第6回
海
2020.09.15更新
夏休みになると、海水浴場に連れてゆかれた。泳げなかったけれど、潜ることはできた。海は広くて大きくて好きだった。行ってみたいなよその国♪なんて歌って。
学校のプールは嫌いだった。几帳面に線が引かれたスクエアな感じも、教師がストップウォッチで測るタイムのデジタル感も、5メートル泳げるごとに色が出世する帽子の線も......競うことが前提の場。少年雑誌で見た東京のどこかの遊園地のぐるぐる回る流れるプールや、でっかいすべり台つきのものならよいのに、と何度思ったことだろう。
おお忌まわしきプール。とってつけたような準備体操も、入水前にぞろぞろと背中を丸めて浴びる(収容所じみた)冷たいシャワーも、プールの水そのものの異様な冷たさも(ちょうどいい塩梅と思ったことは一度もない)、カルキの毒々しい臭いもいやだった。誰かがおしっこしているという確信があったのは自分にも経験があったから。だいたい2時間も水につかっていて、誰一人途中でトイレに立たないというのはおかしいではないか。見たわけではないがおっきいウンコが浮いてたで、なんて証言や、見たわけではないが夜になると近くの浮浪者が入りにくんねんで、という噂は、少年をおびえさせた。
海だって、誰かが砂浜の向こうのトイレに向かう姿を見たことがないわけだが、広いし大きいし薄まるしということで......それ以上は考えないようにしていた。
ぼくが泳げないのは、母のせいだ。「別に泳げんでもええし」と彼女は子どもの耳元で繰り返した。母自身が泳げなかったのだ。「中耳炎になるで」「あるとき浮き輪がひっくり返って体が逆になって頭が水中につかって死にそうになったんやで」「水泳の授業? あんた風邪っけやから休み」。母の言葉は呪文のように心に残る。東海林さだおさんのエッセイで、人は泳ぐようにはできていない、人が泳ぐ形は慌てているみっともない姿だ、といった指摘があり、大いにうなずいたり。
夏の水泳大会のぼくの出場種目はムカデ競争だった。泳げない女の子たちと縦につながり、板に乗って、ぞろぞろとプールをただ歩く。それさえひっくり返って水を飲んで慌てた。
こうして毎年冷夏となることを祈る学校時代だったが、海に行く日だけは楽しみで、晴天を願った。家から車で15分くらいの浜に、母や近所のおばさん、子どもたちと向かう。みんなは海の子、抜き手を切って泳いでいたが、ぼくはもっぱら潜っていた。水中眼鏡をつけ、水底をさまようと砂の間に貝がいる。たくさんいる。これを採集する。たっぷり採る。家に持って帰るとおばあちゃんが「ぜいたくや」と喜んだ。今夜はおいしいシジミ汁――
ん? シジミ!?
