ダンス・イン・ザ・ファームダンス・イン・ザ・ファーム

第21回

悩んでいる日記 -2020年4月・5月の記録-

2020.05.14更新

「つりにいかないと、つかれがとれない」
「だからつりにいこうや」

 誰の影響か、こういう言い方を覚えた4歳の息子の情熱に負けて、毎日のように釣りに行くはめに。この春小学校6年生になった姉も再び休校になったので弟と同行したり、友だちと行ったり。2人ともさばくのを練習するようになりました。大島弁でいうところの「しごする」っていうやつでしょうか。娘はそのあと魚臭い手でピアノの練習をしていました。

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 3月はまるまる休校になったので、卒業生と、定年退職する先生が心の準備も整わないままに学校からお別れになってしまいました。ある先生は3月中ずっと泣きっぱなし。
 保護者の有志で「これではあまりにさびしすぎる」ということでサプライズムービーを作ろうとなり、僕が編集を担当することに。そのために、ローンでパソコンを買いました。小規模の学校なのもあり、保護者の皆さんの協力がたくさん。かなり真剣に作りました。

 それが幸いして、今、そのパソコンを使って森田真生さんによるオンラインゼミなどを受講できるようになりました。これが楽しいです。
 子どもたちが家にいながら、自分も仕事をしながら、移動せずとも生の声が聴こえる。僕が学んでいる様子を、ちらちら子どもたちが覗きにくる。そういう姿も見れるし、終わったら庭に出て行って、草を抜いたり焚火をしたりできる。今までとはまた違った豊かさを堪能できています。

***

 4月初旬、「周防大島を取材したくて」と山口県内のテレビ局から出演依頼の連絡がありました。桜の見どころ案内人の一人として、とのことだったのですが、この時点で周防大島は、コロナ禍においてなんともいえない時期に来ていました。島の経済は島外からのお客さんが大きな支えになっている一方で、「よそ(島外)から人が来てほしくない(ウイルスを持ち込まないでほしい)」という複雑な心境。そして、その時点で島外からは人が割にたくさん来ていました。車の量が多く、県外ナンバーなどが目立つという話があちこちで。

 僕も島の「道の駅」の食堂に友人のお米を納品する仕事をしているのですが、実際その減りの速さに戸惑っていました。さすがにお客さんもあまり来ていないだろうと油断していたら「もう無くなるから早く持ってきて」と連絡が来たりして。慌てました。

 のちにこんな記事が掲載されていました。

山口県の島にコロナ疎開、島民困惑 キャンプ場客急増/道の駅に他県ナンバー(中国新聞2020年4月21日)

 4月初旬の桜の取材は、テレビに出るだけで暗に「島に来てください」というメッセージを出してしまう可能性もある。島の友人知人たちやディレクターさんにどうするべきかアドバイスをもらって「今はテレビの映像だけで楽しんで」という感じで出ました(自信のなさで自分は声が小さかった気がします)。

 そのロケ、車でドライブしながら楽しめる桜並木を案内したのですが、それはもうすごくいい天気で、素敵な絵が撮れて。
 並木の由緒も調べようと、途中の集落で聞き込み。島を巡る移動販売車がくる場所に人が集まっていて、そこで話を訊くことができました。
 事前の調査では「〇〇の記念で植えた」など数種類の説があったのですが、どうもその全てが正解だった模様。つまり、何回かに分けて植えられていた。

「わしゃ、小学生のときに1人3本まで渡されて、植えよったぞ」
「んなことあるか!」

 丁々発止のやりとり。すると近くにいたおばあちゃんが僕に話しかけてきました。

「あんたは何しよるね」

「僕はテレビ局の人間ではなくて、和佐の人間です」

「わさね!? わさっていったら、〇〇って知っちょる?」

「〇〇さんですか? はい、よく知っています。畑をお借りしています」

「んんん? あーー、あれかい。あんたかい。ああ、聞いたことあるよ」

「あ、はい、とてもお世話になっております」

「あんたね。顔を、よく覚えちょこう」

 なんと、この方はお借りしている畑の持ち主のお母さまでした。ちょっと離れた地域なのですが、まさかここでそのお話になるとは。
 実は畑のことで僕は一度たいへん怒られたことがあったのです。管理が行き届かずだったからです。驚愕すべきこの出会い方。いや、ほんとにお恥ずかしい。背筋が伸びました。

