一泊なのにこの荷物!

第13回

もうだめだ

2021.04.01更新

 ここ一週間でみるみるうちに庭にある楓の若葉が広がり始めました。透けそうなくらいに薄い淡いグリーン。葉の先がちょんちょんちょんと紅に染まっている様子は、なんてかわいらしいんだろうか! 

 春風に吹かれ、暖かい春の日差しの中にいると、とろとろと居眠りしたくなるのはなぜでしょう。先日は仕事で、京都にある小倉山展望台まで行きましたが、春霞にけぶる山々のところどころが桜色、谷底には光放つ保津峡、鶯がケキョケキョ、ホーホケキョ、と右手からも左手からも鳴くという、最高のシチュエーションでありました。仙境、桃源郷とはここのことかしらって感じの場所でしたよ。気持ちよかったなあ。

 仕事柄こういったベストシーズンにフォトジェニックな場所へ撮影に連れて行ってもらえるのは、散策、見聞を広めるのが大好きな私にとって大きな喜び、この仕事をしていて良かったなあと思う瞬間ですが、ときにはなかなか自力では行けないような珍しい、ハードな場所へ誘われることもあります。好奇心旺盛なもので、お声がけいただくと「わあ、それはぜひ自分の目で見てみたい!」といつも思います。

 でもね、行くと絶対"何か起こる"んですよね。ぎゃー! とか、もうだめだ、っていうようなことが。

 今回のテーマ「もうだめだ」について考えを巡らすと、思いつくのは旅の数々。海外での出来事が多いです。海外での体験は、自分の予断、想像を超えてやってくるのだ。

 西アフリカのマリ、ニジェール川の川上りキャンプ。テレビの取材です。小ぶりのモーターボートから遠く離れた水面にちょこんと見えるのは、鼻の穴二つ。わわわ! あれはカバでは? カバだよカバだ。私もスタッフも大興奮。これぞ本物のジャングルクルーズだ。ディレクターが地元の船頭さんに「カバがいるんで、もっと寄って」とお願いする。船頭さんはびっくり、大慌てでエンジン全開、逆にカバからどんどん離れていくのでした。みんなの顔に「え?」が浮かぶ。船頭が言うには、カバは地球上で最も恐ろしい猛獣、「あれに近づくのは自殺行為だ」と。カバは静かに潜って、私たちがくつろいでいるところを船底から体当たりを仕掛けてくるそうで、やられたら最悪船が真っ二つになると。「今も下から来るかもしれないよ」と脅す。それから先の私は急にしおしおびくびくの旅人と化したのでした。さんざん乗せてもらっていて言うのもなんですが、こんな小舟はカバにとっちゃ朝飯前でしょう。何度か経験して、思うことですが、大きな川や大揺れする海の上、ちっぽけなボートに乗ったときの自分の何という小さくて頼りない、そして深い水の恐ろしいことよ。それまでユーモラスに捉えていたカバの印象が大きく変わりました。

 1週間ホームステイして家族と触れあう番組。私の滞在先は南インドの片田舎でした。インド料理の大好きな私は、そこの親切な方々と楽しい日々を過ごした。ある日はなんとゾウがやってきたのです。獅子舞のようにあちこちのお宅を回って、幸せを届けているらしいのですが、目の前で見るゾウはさすがに大きいなあ、可愛い目をしてるなあと感動していたら、せっかくなんで乗ってみたらと勧められる。わーい。またがってみると、ゾウの毛って一本一本ハリガネみたいに硬くて痛いんですね。でもこんな経験は初めて。撮影もすんで、ありがとうと慎重に降りたら、ゾウにもお礼をあげなさいと、おうちの方から果物を手渡されました。例の長い鼻先ではなく、口元に差し出すのだそう。ウマはもちろんロバにもラクダにもキリンにも食べ物をあげたことのある私ですが、ゾウは初めて。顔面にこんなに接近すると、巨大さにおののきます。そおっと差し出すと、そのゾウは口を大きくあんぐり、そしてバクっ。果物ごと私の手まで、いや手どころか肘まですっぽりくらいついてきたのでした。ぬはーっ! その怖かったこと。幸い歯がなくて噛みちぎられはしなかったけれど、口の中はぬめぬめ〜っとしていて、(ゾウにはわるいけど)その気色悪い感覚は一生忘れません。

 ついでにもうひとつ。ホームステイ中は生水による体調不良を恐れ、ミネラルウォーターをお願いしていました。夜中でも気温40度を下回ることがない、熱々のインド。毎日ペットボトルのお水をありがたくいただいていましたが、若干気になっていたのがそのボトルの佇まい。ちょっぴりくすんだ色味で傷もついていたのであります。まあでも、輸送のときについたのかなあ、なんて思っていたのですが、ロケも終わりが近づくあるとき、おうちの人が家の井戸からペットボトルに水を汲んでいる姿を目撃してしまったのである。

 おそるおそる聞くと、「大丈夫、うちの井戸水はきれいだ」と胸を張るみなさん方。ほらのぞいてごらん、魚がいるでしょ。毒がはいってない証拠だよ、と。のぞけば小さい魚たちがすいーすいー。ひえー。もともと胃腸の強くない私は残りの日々をどれほどびくびくと過ごしたことか。気持ちを張っていたせいか、お腹を壊すことはなく無事帰国しましたが、自宅に帰りつくなりものすごい腹痛、下痢にやられたものでした。後年夫にその話をしたら、「あれやろ、そこの水飲んでたってことやろ」と指さす先は家の金魚の水槽。ぬぬぬぬ、私はまた気持ち悪くなるのでした。

 コルシカ島。貴重な熟成チーズです、と目の前にどんと置かれたのは大きな青いバケツ。のぞくと、チーズというより柔らかめのぬか床のような固まり。一気にものすごいにおいが立ち上ってきて、いやこれはなかなか......と思っていると、現地の方の説明が始まる。「これは中にウジ虫がいっぱいいて、それが熟成を押し進めるので」と。「さあさあ、本上さん」。カメラが回っている前で、私は仕方なく口に。......んがっ!