そう、ぼくの海は海ではなかったのだ。その正体は琵琶湖、湖であったことを子ども心に次第に知る。だってでもしかし、大人たちはみんな普通に「うみ」と呼んでいたではないか。「
つまり、ぼくは海の子ではなかった。湖の子だった。「われはうみのこ」の歌は、唱歌のいわゆるあれ=白波の騒ぐ磯べの、という節まわしのやつではなくて、加藤登紀子やフランク永井が歌う「琵琶湖周航の歌」、さすらうやつの方、よりしみじみする暗い方の歌なのであった。
余談ながら、(今もそうだが)母は昔から津波を恐れ、地震のたびに口にする。家は海まで5キロはある山の方なのに。というか、相手は湖ではないか。
さて、この連載は、妻が書いたものを受けて2週間後に書いているのだが、今回の彼女の原稿には「夫」の気配がまるでないことに読者はお気づきだろうか? それは、妻の意識する海、記憶する海のなかにぼくが一切いないからにほかならない。
いや、決して夫はいなかったわけではないのだ。子どもたちを連れていった沖縄も、オアフ島やマウイ島も、先日行ったパラオの島々にも、ぼくは確かにいた。影が薄かったのだろうか? 家族が大波小波にもまれてキャアキャア騒いでいるときに、ぼくはビーチパラソルの下で寝っ転がって、ピニャコラーダなど飲みながら、ジェフリー・ディーヴァーなんかの酸鼻を極める殺人譚を読んでいたのである。名探偵リンカーン・ライムも動かない(動けない)が、ぼくも全然動かない。
海が好き、なんて書いたけれど、ぼくの好きなのは湖の方であった。本物の海水浴場の、陽の暑いのも、砂がじゃりじゃりするのも、子どもらが跳ね散らかした水で本や電子機器が濡れるのも、乾いたあとのしょっぱいベタベタもいやだなあ、と思う。もう大人なので子どもの手前ボヤかないだけだ。むしろ妻のおかげで子どもたちは海で大暴れできる、本物の海の子になっていくようでありがたく頼もしいなあ、と思う。子どもらよ、父さんのようになるでないぞ。
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
寺山修司
この名歌も少女だから絵になるのだ。海を知らないおじさんなんて相当にサエないもんである(わかっているのである)。
ぼくが海を少しだけ知ったのは、青春時代もずっと、ずっと終わりの方で、大学時代後期、椎名誠の怪しい探検隊に参加させてもらったときであった。ドレイ隊員として、十人前後のむさくるしいおじさんたちと行く海。自らを探検隊と言いつのる彼らは、旅館より浜辺のテントを好み、エアコンより海の風を愛し、わざわざ持ってきた雀卓をわざわざ炎天下の砂浜に設営、打ち興じた。無意味に荒ぶる集団であった。麻雀のメンツが足りないときにはぼくも加えさせられたが、フナムシが這いのぼってきて不快だった。椎名はそれをぱちんと手でつぶして、その手で牌を捨てた。その野蛮さに驚いた。キャンプの中心にはでかい焚き火が常にあって、酒盛りが主目的だった。高歌放吟し、酔った誰かが空のガスボンベを投げ込むと、おじさんたちは全員ぴゅーっと逃げた。その愚かさにも驚いた。あれだけ酔っ払ってても走れるものだなあ、とも。
あれは新潟県沖の粟島だったろうか。1980年頃だからもう40年くらい昔のこと。椎名たちはボートの上から、嵐が接近する荒れ狂った日本海に、いきなり(準備体操もなしに)どっばーんと飛び込んだ。上がってきたときには、みんなが貝を手にし、それはシジミではなく、シッタカ。不気味な巻き貝だった。浜辺の大鍋で煮ると、スープはとてもしょっぱくて、温まって、美味しくて、ああこれが海の味なのかと思った。
大波への飛び込みも貝採りもフナムシぱちんも、それまでにはなかったふるまいだった。怪しい探検隊の衆とは、そのあとも長いつきあいになり、そのつど海や川が現場となった。10年後には「うみ・そら・さんごのいいつたえ」という海の映画、8月の炎天の石垣島を舞台とした作品を一緒に作るのだが、その島でのひと夏のバカ話はまた別の機会に記しておきたい。それは海を知らぬ男の苦難の記録ブンガクとなるであろう。
後に妻と結婚し、あちこちに遊びに行ったが、海に対して身構えず、すっと同化していく人は初めて見た。都会よりずっと生き生きしてるなあ、なんてことは今回の原稿を読んでいてもわかる。
そして、書いていて、今思い出した。妻と知り合ったのは雑誌「ターザン」の海・水泳の特集だったことを。「誰か泳げるアイドルを」というので白羽の矢が立った水着キャンペーンガールが彼女。ロケ地は、マレーシアのランカウイ島。サメだらけの海で元オリンピック選手と泳いでもらったものだけれど、彼女は覚えているかなあ?
安全とは言われても怖かった小さなサメたちや、大味のヤシガニや、美しすぎるサンセットのことは覚えているだろうけれど、編集者のサワダのことは記憶に残っていない、にぼくは一万円賭ける。