第14回
たりない
2019.06.02更新
社長、わからんじゃろ、俺が泣くのが。わからんじゃろ。親父はな、(病院の保護室に)一人で居った。おりゃ一人で行って朝昼晩、メシ食わせとった。買うて食う米もなかった。背広でも何でも自分の持ってるもん質へ入れた。そんな暮らしがわかるか、お前たちに。あした食う米のないことは何べんもあった。寝る布団もなかったよ、俺は。敷き布団もなくて寒さにこごえて毎晩こごえて寝とったぞ。そげな苦しみがわかるか。家も追い出されかけたぞ。そげな生活がわかるか、お前たちにゃ。(久保田好生ほか編『川本輝夫 水俣病誌』世織書房、2006、10頁)
水俣病の闘争運動のなかで、川本輝夫はひときわ大きな存在感を放っている。2度にわたって申請を却下され、やっと患者認定をえた1971(昭和46)年、川本は他の患者家族とともにチッソに補償を求める直接交渉にのぞんだ。川本ら患者や支援者たちは丸の内のチッソ東京本社ビルに乗り込み、その後1年8ヵ月におよぶ座り込みがはじまる。
冒頭の言葉は、社長や役員たちとの10数時間にわたる交渉のあと、島田社長が担架で運び出される直前に川本が放った言葉だ。石牟礼道子の『苦海浄土』第3部にも、印象的なシーンとして登場する。川本の裁判での供述書や手記、講演録などを集成した本書の付録に、石牟礼は次のように書いている。
数ある交渉の中で、この人が自分の家族のことを言ったことはない。川本さんの眼からこぼれる涙が、島田社長の顔にふりかかるのを、同室した者たちは声をのんで見守った。社長は凝然とした表情で眼をしばたたいていた。その胸中に去来していた想いの一端をあとで知るのだが、のちのちこの人は自分の家族に「川本さんという人は立派な人だ。けして呼び捨てにしてはならない」と申しわたしたという。(同書付録「テルオさんのこと」4頁)
川本輝夫は、1931(昭和6)年、水俣市月浦に8番目の子として生まれた。父親が大正末期に職を求めて天草最南端の牛深から水俣に移り住んだ。古びた農作小屋を小舟に積んできて、住まいにした。輝夫は幼いときから体が弱かった。リンゴ汁を飲ませたらいいと聞いた両親が、必死の想いでリンゴを買い求めて育てた。
隣の漁村の湯堂には親戚にあたる網元があった。幼い輝夫は、地引網が上がると湯堂に駆けつけた。子どもたちが差し出す竹カゴにカタクチイワシを一升枡で入れてくれた。一目散に家に帰って、夕食のおかずにした。
日本窒素肥料の工場で働いていた父親も、仕事を終えると、歩いてすぐの水俣湾に釣りに出かけ、1時間もあればタコやキス、ベラなどの小魚をたっぷり釣ってきた。季節ごとに家族総出で潮干狩りをしては、貝や牡蛎、ビナ(巻貝)、ウニなどを竹ザルに山盛りにして茹であげて食べた。貧しいながらも、母が身を粉にして働いた小作地の作物と、父がとってくる海の幸とで食卓は賑やかだった。
沿岸に近い農山村は、農閑期と潮時(最も干潟が広く遠くなる時)をみて、家族そろって、鋤をかつぎ、手には牡蛎打ち(熊手の一種)を面々がもって、浜まで駆け下るのでした。そしてビナ(巻貝)、牡蛎、貝など、季節によってはタコ、ナマコなど手掴みにして採ったものを手籠一杯、あるいは籠を背負い、担って帰ったものです。夏ともなれば、子供達は思い思いの海岸で水しぶきをあげながら、泳ぎを覚えていったものです。(252頁)
成績優秀で「軍国少年」でもあった輝夫は、陸軍幼年学校を志す。しかし母親に泣いて止められた。「軍隊なんて人間が行くところではない」。読み書きができなかった母はそう言った。1940(昭和15)年に水俣で陸軍の大演習があった。そのときも小遣い銭がないという理由で行かせてもらえなかった。戦争末期、米も麦も手に入らなくなり、母と二人で石臼を挽き、代用食のはったい粉をつくっていたとき、母がぽつりと漏らした。「この戦争は負ける・・・」。川本は母に猛然と食ってかかった。母はただじっと輝夫の顔を見つめたまま涙を浮かべた。
そんな母親も、1948(昭和23)年、53歳の若さでこの世を去った。最後は寝たきりとなり、父親が必死に看病をした。医師に払う金がなく、祈祷師にお祓いをして呪文を唱えてもらうしかなかった。母親の死後、たった一人の妹も農家の子守奉公に出た。輝夫も、高校を中退した。父は日窒を退職したあと、一本釣り漁に励んだ。そのころ道を挟んだ向いの家族の父と子ども2人が相次いで「狂い死に」した。