 こんなふうに、気の小さい、臆病な私は、「もうだめだ」の記憶はいくつもあります。

 最も「もうだめだ」と思った話をあとひとつ。

 グアテマラにある、マヤ遺跡に行ったときのことです。山賊がよく出る、という山道を夜に走ったことも「もうだめだ」のひとつですが、それを超える恐ろしい体験は、ピラミッドの登頂でした。

 みなさまもご承知のことと思いますが、世界三大ピラミッドのうちのひとつはマヤにあります。高度な文明で、文字はもとよりかなり正確な天文の知識を持ち、暦を用いて暮らしていたと言われるマヤの人たち。広大な原生林の間に点在するピラミッドも不思議かつ異様な存在感があり、まずその迫力に圧倒されました。古代の人々が作ったと頭では解っていても、実は宇宙人が置いていったのでは? と誰しも疑いたくなるような美しい幾何学的な形なのです。想像を超えるボリュームであること、近くに比較するような人工物もないため、脳がきちんと認識できなくてパニックになる。遠近感、空間把握にくるいが生じるのです。

 近くに寄ればもっとすごい。視界に入る範囲全部が"階段"です。ただただ大きな石の階段。というか、もはや壁だ。外国の妖怪ぬりかべみたいな。「やっぱりスケールが違いますよね!」って言いたくなりますが、そんな軽口を言える雰囲気ではない。王の墓ですもの、神聖なる場所なのです。威厳ある物体、なんて表現はヘンかもしれないけれど、旧びていても厳かで、すっかり観光地となった現代においても、後付けの手すりなどもあろうはずもなく、代わりに「どの場所からでもかかってこい」って無言の圧がありました。レポーターの私は下から見上げて「こ、この勾配は...」と大きくひるんだのですが、遠路はるばるやって来たのにテレビカメラの前で怖じ気づいて、私、登れません! なんてわけにはいかない。必死で登り始めましたよ。

 一段が異常に高い。足がかりのところが異常に狭い。しかも足場が石ででこぼこ、平たさがない。妙につるつるしています。梯子に近い感覚か。でも梯子には手すりも滑り止めもあるじゃないですか。両手両脚ついてへっぴり腰でひたすら上を目指す私は、岩山に取りつき登る小さな生きものだ。私の身長は168センチほど、決して小柄でもないけれど、この急勾配は明らかに人の間尺に合っていない。ほんとに人間の作ったものかな、と再び疑ってしまいます。ただただ無心、フウフウ言いながら一歩一歩空を目指すのみ。

 時間の感覚も無くなったころ急にすぱっと視界が開けました。よいしょと腰を伸ばして立ち上がると、乾いた風が汗ばんだ背中とシャツの間を吹き抜けた。はあ爽快〜。そして振り返れば素晴らしい眺め! 茶色の大地と、地面を覆う緑の木々、そのあいだにぽつぽつと顔を出している遺跡たち、そしてすぐそこが空だ。広い広ーーい空。

 案内人が、石段の狭い理由を頂上で説明してくれたのですが「神への捧げものを下に落とすとき、段の途中で止まらないように落ちやすくするための作りになっている」とのことでした。つまり、その儀式を滞りなく行うための構造、デザインだというのです。ひぃー! そりゃあ、滑りやすいわけだ。しかも捧げものって生け贄、人体ではありませんか。もしもつるっと滑ったら、その時点で終わりってことです。そんなつもりがなくても捧げものになっちゃうってことです。あわわわわ。

 登るのは上を見るだけなのでまだよい。けれども、下に降りるときの恐怖と来たら。登りの100倍以上でしたよ。ひとつでもつるんと踏み外したらアウト。あんなに手足に吸盤がほしかったことはありません。気力も何もかも使い果たして最後はぱっさぱさの抜け殻みたいになっちゃった。おしりからひざにかけてがくがくで、しばらくおかしな歩行をしていましたっけ。今思い出しても血の気が引いていくほど。一生忘れられない「もうだめだ」の体験でありました。

澤田康彦さんによる
「もうだめだ」はこちら

本上 まなみ

本上 まなみ
(ほんじょう・まなみ)

1975年東京生まれ、大阪育ち。俳優・エッセイスト。長女の小学校進学を機に京都に移住。主な 出演作に映画『紙屋悦子の青春』『そらのレストラン』、テレビドラマ『パパがも一度恋をし た』、エッセイに「落としぶたと鍋つかみ」(朝日新聞出版)、「芽つきのどんぐり 〈ん〉もあ るしりとりエッセイ」(小学館)、「はじめての麦わら帽子」(新潮社)、絵本に「こわがりか ぴのはじめての旅。」(マガジンハウス)など。京都暮らしのお気に入りは、振り売りの野菜、 上賀茂神社での川遊び。

写真:浅井佳代子
公式サイト「ほんじょのうさぎ島」

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