小さき者たちの生活誌小さき者たちの生活誌

第13回

ねがい

2019.04.29更新

どうも、ありがとうございます。ほんとうにお気持ち、察するに余りあると思っています。やはり真実に生きるということができる社会を、みんなでつくっていきたいものだと、あらためて思いました。ほんとうにさまざまな思いをこめて、この年まで過ごしていらしたということに深く思いを致しています。今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています。みながその方向に向かって進んで行けることを願っています。

(高山文彦『ふたり 皇后美智子と石牟礼道子』講談社、2015、9頁)

 2013(平成25)年10月27日、天皇皇后は「全国豊かな海づくり大会」に出席するため、はじめて水俣を訪れた。天皇皇后として最初で最後の水俣訪問となった。冒頭の言葉は、水俣病資料館で患者たちと面会し、「語り部の会」の緒方正実会長が一家全滅にいたった惨劇について講話をしたあと、天皇の口から発せられた言葉。じっと緒方を見つめて述べられた、異例ともいえる長い「おことば」だった。

 その3ヵ月前、石牟礼道子は皇后と会っていた。不知火海総合学術調査団の一員でもあった鶴見和子を偲ぶ山百合忌が東京で開かれたときのことだ。石牟礼は、面会に先立ち、皇后に手紙を出した。考えあぐねて、水俣病闘争のさなかにつくった一句をしたためた。

祈るべき天とおもえど天の病む

 宮中の女官から、「天」とは陛下のことでございましょうか、との問い合せがあったほど、きわどい一句だ。山百合忌の席でのご様子から、石牟礼は皇后がその手紙を読んでおられるだろうと受けとめた。その席で、皇后は「こんど水俣に行きます」と石牟礼に告げた。

 熊本にもどった石牟礼は、もう一度、皇后に手紙を書いた。

水俣では、胎児性水俣病の人たちに、ぜひお会いください。この人たちは、もうすっかり大人になりまして、50歳をとっくに越えております。多少見かけは変わっておりますが、表情はまだ少年少女です。生まれながら、ひと口もものを言えぬ人たちです。歴史を語れる人たちは、とっくに死んでしまいました。いまでも発病する人が、あちこちにいらっしゃいます。ものを言えぬ人たちの心の声を察してあげてください。(30−31頁)

 そして、東日本大震災と福島第一原発の事故のあと、「絶滅と創成とが同時に来た」と直感してつくった次の一句を添えた。

毒死列島身悶えしつつ野辺の花

 水俣訪問を終えて帰路につく天皇皇后を石牟礼は見送りに行った。自分が願った胎児性患者と面会してくれたと知り、声をかけられないとは知りつつ、入院先のリハビリ病院を出て、熊本空港へと向かった。

 車椅子に乗った石牟礼は、空港ビルのはからいでロビーの入り口に数人の警官に守られ、両陛下から見やすい場所に待機した。天皇皇后を乗せた車が到着すると、石牟礼は「立ちたい」と介添えをする米満に伝えた。そのときの様子を米満は克明に語る。

入口からはいって来られた両陛下は、両側につめかけた人たちに手を振りながらゆっくりと歩いて来られる。そして、美智子さまが石牟礼さんに気づかれたんです。そのときの眼差しといったら・・・・・・、あれは視線じゃないです、眼差しですよね(と、ちらりと石牟礼さんをふり返って)。その眼差しがぴたりと石牟礼さんと合って、美智子さまの足が止まったんですね。そして、陛下になにか耳打ちをされた。聞こえていないのでこれは私の想像ですが、「石牟礼さんが来られてますよ」と、おっしゃったような感じで・・・・・・。陛下もこちらを、ふり向かれました。そして石牟礼さんに向かって、すっと頭を下げられたんです。「皇后から聞いてますよ」というふうに。ほんの数秒間、お二人とも足を止めて、美智子さまは石牟礼さんの目をじっと見つめて、その数秒間に、お二人のあいだでは会話ができていたと思うんです。そしてエレベーターで上って行かれました。(48頁)

 若い侍従が来て「皇后さまからのご伝言がございます。誰もいないところに移動してください」と伝えた。そして石牟礼に耳打ちするように、こう告げた。「お見送りに来てくださって、ありがとう。そして、これからも体に気をつけてお過ごしください」と。

 緒方の講話の直前、極秘裏に胎児性患者2人と面会したとき、皇后は「石牟礼さんにくれぐれもお体を大事になさいますようお伝えください」と言付けていた。まさか見送りに来るとは思わず、空港で石牟礼の姿を見つけたときは、とても驚いた様子だったという。

