第13回
灯を点けたり消したりできる
2019.05.30更新
僕はいま、あることで悩んでいます。
近所にある公民館のこと。この木造の建築物、約70年前に芝居好きな住民自らの手によって、自分たちが舞台に上がるための「芝居小屋」として建てられました。と同時に、結婚式やら葬儀やら会議やら、住民が何かと集まるときの場として利用されてきた場所です。芝居小屋なので2階に桟敷席もあるこの謎でゆかいな建物は、地域住民全員の持ち物です。
ですが、この1年ほどの期間を経てついにこんな決定を下しました。僕を含む130人ほどの住民の意志で「壊して新しいものにしましょう」と。そして今、僕はふたつの考えの中に引き裂かれています。この建物を残す未来と残さない未来の間で。
そもそも、ここに至る経緯としてこんな事情がありました。
今使っている建物は、
① 老朽化している
② 修繕するのにかなりのお金がかかる
③ 海抜が高くないので、津波が来たときに避難場所にならない
なので、
④ 住民がまだ健在のうちに、なんとかしよう
⑤ 申請次第で解体・新築に補助金が出る
⑥ もう少し高台の場所に、少し小さめで新しいものを建てれば、これからも避難場所として活用できる。
⑦ 2年後をめどに新築、および解体をしよう
そういう流れがあります。最初の話合いがあったのは昨年夏。僕はその1回目の日がちょうど出張か何かだったために欠席をしてしまいました。
さて、いち住民である僕の気持ちはというと、とても複雑なものがあります。①②③については本当にそのとおり。そして④、これは僕が引っ越してきた6年前には150人を超える集落だったにも関わらず現在130人に減っていることで十分すぎる説得力を持っている。10代までの子どもがいる家庭はうちを含むわずか2つだけ(最近1家族増えた!)
集めるお金や維持管理について、これからも人が減り続けるであろうことを想像すれば、思い立ったときに決断をしないといけない。そして⑤⑥についてもなるほど、納得ができます。
スムーズに理解しながら最後に⑦。僕はここにきて急に立ち止まってしまうのです。
「壊したくない・・・」
どうして? と自分でも思うのですが、まず先にくるのは「直感で」という答え。それは例えるなら「今まで点いていた灯をスッと消しちゃってもいいのか?」というような、何ともぼんやりした勘です。
その思いだけでは何ごとも起こらないのもわかっています。
「それでお前はどうしたいの?」という問いも聴こえてきます。
繰り返しますが、いち住民としては新築・解体案はどうみても合理的に思えて納得してしまう。古いものを残したところで住民としてはどんなメリットがあるのか。むしろなさそうだし責任もって畳むのが務めじゃないか。でも、今あるものを壊したいかといえば、直感は「ノー」。
建物に宿った「温度」が背中を押してくるかのようです。
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僕の娘は現在小学5年生です。中学生になったときに通うのは、これから統合することが決まっている中学校。その第1期生となる予定です。スクールバスで10分くらいのところにある現在の中学校が無くなり、もう少し先、おそらく30分くらいかかる学校へのバス通学となります。
この距離のこともあるのですが、そもそも「学校が消える」ことは何を意味するのか、ということが気になっています。
ある時、島で生まれ育った人に統廃合に対してどう思うかを訊いてみました。
「人数が少ないっていうのは、さみしいもんよ」
「例えば、チームスポーツが『成立しない』っていうのは、かなり切実なことなんよ」
このとき返す言葉がありませんでした。僕が生まれ育ったようなクラスがいくつかある学校とは違っているわけで、人数が多い環境下では当たり前にできていたことができない。その切なさに対して僕は想像力をフル動員すべきだと思いました。そして簡単に答えを出すことはできないんだな、とも。
学校が消えるということは、今まで通りの意味での「近くでの教育機関が無くなる」ということで、そのことは同時に、これから子育てする家庭に対して「住む場所を考えさせてしまう」ことも意味しています。「近くに学校がない」「ここに住んでもやって行けるかな?」というような。
先ほども書いたように、今住んでいる集落で子育て中なのは2家族。昨日役場に訊いてみたら、この地域の全住民約130人中65歳以上の方の人数は101人。高齢化率という数字でみれば約78%。今後、どうやって「水路にゴミが詰まらないように」したり「農地を農地として維持」していこうか。