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***

 新聞記事によれば、このあとも観光客の流れはしばらく止まらなかったということになります。そしてその懸念はGWに向いていました。8月のお盆に次ぐかき入れ時であり、その時期に大量の人が来ることに対して、人々の不安も増えていきました。
 本来は「来てください」と招いてきたわけなので、このギャップはすごいことです。

 観光客だけでなく、家族の誰かが帰省してくるかだけでも同様です。休校なので、学生で帰ってくる人もいるでしょう。家族同士、親戚同士でも「帰ってくるな」のけん制合戦。うちでもありました。また釣り客がずっと減らないので、立ち入り禁止の場所も出ました。

 僕自身は煮え切らない態度と考えで過ごしていました。地域の特性、つまり高齢者の割合、病床数、感染者数などいろいろ情報をとっては考えて、なるべく地域で悲しい思いをしない判断をできればと思う一方で、「人が移動する」のを禁じるという権利は自分にはないなあ、とか。どうしたらいいんだろう。その間で、都度都度考えるしかないと思っていました。

 つい最近(5月中旬時点)で、東京の友人とやりとりしたときに、島との状況の違いを、初めてといっていいほど認識しました。
 「感染者が出た」みたいな噂は島内でたまに出回っているので、一応、数字上の話ではあるのですが・・・。

 今のところ島内で「感染者0」という状況が、逆に「感染者1以上」になることわかりやすい違いを表している。例えば東京の友人たちには、身近に感染者が出ているのでもう誰が感染していてもおかしくないと聞いたのですが、島では「感染者が入ってきてほしくない」という、異なる状況におかれているのです。

***

 1年半前の周防大島の橋の事故を経て、まわりの人たちと話して見えたひとつの道すじは「国や行政に頼らない」で「自分たちの身は、自分たちで守る」という方向。

 今もそう思うと同時に、今回のことは世界中でも起こっていることです。だから国ごと、県や市町村、はたまた集落の自治会単位で、それぞれの違いがわかりやすいほど出ています。それらは何によって違うのか。人なのか。
 ともすれば、頼れる自治体も出現している様子です。

 10年来の友人で、周防大島にも遊びに来てくれたドイツのセバスチャン君は、先日故郷から「元気?」とメールをくれました。僕は「ドイツの首相はアーティストへのメッセージすごいね」と返事したら、「そう、メルケルは世界にいいメッセージ」と返信。住んでいるところには被害がないようで、安心の様子。どこか誇らしい感じも窺えて、この違いに「あああ」となりました。

 時を同じくして、今度は島の友人エイブくんからは「4日、熱が下がらない」とメール。彼はアメリカ人。実は、その頃僕の息子も熱を出しており、一緒にいた時期が重なっていたのもあり、もしや? と。
 彼はお母さんが医師というのもあり、またアメリカの情報を毎日入手していて、危機感のなかった時期からとても切迫している現況まで、つぶさに知っていました。
 この高齢者が多い島のこと、もしものことがあってはいけないからPCR検査を受けたい、と。僕は町のホームページの案内を見て、管轄の保健所に電話をしました。

 電話でわかったのは、この手順。
 「最寄りの医師の診断を受け」「罹患の疑いが濃厚と判断された場合」「保健所に連絡がいく」ということで、まずは最寄りの医師に電話し、診断を受けて、と。「今のところ周りの地域でも感染者が出ていないので」、とも。

 保健所の方の丁寧な応対に助かりましたが、友人はひどくなったアメリカの情報を知っている。ウイルスの特性上、2週間後に起こることに備えないといけない。英語では日本は政治判断がひどいという記事も出回っています。

 ここにいら立ちを感じました。いろいろ信用できない、という。たしかにそう。だって今、防がなかったらアメリカみたいになってしまうかもしれないし、かといって僕たちは今どういう状況にいるのかがわかりにくいのだから。

 本来ここにあってほしいものがなくて、それがしんどいのかも、と思いました。
 ないのは「内容のあるメッセージ」「誠実な情報」。今後の見通しや、この地域での現状の説明。これが欠けている。だから、危機意識がずれる。

 それらがないと、例えば「休校する? しない?」ということを一人一人が想像することしかできず、「店を閉めるべきか開けても大丈夫か」「仕事へ行っていいか悪いか」、住民同士で「どうなんだろう?」探り合いになってしまって。「店を閉めるべき」と周囲の人に言われる事態も。
 これらの行動の度合いなど、一人一人に関係してきます。それはひいては、実際の被害の大小に直結する可能性も。

