一泊なのにこの荷物!

第5回

自転車

2020.08.15更新

 ある瞬間に、すっとレベルがアップする。ステージがひとつ上がる。自分がワンランク「上級」になる。そんな輝かしい一瞬が、人生にはあります。

 あんなに苦手だった鉄棒のさかあがりが、ふとした瞬間にくるりとできる。あれ? できた。もう一度......くるり。ん? できてるな。ぼくとしたことがおかしいな。くるり。そんなはずは。くるり。くるり。もう大得意です。アホほどくるくる回転し続けた放課後。

 偏食児であんなにキライだったホウレン草が、ある瞬間にぱくり......あれ、おいしい? おかわり。そうか、ポパイはこれを好んだのか。大きくなるぞー。おかわり。と調子に乗って大鉢のおひたしをアホほど食べ、やがて気持ち悪くなる小六の午後。

 二重跳び。因数分解。ポールのぼり。リンゴの皮むき。うんてい。飛び込み。魚を釣り上げる。テント設営。スキー、スケート、スケートボード。チキンラーメンを作る。子ども時代はそんなステージアップへの門戸はたくさん。全部コツですからね、飲み込めば難しいことではない。ヒーローになれるチャンスはいっぱいある。できない後輩は下からどんどん生まれて来て、そいつらに自慢もできる。人生って素晴らしい。

 わが子を見ていても、そんなことが追体験できます。

 スキップができずへこんでいた娘に、やってごらん。できない。いや、やらなきゃいつまでもできないから。できないってば......(しぶしぶ)こうでしょ......(ピョンピョン)......あれ? できてるやん! となると、アホほど跳ね続けるのは父と同じ性格です。こっちがギャロップ、これがスキップ。後ろ向きもできるかも、と調子に乗る。こける。

 息子。失敗を極度に恐れ、負けそうなことはあらかじめ避ける。それでいて身ぶりそぶりは荒ぶった、理想と現実のはざまをさまよう少年に、人生の難所は多いのです。縁日の屋台、金魚すくいの水槽の前でなんとかおだててポイを握らせ、たまたまぼんやりした1匹をすくい上げた瞬間の目の輝き。「あとは自分でやるから、父さんあっち行ってて」というセリフはハラだたしくもあり嬉しくもあります。

 長い前フリとなりましたが、自転車は代表的なそれです。妻も言及していたストライダーのおかげで、娘も息子も難なくステージをクリアした。本当にすぐれた入門車です。

 ぼくらの頃は補助輪付けてのスタートで、これがレベル1。慣れたら次は片方を外してレベル2。最後に待つのがレベル3のそれを外さねばならぬ日。親とか兄に荷台を押さえてもらって一緒に走ってもらう。持っててな。放さんといてな。持っててな。(ぎこぎこ、のろのろ、ぎこぎこ、よろよろ)......後ろを振り向くと、「持ってないやん!」(どてっ)というのが基本形ですよね。

 タイヤの半径のランクアップもある。20インチから24インチ、そして大人の26インチへ。栄光への道のりです。

 行動範囲もそう。母の周り1m以内といった乳幼児の頃から、子どもは次第に活動のエリアを広げていくわけですが、個人史の中で自転車の登場はとても大きいもの。最初はおずおずと家の周りを巡っていたのが、次第に距離を伸ばし、やがて隣町へ。少し走れば見知らぬ子どもらがいて、全員野蛮人に見えます。というか実際に野蛮人で、ぼくは弓矢で狙われたこともありました。

 あちこちの里をおびえつつ走り抜け、大河や琵琶湖畔まで自力で到達した喜び。山の麓の坂道のカーブを「ノンブレーキで」回り込む快感。手ばなし運転に成功した嬉しさ。遠くの街の大きな本屋さんまで走って大量の文庫を買いこんだ"満足ダヌキ"感。自由自在!(参考書か)

 自転車は、アレキサンダー大王の東方遠征に匹敵する新発見新文化を子どもにもたらします。自転車こそ、人類史上最高の発明ではなかろうか。

 やや脱線しますが、映画でも自転車は特筆すべき存在。まさに映画的なのです。

 『荒武者キートン』におけるバスター・キートンの黎明期の自転車に乗る姿。デ・シーカ『自転車泥棒』の悲しきお父さん。フランソワ・トリュフォー初期の短編映画『あこがれ』でベルナデット・ラフォンが乗りまわす南仏。『突然炎のごとく』のジャンヌ・モロー、『恋のエチュード』のジャン・ピエール・レオ。『大脱走』でのらりくらりと自転車で逃げるジェームズ・コバーン(スティーヴ・マックィーンのオートバイでのブンブン走りと対照的)。『ヤング・ゼネレーション』のロードレース。『E.T.』の空に浮かぶ自転車。『クレイマー、クレイマー』の父子の自転車練習。アニメではシルヴァン・ショメの大傑作『ベルヴィル・ランデブー』や、高坂希太郎『茄子 アンダルシアの夏』の熱き夏を忘れてはいけない。おおそしてそうだ『耳をすませば』のラスト、朝焼けの二人乗りもドキドキものでした(「おまえを乗せて坂道登るって決めたんだ」と少年。言うなあ)。二人乗りといえば、北野武『キッズ・リターン』はチャリンコ映画でした(「おれたちもう終わっちゃったのかなあ」「ばかやろ、まだ始まっちゃいねえよ」)。フランスの女優にも自転車は似合うけれど、日本のヤンキーにも似合うのです。......なんて、自転車話はきりがありません。

 今ついでに思いだしたけど、アンリ・トロワイヤの短編小説集『ふらんす怪談』の中にタンデム自転車(ペダル、サドルが2つついた二人乗り自転車)の話があって、毎夕方タンデムで通りすぎてゆく夫婦、妻の方がどんどん太って、夫がやせ衰えていく......なんて話がとても怖かったものであります。

