそ者には容易に想像しえないような軋轢があった。なぜ、そのように引き裂かれなければならなかったのか。著者は、さまざまな人の声に耳を傾けていくうちに、自分までもが引き裂かれるような思いに陥る。無力さに泣きたくなることもあった。それを石牟礼道子さんに打ち明けると、こう言葉をかけられた。
悶え加勢しているのですね。昔は悶え加勢するということが、水俣ではよく有りよりました。・・・人が悶え苦しみよらすとき、あたふたとその人の前を行ったり来たり、一緒になって悶えるだけで、その人はすこし楽になる。(91-92頁)
国や県は、なんども水俣病の「最終解決」を図ってきた。そのひとつ、被害者手帳の申請期限を迎えた2012年以降も、悩み苦しみながら相思社に「やっとの思いで」相談に訪れる人は後を絶たない。公的な組織が終わったことにしようとする、その悲痛な声なき声を、一身に受けとめ悶えつづける小さき者が、いまも水俣の地にいる。その姿に思いを馳せると、心が震える。
編集部からのお知らせ
『うしろめたさの人類学』が毎日出版文化賞特別賞を受賞しました!
2017年10月に刊行された松村圭一郎さんの『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)が第72回毎日出版文化賞特別賞を受賞しました。多くの方に読んでいただきたい一冊です。この機会にぜひ、お手にとってみてください。