 ここは、誰が担うといいのでしょう。

 国や県や町が強制力を行使しないのは、それはそれでよかったことかもしれない。それと同時に、「私に権限がないので、上の判断待ちです」というループになっていて、上はどこなの? と行き先がない。

 本当は各所で、

「今、私はここを持ち場としていて、こう考えています」

という言葉があればいいのに。親子5世代、みんな初めての経験なのだから「正解」に極端に怯えることもないと思うんです。

 また情報は「開示されている」だけでなく、本当は「人に届く」ことが重要かと。ただ「ある」だけでなく「受け取られて」こそのメッセージや情報。そこも忘れられがちに思えます。

***

 僕はこの文章を、事情があって島外のある施設で一人宿直のアルバイトをしながら書いています。この仕事はさて、不要不急かそうではないのか。。そもそも「仕事をする」とはいったいどういうことなのか。
 ちょっと前に、自分が「咳が出る」と気づいた途端、悩みまくりました。熱はない、ただその仕事に行くべきか、これは言うべきか言わないべきか。

 畑仕事に関しては、やることは大体変わらないので、毎年と同じことが始まっていて自分もまわりの友人も、どっしり構えています。気温上昇の影響はきっとあるにせよ・・・。

 それでも、こと「農業」を考えれば、先述のかき入れ時の「道の駅のクローズ」などが起こると売る場所がなくなって手元に残ってしまう。休校すれば、給食の行先がなくなる。都市部で人が疲れていけば、これから田舎の品々も売れないかもしれない。どれも関わりあっています。

 他方、この間にも何人かから「畑があるんだけど使いませんか?」と連絡があり、農機具や土木道具を譲り受けました。これはウイルス関係なく、以前からあったことがそのまま続いています。

 「仕事をするってなんだろう」「学校って」「病気と不安」とたどっていけば「生きるって何」と行きつく。そこは自ずと、いろいろな判断をするときの足場になると思うのですが。
 でも今、そんな余裕もない、ともいえます。どうしたらいいんだろう。

***

 周防大島町・和佐出身の作詞家、星野哲郎の(「365歩のマーチ」「男はつらいよ」など)の作詞家への転機となったエピソードがあります。
 船の学校を経て念願の船乗りになり、漁船で洋上へ出たのもつかの間、腎臓結核を患い帰郷して4年間療養。最近近所の人に聞いてわかったのは、僕が今住んでいる元・保育園で、当時宿直の仕事をしながら療養していたことです。お母さんが園長先生だったから。その間に子どもの塾をしながら作詞を学び始めて、近所の子供が募集のページを教えて投稿し、採用されたのがデビューのきっかけなんだそうです(佐藤健「演歌 艶歌 援歌 わたしの生き方 星野哲郎」)。

 同じく周防大島下田出身の民俗学者、宮本常一の家は祖父の代で感染症の罹患により集落で没落。のちに、父が養蚕の技術を学び、郷里に広め貢献したとのこと。
 宮本自身も、幼い頃から病弱で、23歳のときに小学校教師を勤めながら結核にかかり、その後1年間、周防大島で療養している際に郷里の昔話を集めて雑誌に送ったところ、柳田國男から返事がきたのが民俗学への一歩となったそう(佐野眞一「旅する巨人」)。

 今、学校が休みになった子どもたちが毎日家にいて、仕事の手もかなりの頻度で止まる日々。それを尻目に謎の生き物を持って帰ってきて飼い始めたり。魚を3枚におろすのも、焚火して飯盒炊爨も、僕は子どもと同時に覚えています。
 リモート講座、配信ライブ、オンライン飲み会。これまで物理的に会えなかった人ともあえて、中には初めて会うことも。

 今は、誰かの転機になるかもしれない、僕たちの療養生活とも言えそうです。だとしたら―――。

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中村 明珍

中村 明珍
(なかむら・みょうちん)

1978年東京生まれ。2013年までロックバンド銀杏BOYZの元ギタリスト・チン中村として活動。2013年3月末に山口県・周防大島に移住後、「中村農園」で農業に取り組みながら、僧侶として暮らす。また、農産物の販売とライブイベントなどの企画を行う「寄り道バザール」を夫婦で運営中。

YORIMICHI BAZAR

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