第12回
たちすくむ
2019.03.25更新
うちのこはテレビのさらしものじゃなか。何でことわりもなしにとったか、おまえらはそれでも人間か。わしらを慰みものにするとか。――あやまってすむとか。みんなしてわしらを苦しめる。写真にとられて、この子の体がすこしでもよくなったっか。寝た子ば起こして。(土本典昭『不敗のドキュメンタリー:水俣を撮りつづけて』岩波現代文庫、2019、28頁)
長年にわたり水俣と関わりつづけ、多くのドキュメンタリー作品を撮った映画監督、土本典昭のエッセー集より。水俣病が多発していた集落を撮影スタッフとともにはじめて訪ね、ワイドレンズで集落の全景を撮っていたとき、一軒の庭先にいた女性たちが騒ぎはじめた。手をついて詫びつづける土本に、激しく叱責する言葉が降りそそいだ。
土本は、このときのことをたびたび書いている。「いつもこの日の出来事につれもどされ、それを避けるわけにはいかないのだ」という。部外者が問題を抱える人たちと関わることの難しさと、そこに避けがたくつきまとう壁の大きさを突きつけるエピソードだ。土本は「全き挫折にひしがれ、首の根を折った」。別の文章には、次のようにつづる。
その後から、完全に私は思考力もことばもまともにでなくなってしまった。つまり壊れたのである。「水俣病をとる資格はない」という直感から、「映画をとる力はない。もうやめよ」という自分の声がとどめないのである。どこにカメラをむけることもできず、舟つき場の石垣の上に立ちつくした。(84-85頁)
当時、土本は30歳代半ばで、ドキュメンタリー映画作家としての野心もあった。それが「もう映画は撮れない」とまで追い込まれた。そんな土本を救ったのも、患者家族だった。のちに水俣病訴訟原告団の団長をつとめた渡辺栄蔵との出会いが、土本を水俣にひきとどめた。夕方、漁を終えて浜にいた渡辺に夕飯のおかずのアジを見せられ、「こんさしみはうまかよ」と家に誘われた。水俣ではじめて「心を結べる人」との出会いだった。
その後、土本は水俣でたくさんの映画を撮った。それでも「どのシーンを撮るときも、そのとき母親の放った肉声を内耳に聞かずにはおられない」と、最初の叱責の声が頭から離れなかった。1973年の熊本地裁判決の日、渡辺団長が水俣病を広く世間に知らしめた報道関係者に謝意を述べたとき、救われた気持ちになった。でも、すぐに「記録映画作家の原罪」を直視している。
それはいつも新たな映画をひっさげて患者の前に立つごとにミジンに打ち砕かれる。決して私は正義の味方でも、公害の告発者でもなく、彼らのプライバシーなるものを侵害する映像表現者として人びとの前に立ち現れているのだ。(23頁)
撮影を拒みつづけたある女性患者は、次のように語ったという。
わしの一生な本にでもかけば、こんな(一寸も二寸もの)本になるとばい。どこひらいても苦労の、苦しみのって言葉にはできんと。おんなじ水俣病患者といってもなあ、わしほどの苦労したものはおらんち思うなあ。(21-22頁)
土本は、その声に「それを映画で撮れようか」という問責の響きを聞きとる。
私の映画には撮った人たちの背後に、このようにして拒んだ人びとの層々たる存在があるのである。そして、私はこうした拒否の人を怖れ、撮れた人に親しむという人情のままにいま身を水俣にむけているものの、その拒否の人びとの命運に決して無関心ではいられないのである。こうした痛手とうずきつづける感覚ぬきに"水俣病事件"とむきあうことはむつかしい。(22頁)
「痛手」の経験と「うずき」の感覚。それを抱えながら、なおも撮り、関わりつづけること。「私にはそれしかできない」。土本は、こうつづる。その想いの原点には、水俣病を患って生まれた子どもたちとの出会いがあった。
水俣市立病院の一番奥の特別病棟で胎児性患者たちを目にしたときのことを、土本は「人は人をここまで犯すものか、天や神はあるのか、と私はこれを知らずに生きてこれたことを床をたたいて呪いたかった」と書く。しかし同時に、そんな彼を慰めたのも、その子どもたちだった。
