一泊なのにこの荷物!

第12回

ひとり暮らし

2021.03.01更新

 昨日はどんよりしめった曇天に首をきゅうと縮めていたのに、今朝は東の空が明るい。ストーブの前でコーヒーをすすりながら新聞を読んでいると、あ、窓外の楓に、かわいい小鳥がやってきました。あっちこっちへとせわしなく枝を行き来しています。何しているのかな。ちっこくて丸々して、かわいいメジロくんです。しばし観察していると、遠くの方で猫もおわあおわあ鳴いているのが聞こえます。

 「大変大変!」外に出ていた息子が、私を誘いにきました。ぐいぐいと腕を引っ張ります。こちらの方が倍ほどせわしないな。いてて、わかったわかったよと誘われるままついていくと「見て、もう咲きそうだよ!」植えっぱなしにしているアネモネの鉢から、しゅるしゅると数本の茎が伸びて、その先に赤や紫の蕾がついているではありませんか。

 見ればぽさぽさのブルーベリーの枝にもいつの間にかおやまあ! ごま粒のような新芽がちょこちょこくっついている。

 昨日とは明らかに違う風が息子の前髪をさらさら揺らしていました。

 どうやら、待ちに待っていた新しい季節がやって来たようです。

 春が来ると、いつも思い返すのは、初めてひとり暮らしをした23歳のときのこと。

 その街に決めたのは、駅前に、頼りない私を何かと気に掛けてくれるお姉ちゃん的存在のスタイリストOさんが、まっ黒の猫"まゆ毛"と暮らしていたからでした。

 六畳と四畳半の二間で、さすが東京、って感じの家賃12万円。仕事しているとはいえ、まだまだ駆け出し、先々の保証なんて誰もしてくれない職業です。だいじょうぶかオレ。独り立ちの晴れがましさはありつつも、それ以上に自分でちゃんと払っていけるかが不安で、どきどきしたものです。

 窓を開け放つと、向かいのマンションの屋上アンテナに一羽のカラスがとまっているのが見えて、彼と一瞬、目が合ったような気がしました。このカラスとは後日、洗濯物を巡って一波乱あるのですが、その時はまだ互いを認識するだけだった。淡い淡いブルーの空が広がって、ああ東京の空って意外ときれいなんだなあと思ったことを覚えています。

 ひとり暮らしを始めて、いの一番に買いに行ったのは自転車。持て余す時間はほぼすべて、街をうろうろするのに使っていましたっけ。ふたすじ北に遊歩道があって、桜並木がふわふわ風に吹かれてて、あれを毎日のように見に行ったなあ。部屋の中はすかすかのからっぽで、たったひとりなのだけど、なぜかちっとも淋しくなかったんだよね。振り返ってみるとあれは恐らく春だったからじゃないだろうかと思うのです。お日さまが街中を照らし、あちこちに花が咲いているのが心を明るくしてくれていたんだろう。まっさらの白地図にすこしずつ色を塗るような感覚で、毎日を過ごしていました。

 家から3軒ほど隣にテイクアウト専門の小さなサンドイッチ屋さんがあって、そこで出来たてのチキンカツサンドを注文するのが、たまの楽しみだったなあ。パン粉が細かくてさくさくで、丁寧に刻まれた玉ねぎやピクルスが入った自家製タルタルソースも美味しくて。真っ白の紙箱に入ったサンドを手渡されると、ほんのり温かくて、幸せな気持ちになったものです。特別言葉を交わすわけではないのですが、店主の誠実な人柄がうかがえるようなサンドイッチで、このお店は確実に、ひとり暮らし初心者の私の心の支えでした。

 そして、くだんのカラスですが、彼はしょっちゅう同じアンテナにとまっているので「あ、今日もいるな」「いたいた」と毎日のように確認するような対象になり、いつしか一方的に親しみを感じるようにもなっていました。

 ある日の朝、空は重ための曇り空で、洗濯物を外に干して出ようか室内に干しておこうか迷っていたとき、「カワクカワク」と急にカラスが鳴いたのです。ほんとかなあ。と、また「カワクカワク」。首をかしげてちらっとこっちを見るような素振りもしている。え、もしや天気を教えてくれようとしている? そんな親切な鳥は初めてです。なんか嬉しい! カラスからのアドバイスと受け取った私は、じゃあせっかくだし外に干していこう。ベランダにずらっと干して、家をあとにしました。

 その後。ぽつぽつ、ざー。ぎゃっ!