その父が狂乱し子供が餓鬼のようにやせ衰え、犬の遠吠えのような声で泣き叫ぶ時には、恐しくもあり哀れでもあり正視に耐えなかった。その家庭は、太平洋戦争の戦況の悪化と共に、それまでの菓子商売ができず、また当時の食糧事情も加わり、その父が毎日の如く他人の小舟を借りたり、そして海岸を歩いてホコで魚やタコ等を突いて来ては生活の足しにしていた。今にして思えば、私の村での奇病水俣病のはしりであった。(27頁)
水俣工場の横を通りかかると、真っ赤な色や乳白色、黒色の汚水が排水溝を流れていた。干潮には、沖合にかけて白いヘドロが姿をあらわした。排水溝のある水門に舟をつなぐと舟底に虫がつかず、カキ殻やフジツボがつかないというので、運搬船や小舟などがよく係留されていた。
高校を退学したあとも、川本は学校に復学することばかりを夢見ていた。就職難で土方の仕事くらいしかなかった。トンネル掘り、炭坑、日雇いなどの仕事を転々とした。妹が百姓奉公に出たあと、父との2人暮らしが7〜8年つづいた。
1957(昭和32)年の正月、妹が同じ福岡の奉公先から妻になるミヤ子を連れて帰ってきた。そのころ、すでに川本は手足がしびれ、足や舌がこわばっていた。ミヤ子は新婚旅行もなく、結婚後すぐ製材所で働きはじめた。川本は、勤めていた水俣工場の下請けの仕事をしていたが、結婚した年の秋には仕事がなくなり失業した。翌年3月に長男が生まれた。
1週間に1度の失業保険金600〜700円では何も買えず、「明日食う米がない」という生活だった。出産のための里帰りもできなかった。妻は産後すぐに製材所に戻り、川本は日雇い仕事をした。父親が幼子を背負い、妻の製材所に授乳させに通った。
そして「奇病」が多発するようになった。漁師たちは自主的に操業を停止したが、危ないとわかっていても生活の足しにするため漁に出る者もいた。川本の父もそうだった。しかし、長くはつづかなかった。足がシビれ、まもなく病床に伏した。医師に診せる金はなかった。
1959(昭和34)年の暮れには妻が二度目の妊娠をした。しかし翌年、胞状奇胎で流産する。後になってわかったことだが、そのころ近隣の集落で流産や異常分娩、乳幼児の早死の例が相次いでいた。
水俣病で死亡した者の家族や水俣病と診断された者への見舞金が払われることになり、水俣では患者家族への羨望と中傷・偏見が渦巻くようになった。水俣病だとは名乗れない雰囲気だった。
やがて父の病状が悪化し、妻も仕事を辞めざるを得なくなった。父は水俣病に間違いない。川本はそう思って、兄たちに援助をもらい、父を水俣市立病院に入院させた。医師は水俣病だとは診断しなかった。結局、入院費がかさみ、年末には退院を余儀なくされた。妻と交替での看病生活がはじまった。
下半身不随で下の世話もされることを苦にしてか、父が梁に紐をかけて自殺未遂したこともあった。川本は一時的にチッソの水俣工場で働くなどしていたが、それも失業し、開業間もない精神病院で雑役・看護人見習いで働きはじめた。やがて看護学院に通いながら夜勤で働くようになった。生活保護も受けた。
1965(昭和40)年、病状が悪化した父を勤め先の精神病院に入院させた。勤務しながら看護できると思ったからだ。しかし、2ヵ月あまりで父は川本ひとりに看取られて板張りの保護室で亡くなった。妻は水俣市立病院の雑役婦としてパートに出るようになった。生活は苦しいままだった。
家は白蟻に喰い荒らされ、梁が一尺位下がり、そのまま住むのが危なかった。タル木を一本ようやく買い求め下からその梁を突っかい、ようよう急場をしのいだ。雨が降れば、座る所もないほどに雨漏りした。ある時村の民生委員が訪ねて来たが、梁が柱からはずれてずり下がっているのを見て驚き、後ずさりされたこともあった。(40-41頁)
小さき者たちの営みを書物で読み、その声に耳を傾け、できるかぎり心を寄せながら想像してみる。でも、足りない。まったく足りない。「わかる」にたどりつくために、何をどうすればいいのか、それすらわからない。「そげな生活がわかるか、お前たちにゃ」。それは私に向けられた言葉でもある。
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