 2014年1月の歌会始の儀では、天皇は次のような御製を詠んだ。

慰霊碑の先に広がる水俣の海青くして静かなりけり

 ほかにも水俣訪問から年末までに次の二首の御製が詠まれていた。

あまたなる人の患ひのもととなりし海にむかひて魚放ちけり

患ひの元知れずして病みをりし人らの苦しみいかばかりなりし

 三首も同じ地域について詠まれるのは異例だという。歌会始の儀の1週間後には、天皇皇后が稚魚を放流したエコパーク水俣に三首の御製の歌碑が建てられた。

 すべては紹介できないが、高山が関係者に取材を重ねてあきらかになった、天皇皇后水俣訪問の知られざるドラマに、胸を打たれる。政治的な発言や自由な心情の吐露を禁じられるなかで、おふたりがいかに周囲の「配慮」や「抑制」をかいくぐり、裏をかき、「闘って」きたのかがわかる。

 天皇家と水俣には、少なからぬ因縁があった。石牟礼の自伝的小説『椿の海の記』には、1931(昭和6)年、昭和天皇が近代産業を牽引する日本窒素水俣工場を激励するために訪問したときのエピソードが紹介されている。「行幸のあいだ、不敬この上ないので、浮浪者、挙動不審者、精神異常者は、ひとりもあまさず、恋路島に隔離」という措置が命じられた。

 石牟礼の祖母は精神を病んでいた。「陛下さまの赤子」をもって任じていた父亀太郎は、家族でとりしきることくらい心得ていたのに心外だ、連れていくなら、この場で母を刺し殺したうえで切腹すると、警官のサーベルを抜き取ろうとした。昭和天皇は、終戦後の1949(昭和24)年にも水俣工場を訪れている。

 『苦海浄土』にも、印象的なシーンが出てくる。1968(昭和43)年、天草出身の厚生大臣、園田直が水俣の患者施設を見舞いに訪れたときのことだ。劇症型患者のひとりが全身を痙攣させながら「て、ん、のう、へい、か、ばんざい!」と叫び、調子のはずれた声で君が代を歌い出した。圧倒された園田は声もかけられず、足早に去った。

 チッソとの直接交渉にあたった川本輝夫は、平成がはじまってすぐ、1990(平成2)年に天皇皇后に請願書をしたためていた。つねに六法全書を持ち歩き、ぼろぼろになるまで熟読していた川本は、請願法のなかに天皇への請願書についての規定があることを見つける。

 請願書には「政府に対し、人道上、人権上の問題としてご提言していただくこと」、「天皇の御名代として、皇太子か秋篠宮、常陸宮に水俣にお出でいただくこと」が書かれていた。結局、周囲の反対で提出はかなわなかった。川本が亡くなって半年後の1999年9月、秋篠宮夫妻の水俣訪問が実現した。そして、川本の強い思いは、天皇との面会で声をかけられた息子の愛一郎、川本とともに患者認定を求める裁判を闘い、目の前で講話をすることになった緒方正実にも引き継がれた。

 愛一郎は、川本輝夫がよく酒を飲みながらつぶやいていた言葉を紹介している。

「水俣にも、水戸黄門とか月光仮面とかおらんかね。バーッと走ってきて、バッと裁断をしてもらえんもんかな」と。そういう意味では、日本でいちばんの権威、存在として、天皇を求める気持ちはつよくもっておったんです。石牟礼さんもよく言ってるんですが、私たち患者や家族のなかで、やっぱり御上(おかみ)ちゅうのは、ものすごい存在なんですよ。御上が来てくれるだけで問題は解決すると、ずっと思っていたんです。(110−111頁)

 いっこうに救済に動かず、どうやってもその悲痛な叫びの声を受けとめてもらえなかった企業や行政に募る不信と絶望感。そのなかで「御上」に一縷の希望を見いだそうとする庶民の心情がよくあらわれている。

 これから皇后になる雅子妃の祖父、江頭豊は、水俣病の原因がメチル水銀だと指摘する論文が出た1964年にチッソの社長になった。その後の約10年間、チッソは原因が未確定という姿勢をとりつづけて具体的な対策をとらず、国も規制をかけなかったため、もっとも水俣病が拡大した。

 1970(昭和45)年、大阪でのチッソの株主総会で、一株株主となった患者と支援者たちは、江頭社長を取り囲んで悲痛な思いをぶつけた。「原因がまだ当社に帰因するとわからないので・・・」と逃げ腰の江頭社長に、その声は届かない。高山は、そのときの川本の姿をつづった石牟礼の描写を引用している。

未認定患者の川本輝夫さんが泣きじゃくりながら、隣の若者にいった。「何とかして(社長に)わからせる方法はなかもんじゃろうか、わからんとじゃろうか」。まるで頑是ない子の、途方にくれたような表情と低い泣き声だった。(106頁)

 明日、天皇が退位する。元号も変わる。同じように1日がただ過ぎていくだけなのに、ぼくらはそこに大きな時代の断絶を感じとる。でも、おそらく何ひとつ解決はしていない。世界の片隅でひっそりと引き継がれる小さき者たちの願いに、あらためて思いを馳せる。

松村 圭一郎

松村 圭一郎
(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。岡山大学准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを続け、富の所有や分配、貧困と開発援助、海外出稼ぎなどについて研究。著書に『所有と分配の人類学』(世界思想社)、『文化人類学 ブックガイドシリーズ基本の30冊』(人文書院)、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)がある。

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