一泊なのにこの荷物!

第8回

魚釣り

2020.11.15更新

 ヒラマサ釣りなんていう夢のまた夢、大洋での豪快な釣行へと、朝早くから鼻息荒く出かけていった妻に、その夜「どうだった......?」と、九州・唐津は呼子の宿に電話してみたら、「......変なのが釣れてん」と、しょぼしょぼ声で答えたのである。

 「変なの」の正体がマトダイだったというのは、本上さんの原稿の通りである。さっそく図鑑で見てみたら、なるほど変な魚。知らない人にはネットの画像などでご確認いただきたいのだが、側面に確かに的のようなまん丸がある。何の意味が? そして何のためにあんなに口が大きく開きびろ〜んと伸びるのだろう? けっこう笑わせてもらったと同時に、前フリのようにまずこういうのを釣って、みんなをがっかりさせておき、その翌日見事に本命を釣り上げ喝采を浴びた本上さんの芸能人っぷりにも、感心する者である。

 ところで、本命ではない魚を「外道」と呼ぶのをご存知だろうか? けっこうひどい言い方ではないか。ぼくのたしなむフライフィッシング界、渓流釣り界隈では、ウグイ全般が(気の毒に)こう呼ばれるのである。本命はヤマメやイワナ、ニジマスなど、清流を走るサケ科のしゅっとした魚たちなのだが、時おりこのコイ科の魚がかかるのだ。厚めの唇、ばこっと開く(マトダイの小型みたいな)口元、間のびした表情、触ると手が臭くなり、乾燥が命の毛バリが"ぬる"を帯びてダメになる。釣れたのがウグイとわかった瞬間「ちっ」と舌打ち、仲間からはからかわれ、ぽいっと足下の流れに捨てる。ひどい釣り人に至っては草むらに捨てる。どっちが外道かと思うことも。

 あ、今「外道」で思い出したのだが、その昔雑誌の編集部にいた頃、部下の女性がリリー・フランキー氏に原稿を依頼。遅筆かつ怠け者で高名な氏からは締め切りを過ぎても一向にブツが届かず、「書く書く」とウソを重ねられたまま、ついにぎりぎりの深夜を迎えてしまった。部下が悲しい顔をしているので、上司として「前略、リリさん......」と親しみこめた催促ファクスを送ったら(そうまだメールがなくファクスの時代だった)、カタカタとすぐに戻って来た返事が「私は、リリではなくリリーである」と。さらに顔を曇らせる部下に、「おい、《この、くされ外道!》ってファクス送ってやれ」と言ったら、彼女は本当に毛筆で大書して送ったのであった。それから1時間後に、くされ外道と呼ばれた男から原稿は届いたものだ。よかったよかった。

 外道ではなく、釣りの話であった。海釣り、波の下、海中の様子の見えない釣りは、上がってくるまで何が釣れているのか分からないもの。「あ、何か竿が重い。何か釣れてるみたい......」の瞬間からどきどきが始まる。少し怖い。変なものがかかっていやしないか。リールをぎりぎり巻くとともに、海面に近づくゆらゆらの大きな影......きゃあ!(マトダイとか)

 おっとそうだ、これも今思い出したのだが、子どもの頃、琵琶湖近くの川、深い淀みで大物を引っかけたものの、上げてみたら小犬の死体だったという経験がある。竿をほっぽり出して友だちと逃げたなあ。あれは怖かった。

 犬でさえ恐ろしいのに、これがヒトだったらどんなに? と震える。レイモンド・カーヴァーの小説には、釣り仲間の男たちがやっと辿りついた山奥の川でさあ、という時に少女の水死体を見つけてしまうという話があったなあ。男たちは、でもまあひとまず釣りを始めてしまうのだ。だってもう死んでるから。死体が流れないようにナイロンひもで岸辺の木に結わえつけるくらいの手当はちゃんとして。しかし帰宅後、妻にひどく怒られる。「彼女は死んでた・・・・んだ」と夫。「それでもやはり彼女は助けを求めていたのよ」と妻。「しんでた。わかるか?」......どこか夫のほうを味方したくなる自分がいる。これもまた釣り人=外道説。(*「 」内引用、村上春樹訳)

 さあさて、ぼくがよくするフライフィッシング、ドライフライでの釣りは、水底から何が出てくるかわからない、ということがまずありません。なぜなら、水面に出てくる魚を釣るものだから。エサに食いつく瞬間の魚が見られる稀有な釣りなのだ。

 フライフィッシングのイメージは以下のごとくである――――長くなるかもしれない。

 5月。深い山、新緑に囲まれた渓谷。冷たく澄んだ水が流れる川。空中に舞っている水生昆虫は......モンカゲロウだ。英語ではMayflyと言う。メイフライ、美しい名です。昨夜作ったカゲロウタイプのフライ(毛バリ)を無論付けている。フライフィッシングはそのフィールドで魚たちが何を食べているか推理するところから始まる。このフライで釣れなければ、カディス(トビケラ)やストーンフライ(カワゲラ)などに替えていく。さあこれからこの清流にウェイダー(胴長)を着て、ロッド(竿)を振り振り、一歩ずつ上がって行くわけである。気持ちはロバート・レッドフォードの映画「リバー・ランズ・スルー・イット」なのだけれど、あのアメリカの広大な河ではなく、こちらは繁った木々の下の渓流であるから、ハリを木々の枝に引っかけぬよう短めに、ひゅん、ひゅん、という感じでライン(糸)を振っての沢登り。

