小さき者たちの生活誌小さき者たちの生活誌

第11回

ひきうける

2019.02.25更新

たとえば、町を歩いていて、たまたま交通事故を目撃するじゃないですか。事故の当事者とは関係なくても、現場に居合わせた責任みたいなものを背負ってしまう。偶然でもね。...地元の大学にいて神経学を勉強していて、しかも、それを見ちゃった。あの状態を見て、何も感じないほうがおかしい。ふつうの人は何かを感じる。もう逃れられないんじゃないですか。それこそ見てしまった責任でね。(朝日新聞西部本社編『原田正純の遺言』岩波書店、2013年、25-26頁)

 原田正純医師が2012年6月に亡くなる直前までつづけられた対話集より。冒頭の言葉は、石牟礼道子との対話で原田が述べたものだ。原田は、新聞に連載された対話への思いを次のように語る。

水俣病事件の初期のころから水俣と関わってきた人間が非常に減っちゃったわけです。最初から現場でうろうろしよったのは、東京大学の助手だった宇井純さんとか、作家の石牟礼道子さんとか、報道写真家の桑原史成さんとかですね。だけど、宇井さんは亡くなって、当時の状況を改めて聞くことはできんようになってしまったし、患者さんたちをずっと追いかけた記録映画作家の土本典昭さんも亡くなった。それで、危機感みたいなものを感じて、ハッと気がついたら、「自分も年をとったな」と思ってね。病気になったせいもあるんだけど、「最初のころの患者さんたちの状況を、何とかして記録に残しておきたいな」と思ったんです。(vi頁)

 水俣病をめぐる運動では、原田や石牟礼をはじめ、多くの人がその闘争を陰で支えつづけた。1969年にチッソへの損害賠償を求めた第1次訴訟では、チッソの過失責任をいかに立証するか、難問に直面していた。それまでの学説や判例によれば、被害の発生について加害者に予見可能性がなければ、その責任を問えなかった。

 熊本大学医学部の研究などで水俣病の原因物質と流出元が判明したのは、1960年代に入ってから、それをチッソが知ったのは1962年から63年にかけて、とされていた。それ以降は責任を問えたとしても、それ以前の被害についてチッソには責任がない。法的にみれば、それが常識だった。

 提訴はしたものの、著名な民法学者に「勝ち目はないよ」と言われ、まったく見通しが立たなかった。宇井や原田など、さまざまな分野の学者や市民が「水俣病研究会」をつくり、そこで日夜、議論が重ねられた。数人の法律の専門家も参加していたが、「これはとても手に負えない」と、すぐに辞めてしまう。

 結局、研究会に残った法律の専門家は、熊本大学法文学部にいた富樫貞夫、ただひとりだった。なぜ富樫だけが研究会に残ったのか。原田は「それは富樫さんのように現場に行ったか、行かんかの違いです」と述べ、富樫も「そう」と応える。1968年に結成された「水俣病市民会議」の代表をつとめた日吉フミコさんに「まっさきに現場を見なさい」と言われた富樫は、研究会の発足直後に水俣に行き、患者やその家族と会った。

みんなが口々に、「自分たちはだれも殺していないし、だれも傷つけていない。何の落ち度もないのに、一方的に被害だけを与えられた。だれがこれだけの被害を惹き起こし、何人もの人を殺したのか。チッソでしょう? そのチッソに何の責任もないなんて、絶対におかしい」と。ぼくは患者たちの話を聞いて、まったくそのとおりだと思ったわけ。(189頁)

 しかし法律の世界の常識では、水俣病に対するチッソの過失責任は問えない。裁判所は、よほどのことがない限り、最高裁の判例や学界の通説に従う。富樫は、偶然、毒性の強い化学農薬について警告していた原子物理学者・武谷三男の提唱する「安全性の考え方」を知り、それが水俣病裁判に使えると気づく。

 この考え方は、たとえば大気中の核実験をして、その10年後に健康被害が明確になってからでは遅いので、将来にわたって無害であると証明されない限り、核実験をやるべきではないという「予防原則」にもとづいた考え方だった。