 大急ぎで取り込みに戻ると、カラスは、いつもの場所からいなくなっていました。むむむ、やられたやられた、口惜しや、です。どちらかというと慎重派の私ですが、さらに気をつけて生活するようになったのは、この経験をしてからなのであります。東京はこわい。

 そんなこんなひとり暮らしは4年で終了となりました。いまは夫と子どもたちとの4人でどたばたの日々ですが、うちの母、それから夫の母もそれぞれひとり暮らしをしているため、そののんびりとした様子を見ていると、時々、ああまたいつか私も、という気持ちがむくむくと湧いてくるのです。もちろん無理なのは承知ですが。仮に今始めるとしたらどんな生活になるのかな、と妄想をするのがひそかな楽しみ。

 木のうろみたいな、小動物のねぐらのようなちっちゃな寝室。それから、日当たりの良いお部屋ひとつ。部屋のすみっこには是非とも《木の砂場》を置こう。これについて説明しておきますと、ピンポン球大のすべすべの木の球がぎっしり詰まった遊具で、私は北海道西興部にしおこっぺ町にある木夢こむという木の遊具がたくさんある施設で初めて見ました。ここの巨大な木の砂場は壮観ですよ。子どもたちは夢中になって遊んでいたのですが、私も中に入ってびっくり。ころころという優しい音と、森林浴しているような香り、滑らかな手触りと確かな重み。何もかもがしっくりと気持ち良いのです。そして何気なく横たわって衝撃を受けました。身体のツボというツボに木の球が当たり、得も言われぬ快感。たまたまでしょうがお客さんがほとんどいなかったのを良いことに、誰にもじゃまにならない場所で私はただひたすら横になっていました。底なし沼に取り込まれたように抜け出せなくなっちゃった。なーんにもする気がなくなるんですよね。近くでは夫も行き倒れになっていました。

 子どもたちに気兼ねせず、横たわって気絶していたい。だらしない姿を人さまの目に触れないようにするためにも自分専用のが欲しくてたまらないのです。一応作っている会社のホームページでも確認したのですが、とてもほいほいと買える価格ではありませんでした。夢のまた夢だなあ、そしてもしいつか家に導入する日が来たとしたら、その日から私はなんにもしない人になってしまうに違いない。そう考えるとある意味おそろしい遊具であります。買える値段でなくて良かったのかもしれない。

 窓の外にはちっちゃい畑。ツリーハウスとブランコも欲しいなあ。あと太陽熱を利用してお湯沸かしてお風呂に入るとか。海の近くだったら釣った魚を夕ごはんのおかずにして、とか。想像するだけでわくわくしてきました。大きいのが釣れたら子どもに写真撮って自慢しよう。あ、こんな生活していたら面白がって一緒に住むっていうかなあ。

 春って、のんきなアイデアがいっぱい生まれてきますね。

澤田康彦さんによる
「ひとり暮らし」はこちら

本上 まなみ

本上 まなみ
(ほんじょう・まなみ)

1975年東京生まれ、大阪育ち。俳優・エッセイスト。長女の小学校進学を機に京都に移住。主な 出演作に映画『紙屋悦子の青春』『そらのレストラン』、テレビドラマ『パパがも一度恋をし た』、エッセイに「落としぶたと鍋つかみ」(朝日新聞出版)、「芽つきのどんぐり 〈ん〉もあ るしりとりエッセイ」(小学館)、「はじめての麦わら帽子」(新潮社)、絵本に「こわがりか ぴのはじめての旅。」(マガジンハウス)など。京都暮らしのお気に入りは、振り売りの野菜、 上賀茂神社での川遊び。

写真:浅井佳代子
公式サイト「ほんじょのうさぎ島」

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