私は水俣病がこのような非人間的な障害、全人的な病患であるとは予想もしておらず、それでいて、まごうかたなき人間の子供として、吾が子のように、人間のなつかしさ、やさしさ、ひとの愛を求めてやまない、"ひと"に会ったのであった。(26頁)
その経験は土本にとって「稀有の聖なる一回性」の出会いとなった。何度も「なぜあなたは水俣を撮るのですか?」と問われた。その答えは、前回紹介した原田正純医師やNHKアナウンサーの宮澤信雄の言葉とぴたりと重なる。
それに答えるのに「私は見たからだ」といい、あと言葉をつづけるのに迷う。それはその見たことの私にとっての重たさと意味を伝えるのにあがくからである。ときに不親切に、ときに思わせぶりにとられやしないかとあわてるのだが、実は見たという一言がやはり私にとって決定的であり、一回性のもつ不可逆的な出遭いであったことにつきるのである。しかも私は撮った――。(26-27頁)
「映画」を介して水俣病を考えつづけ、いくたびも水俣に立ち戻った。製作したフィルムをもって、天草・不知火の離島などへの上映行脚もつづけた。「なぜ観せにくっとか。寝た子を起こすとか。魚がうれんごとになる」と漁協や町の有力者から反発された。男の漁師のボイコットで女性と子どもだけの上映会になった場所もあった。それでも、映画を観た人のなかから患者申請をする動きも起きた。
土本にとって、その旅は「自らの暗さと気おくれの累積を、上映の旅の形で燃やしつくし、次なる映画の糧をたくわえるための自己改造の機会」だった。ときに映写機をとめて、映っている患者の出生や来歴を詳しく話すこともあった。すべてを曝けだすことに、土本はさらなる「原罪」を直視する。
こうして患者の全人的な領域に立ち入るとき、私は映画で犯すことから始まったプライバシーをさらに極限までつまびらかにしていく自分に気づく。会場にその親せき縁者がいる場合もあるのである。私はそこでただつき合いつづけるから許してほしいというほかはない。恐らくすべてを許されることは決してなく一生その関係をまるごと背負うことしかないであろう。だが映画で記録することをしごとと決めた私にはこれしかなく、喜びも辛さも渾然たるなかでころげてゆくしかほかはない。(34頁)
すべての表現者の胸に刺さる言葉だ。映画やドキュメンタリーには、どんな意味があるのか。土本は問いつづけた。「現実の認識をいささかでも補うものでありたい」と願いつつも、それが「現実変革の武器」になるとは思えない。なにごとであれ「直接体験」や「直接行動」によってしか知りえないのだから。水俣に関する一連の作品について土本は次のように書いている。
映画を見ただけで、現実に赴くことなしに、気のすむ、あるいは自足できる映画ではない。やはり肉眼と肉体で相むきあわなければ、その映画での認識は運動しないであろう。(36頁)
いまも間接的な「情報」が世の中にあふれる。その他者の姿への共感と反発、冷静な分析的言葉がネット上を席巻する。しかし「他者への共感」は、イメージのなかの作用にとどまっているかぎり、「他者への憎悪」と同じ地平に立っている。それは、行政官や学者が統計などの「エビデンス」にもとづいて分析的に全体をとらえようとする視点とも、変らない。どこまでも間接性の次元にすぎない。
感情的共感と合理的理解との対置は、もうひとつの次元の存在を覆い隠す。それらの彼岸にあるのは、「見る」ということ、叱責の声に曝され、立ちすくむこと。その直接性のなかで、みずからの無力さを背負い、自問しつづけること。だからたぶん、鍵となるのは「共感」ではなく、「うしろめたさ」でしかなかったのだ。
編集部からのお知らせ
『うしろめたさの人類学』が毎日出版文化賞特別賞を受賞しました!
2017年10月に刊行された松村圭一郎さんの『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)が第72回毎日出版文化賞特別賞を受賞しました。多くの方に読んでいただきたい一冊です。この機会にぜひ、お手にとってみてください。