 水俣病研究会は、この考え方をもとに『水俣病にたいする企業の責任』という大部の報告書を1年がかりで完成させた。そして富樫は、雑誌『法学セミナー』にあらたな過失理論を再整理する論考を連載した。当時の担当裁判官たちも、この連載を読んでいたようだ。チッソ附属病院長の細川一医師が1959年時点で工場排水をネコに与える実験をして発病を確認していたという細川証言も加わり、1973年3月、熊本地裁がチッソに過失責任を認める画期的な判決へとつながった。

 原田や富樫が加わった水俣病研究会には、チッソの労働者でのちに組合の委員長をつとめた山下善寛や、NHK熊本放送局のアナウンサーをしていた宮澤信雄も初期メンバーとして参加していた。原田は、その研究会での経験を次のように振り返る。

われわれが教科書で知っているのは「水銀は毒である」とか、「沸点はいくら」とか、「致死量がいくら」とかですね。じゃあ、たとえば、それを労働現場で労働者がどういうふうに扱っているか。どんな形で労働者の体内に入っていくのか。労働者が病気になったとき、背景にどういう労働があるのか。まったく知らない。「自分たちがいかに無知であったか」ということを、いやというほど思い知ったんです。確かに、医学の専門家はぼくたちかもしれない。だけど、いかにわれわれが表面的なことしか知らなくて、そこからしか病気をみていないか。山下さんたちに教えられたんです。(166頁)

 山下は、水俣病が公式に確認された1956年、水俣の中学を出て工員としてチッソに入り、研究室勤めになった。その研究室は、のちにチッソが水俣病の原因ではないと反論するための「マルキ研究室」(「奇病の奇にマル」にちなむ)となり、毛髪の水銀から、ネコや魚の水銀分析などをした。当初、山下もチッソが原因ではないと信じていた。あるとき薬学部出身の同僚からビーカーに抽出した水銀を見せられ、ショックを受ける。

 水銀のことは、従業員にも知らされなかった。会社への不信が募るなかで、チッソは「賃上げ問題でストライキをしない代わりに、あとで他社並みに賃金をあげる」という安定賃金の提案をする。山下たちは、これは労働者の力を弱体化させる「毒饅頭だ」と、反対運動をはじめる。このとき、よそから来ていた大卒や高卒の会社寄りの者たちが組合から出て第二組合を結成した。地元出身者の多くは差別されていたので、第一組合に残った。会社は、切り崩しのために、第一組合の組合員を過酷な労働現場に配置換えするなど、不当な差別をつづけた。

灼熱の職場にやらされて。石灰石とコークスを千何百度の電気炉に入れてカーバイドをつくって、釜で攪拌せんといかんのです。その作業を15分やったら45分ぐらい休憩せんと、体力がもたん。・・・三交代勤務ですので、一日に0・5キロずつ痩せていきまして、「絶対に第二組合へは行かん」と思っているけど、「からだがもつかな」という感じだったんですね。(172頁)

 外国から視察で通訳をつとめる者や工場の神様といわれた優秀な者でも、本来の仕事をさせなかったり、便所掃除や草むしり、お茶くみなどの仕事が割り当てられた。山下は「私たちへの仕打ちは、患者さんたちといっしょじゃないか」と気づき、「正しい事実を伝える必要があるんじゃないか」という思いで、市民会議や水俣病研究会に参加した。

 第一組合は、1968年8月に「水俣病に対して何もしてこなかったことを恥とする」という「恥宣言」を出し、1970年5月には、加害企業労働者として初の公害ストライキを決行する。会社の出した公害に組合が抗議のストライキをするなど、まさに前代未聞だった。

 東京生まれの宮澤信雄が1967年にNHK熊本放送局に配属になったとき、水俣病はすでに終わった問題とされていた。それが1968年に新潟水俣病の患者が水俣を訪れ、水俣病患者家庭互助会が「政府が公害認定をしても補償の要求はしません」という申し合わせをするなど、「怪しい動きがいろいろあった」。宇井純らの本を読んで関心をもった宮澤は、番組ディレクターと1968年8月にはじめて水俣を訪れ、患者家族を取材した。

互助会の申し合わせとは裏腹に、「この子たちは買い物にも行けない。将来、どうなるかわからない。ほんとうは面倒を見てもらいたい」と。・・・おかあさんが「憎いのは会社だ」というわけですよ。たいへんな暮らしをしているのを見て、「この町には補償要求をさせない雰囲気があるんだ。水俣病は終わっていない」と、そのとき思ったんです。(206頁)