先日、焦ったことがありました。地域の河川清掃のとき、僕は例年のように軽トラで土砂を運ぶ係で、昨年までと一つ違っていたのが「助手席に人がいなかった」こと。積み荷を一人で降ろすのがちょっと大変で、人が減っているリアルさを感じました。
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何にせよ、「新しいもの」は人に快感をもたらすものなのかもしれません。
東京でのあの「築地市場」の話。僕も東京に住んでいたころ、築地に朝早く出かけては友人と朝ごはんを食べるひと時があったりして、それはささやかなご褒美に感じていました。そしてご存知のように、数年前に築地にあった魚市場が豊洲に移転、新築。その後のことについて、正直あまりいい話を見聞きすることがありません。
もちろん部外者なのでインスタントに判断できるものではないとは思うのですが、「古かったものを新しく作り変える」ことに向かって、例え消極的にでも進んでしまう背後には、そこに舞い込んでくるたくさんの「お金」の効果に加え、そもそも本能的ともいえる「新しいものへの欲求と快感」があるように思えます。
逆にいうと「古いものを修繕しながら維持する」たぐいの営みには、その快感が無いようにも見えるからです。
でも、果たしてその本能的な「快感」にこれからも従い続けてもいいものなのでしょうか。いずれにせよ、もう築地はありません。
これから来る東京のオリンピックの会場も、結局直して使わずに新築。余談ですが、壊された周防大島の橋も、実はオリンピックに関連して「ボルト不足」につき遅れている。通行には支障がないながらも、未だに完治していない。そんな話もあります。
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現在、わが家は近所で使われなくなっていた旧・保育園を買い取って、そこを住まいにするためのリフォームの最中です。もともとこの保育園は公営で、取得前に「今後どうする予定か」を町に問い合わせたところ「解体の予算がつくのを待って順次解体する」という説明がありました。近くには小学校の廃校もあるのですが、そこも全く同じ状況。解体の時期はいつとは決まっていないようでした。
保育園を取得したあと、建物の中には閉園したときのあらゆるものがそのまま残っていてちょっとガックリきました。「どういう未来を想像をしていたんだろう」と。(その荷物は自分たちで片づけました)
そういいながら一方で、僕は矛盾したことも考えています。小さなお寺(お堂)を建立する計画をしているからです。必要があってその計画を立てているのですが、今日び、お寺が余っていくともいわれている状況で新規で建立する、「新築」する理由があるのかと言えば「うーん」とうなってしまう。
本当のところ、僕は「近くに無住のお寺があればそれを」と思っていながら、今のところそういうことに縁がないので、答えが出るのを待っている状況です。
とにかく、新しいものと古いものが僕の中でずっとぶつかっていて、悩み続けています。
最後に。最近、僕の家のポストにこんなものが入っていました。「盆踊詩集」(和佐盆踊保存会)です。
これは地域の自治会長から数年前に「中村くん、盆踊りの歌を覚えないかね?」と声をかけられ、年月を経てまた今「勉強会をやろう」と投函されていたテキストなのでした。
年季の入ったこの冊子には見慣れない歌詞と指示が書かれています。独特のテンポを持つこの地の盆踊りの歌は、現在は会場でCD-Rにて再生されています。
今のところ生徒は僕しかいないながらも、ここにきて「覚えている人がいる間に継承しよう」という流れがあらためて地域で起こったということです。
ここには「新しいもの」をこしらえるときの快感はないかもしれない。けれども、古いものは無くしてしまったらもう戻らない。「諸行無常の響き」に耳を傾ければそれは仕方のないことともいえるけど、「無くなってしまった未来」よりも「火が灯され続けている未来」の方が、例えばそこに人の気持ちや人の動きが起こる可能性が残される。そしてそれが豊かなことだとも思うのです。僕にとってのかつての築地のように。
僕はだから、冒頭の公民館を残したいとも思っているのです。もう手遅れかもしれないし、無常だからしょうがないし、でも打てる手は打ちたいし、と揺れ動きながら。