 人生ステージアップの話に戻ります。

 自転車にはほかにギア数というヒエラルキーがある。○段変速、ってやつですね。妻が書いている息子の新しい中古自転車(!)のギアは、6段変速。小二の彼にはペダルと歯車の関係、ギア比のことはまるでわかっていないのだけれど、数が多いほどエラいと信じているのは少年にありがちの価値観。その前は変速がなかったのだから、6段とはものすごい進展なのです。

 走りながらじゃないとシフトチェンジはできないぞ、とかと息子に教えつつ、父さんの自転車はちなみに16段であり27インチである、と自慢することも忘れません。

 そのマシンは昔、三十年ほど前、イタリアはミラノ郊外のチネリ本社にまで行って、身長・手脚を採寸、フレームから作ってもらった真っ赤な「スーパーコルサ」です。現地で買って約40万円でした(日本では55万円)。今のカーボンフレームとは違う、がっちりしたクロモリ鋼。重厚で美しくカッコいいのです。脚の長さを測ってくれた職人が首をかしげ、もう一度=「アンコーラ・ウーノ......」と測り直したのが忘れられない記憶です。

 ただ、その16段というスペックを使いこなしたかというと、まったくもってそうではなく、軽いのと中くらいのと重いのと3つを使うのが関の山でした。つまり3段でよかった。そのへんは今のぼくのiPadに似ているかもしれません。メールするだけじゃなあ。

 ターザン編集部時代、勢いで出場した群馬県のロードレースでかろうじて完走、ブービーだったこと(あとの編集部員二人は途中リタイアなので立派といえば立派です)。田舎に持って帰って甥っ子に「おっちゃん、もんすごカッコええなあ」と感心されたこと。何回か雑誌の撮影に貸してイバったこと。チネリ・スーパーコルサの思い出はあんまりなく、あってもなかなかサエないものであり、チネリ社からブランド殺しで訴えられたら敗訴することでしょう。

 サドルが高すぎて脚が何度かつった。細いタイヤがわだちにとられがちで危ないのでのろのろ運転だった。銀座の出版社に真っ赤なロードバイクで出社した日々、昼間の中央通りを晴れがましく駆け抜けたはよいけれど、店や喫茶店に入るたび盗まれはせぬかとびくびくと落ち着かず(前輪だけ外して持ち運ぶのです)、映画なんてとてものんびり見てはいられない。知り合いには、サドルだけ盗られた、後輪を盗られたなんていうのもいましたし。

 そんなこんなのうちにいつのまにか遠ざかってしまった。時は矢のごとく流れ、今では東近江市の実家の旧勉強部屋に鎮座し、一人暮らしの老母に煙たがられています。確かに掃除の邪魔になる。帰郷した折、私の息子が面白がって、手で思いっきりペダルを回すときに、コラ! と注意。たまに大事そうに磨いたり、空気を入れたりするくらいのつきあいであります。

 問題は、これに乗らなくなった(乗れなくなった)ということは、自転車人生ではランクダウンを意味する、ということなのです。

 ぼくの自転車史にはさらなる下降の象徴がある。娘が生まれ、やがて通園が始まった10年前、子ども用の座席も乗せたママチャリ・電動アシスト付き、を購入したという事実です。ヤマハ製のこの乗り物の問題点は、ラクちんに過ぎるということ。なんということでしょう、ペダルをちょいと踏んだだけで、すーーっと前進する! 当たり前ですが。上り坂もほいほいとなんのその。この「ほいほい」が人を堕落へと導く。

 さらに。ぼくはこれでひっくり返って、肋骨を4本折った。スピードが出ちゃうのです。昔取ったキネヅカほどたちの悪いものはありません。調子に乗ってスピードを出し、歩道から車道、また歩道へ戻る瞬間、境界縁石を乗り越えられずタイヤがスライド、どっかーん! 縁石の高さを見誤るなんて、目が悪くなり、運動神経が落ち、判断能力が鈍ったってことか。スーパー自転車乗りだったこのぼくが、そ、そんな!

 あいたたたた。近所の病院に初めの入院をして、ベッドから「もう若くないさ」と妻に言った。「いちご白書をもう一度」やがな。

 冒頭、ある瞬間にレベルがアップする、と書きました。逆に、ある瞬間にダウンするということもあるのです。人生も後半に入れば、それが始まる。翳りを帯びる。人はそんな当たり前のことになかなか気づきません。自転車の運転やガードレールを越えるアクション、高いところからの飛び降りとかがそれかな。いや、考えてみれば、もうさかあがりはできないかもしれない。懸垂も。そういえば、子どもの前でやった二重跳びも3回で息が切れたし、鴨川での鬼ごっこもすぐにつかまるし。ホウレン草も適量でよい。

 やばい!

 ......という、今回は期せずして、最終的に暗い終わり方になってしまった。テーマのせいだ。りんりん。ちーん。

本上まなみさんによる
「自転車」はこちら

澤田 康彦

澤田 康彦
(さわだ・やすひこ)

1957年滋賀県生まれ。編集者・エッセイスト。1982〜2010年:マガジンハウスにて、「BRUTUS」「Tarzan」等を編集。2015〜2019年:「暮しの手帖」編集長。2020年より家族の住む京都に戻る。近年の編集本に「戦中・戦後の暮しの記録」(暮しの手帖社)、著書に「ばら色の京都 あま色の東京」(PHP研究所)、「短歌はじめました。」(穂村弘、東直子との共著、角川文庫)など。京都暮らしのお気に入りは、入山豆腐店の朝イチの豆乳、美山の由良川。

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