 宮澤は、水俣病研究会に加わって運動を支援するかたわら、NHKのアナウンサーとしての取材もつづけていた。1970年5月、補償処理委員会の斡旋案に抗議した運動の仲間が厚生労働省に突入して逮捕されたとき、宮澤は水俣で胎児性患者の母親たちの話を聞いて回っていた。逮捕のニュースをラジオで聞いた宮澤は、「これを限りに水俣の取材と放送は降りる。支援一本にする」と心に決める。

翌日の『おはよう日本』、当時は『スタジオ102』といっていましたけど、認定患者の浜元二徳さんと胎児性患者の上村智子ちゃんが熊本にスタジオへ来たんです。そう、おかあさんに抱かれて入浴するところをユージン・スミスが撮影した、あの智子ちゃんですよ。カメラの前に出てもらって、・・・補償処理委員会の座長に、「この子の命が、あんな安い金で償われるんですか」と問いかけたんです。・・・番組が終わってから、「この放送を最後に水俣の取材から降ろさせてもらいます」と言ったら、上司はホッとしたみたいでしたよ。(210-211頁)

 取材しながら支援をつづけることに葛藤はあったのかと問われて、宮澤はこう答えている。

「公正中立」とはどういうことか。「加害者側の力が圧倒的に強いから、被害者側にずっと立たなければ中立にならないぞ」と、原田先生が言うじゃない。それですよ。ぼくは「公正とか中立とか言っているけど、メディアは事態をどんどん悪くしているじゃないか」と思っていたのね。だから、「自分が行動するのはしょうがない。そうしながら、伝えるべきことは伝えるんだ」と、自分なりに結論を出して、やっていたんです。(211頁)

 「宮澤さんみたいに、転勤を拒否してまで水俣にこだわり続けた人は、珍しいんですよ。あの情熱、何だったんだろうね」という原田に、宮澤は言う。

やっぱり、先生といっしょですよ。ぼくは、水俣を見ちゃったんです。(212頁)

 石牟礼の「報道に携わるみなさんはものすごく忘れっぽい」という言葉への宮澤の応答は、いまも重く響く。

要するに、ひとりの人間がずっと追い続ける、ということがないんです。...事件そのものの経過なり、問題点を一貫して追い続けないと。これはやっぱり個人なのよ。属人的な問題なの。仮に組織として、NHKの熊本なり、水俣なりに水俣班があったとしても、構成員が替われば、結局、一貫できないということがありますね。...ぼくは、たったひとりでもいいと思うんです。そうすると、周りの人が聞いたり、学んだりする。(214頁)

 患者運動の先頭に立ち、ひとりで潜在患者を探し出して原田を各地に連れ回った川本輝夫の存在の大きさに触れながら、原田はこう述べている。

ぼくの経験では、歴史を動かすのは多数派じゃないんです。ほんとうに志のある何人かですね。(147頁)

 多言はいらない。この対話集は、世の中がどうやったらましな場所になるのか、ひとつの可能性を浮き彫りにしている。かならずしも大きな組織的な動きが社会を変えていくわけではない。それは日々のなかで、ひとりひとりが目のあたりにした状況にどう応答し、いかにその責任を引き受けるのかにかかっている。

 水俣に出会い、患者たちに出会ってしまった者たちが、自分の立場や職業を超えて集まり、人生を賭けて闘いに身を投じた。彼らは、最初から運動家だったわけでも、聖人君子だったわけでもない。ただ、出会ってしまった。その責任を、組織を離れたひとりの人間として、それぞれのかたちで背負いつづけた。その言葉を、虚空を見上げて、ただ噛みしめる。

0225_1.jpg『原田正純の遺言』朝日新聞西部本社編(岩波書店

松村 圭一郎

松村 圭一郎
(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。岡山大学准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを続け、富の所有や分配、貧困と開発援助、海外出稼ぎなどについて研究。著書に『所有と分配の人類学』(世界思想社)、『文化人類学 ブックガイドシリーズ基本の30冊』(人文書院)、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)がある。

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『うしろめたさの人類学』松村圭一郎(ミシマ社)

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