 おお。10メートルほど先、ゆるやかな流れにぽつんと輪ができ、水紋が広がっている。まさに魚の食餌行動であり、われわれはそれをライズと呼び、輪っかをライズリングと言う。ぽつん。ぽつん。魚は基本上流に顔を向けて泳ぎ、産卵や羽化などで流れてくる昆虫を待ち、食らいつく。それでできる水紋がライズリング。フライフィッシャーが求める幸せのリングであり、ぼくの師匠の言では「食う気まんまん」のうれしいサインだ。

 そのリングの1メートルほど上流をねらい、ひゅーんと静かにかつ絶妙なキャスティングで投げる。あたかも今飛んでいたカゲロウがひらりと水面に降りたかのような見事な毛バリの着水。フライは羽虫のようにぷかぷか流れ、ごはんだ! と見定めた魚の鼻先を行く......ぱくっ! その瞬間ロッドを上げ、口元に針を引っかける。欺されたと知った魚があわててふためき、ロッドがしなる。けっこう大きいようで、あとはリールで巻いたり出したりのやりとり。しだいにこちらに寄せられてきた魚を見れば、尺ヤマメ、ひれピン(ひれの綺麗な天然のもの)である。背中からランディングネットを取り出して見事にゲット――――

 と、以上が私の好むフライフィッシングのイメージであります。やはり長くなった。

 問題は、これが理想形に過ぎず、そうたやすく経験できるわけではないという点にある。

 魚は敏感で、臆病で、じゃばっと音でも立てようものなら金輪際出てこない(特にヤマメは実際に何時間も隠れているなんてことがある)。とても慎重でセレクティブで、妙なフライ(形も大きさも流れ方も)には食いつかない。ハリはすぐに前後の枝や葉や草や小石に引っかかる。無理に取ろうとラインを引っぱるとちぎれる。木をがさがささせている間に魚は逃げる。漫画「ピーナッツ」に凧食いの木というのがあり、チャーリー・ブラウンやライナスを嘆かせるのだけれど、毛バリ食いの木も確かに存在するのだ。有名な釣り場にはフライが鈴なりのようにぶらさがっている木がある。中には一度も着水できず、宙に浮いたままの無念のフライもあるはずだ。

 装備を完璧に用意して、岸辺に降りたった、さあという瞬間に雨が降り出す。雨滴のぽつぽつと、ライズリングの区別がつかなくなる。水が濁って、何も見えなくなる(し、魚も食う気を失う)。

 あるいは、ここは入れ食い! との評判で苦労して山奥に入り、谷川を見渡せば行く手のあっちこっちにライズが見える。よーし、という時に、一頭のでかい鹿が駆け込んできて、その沢をどばばばばと登って行ったこともあった。あとはしーん。その場でへたりこんだものだ。雁がどばーんと飛び込んで、ぐわーと鳴き叫んだこともあったなあ。忘れもしない渡良瀬川だ。森高千里さんが歌った橋の近くですがな。

 岩手では、行く手の木にヘビが2、3匹ぶらさがっていて、そこから先に進めなくなったことも。

 もはや外道であれ何であれ、釣れたら御の字ということも多い釣りだ。けれど、だが、しかし。本当にまぐれで美しい1匹が釣れることがある。元気にライズしていた輪っかに、まぐれでうまくキャスティングができ、まぐれで「合わせ」がうまく行き、まぐれでランディングネットにうまく収まってくれ......そいつはまあとても気のいいぼんやりした1匹なんだろうとは思うけれど(本上さんの釣ったヒラマサもそんなキャラだったに違いない)、あの釣った瞬間の心臓のバクバク、ロッドの大きなしなり、手応えがもう一生忘れられないのである。くせになる。焼きつくのであります。

 もう二、三十年前、雑誌の特集から、おっかなびっくりで始めたフライフィッシング。数えるほどしかやってはいないけれど、あの川この湖の光景、同行した仲間の姿が目にくっきりと焼きついている。

 絶対欠かせないのが、地元の案内人で、彼らがまたなんとも気のいい、そして「釣り」のことしか考えていない男たち。朝から晩まで釣りの話しかしない種族だ。どこそこの淵には50センチのイワナが泳いでいたとか、誰それは橋から落ちていた雨だれをライズリングと勘違いして何回もフライを投げていたとか、お前の釣ったレインボウ(ニジマス)は去年俺が釣ったやつでそれが証拠にお腹に名前が書いてあったはずだとか、郵便局員のなんとかさんは配達中にバイクを駐めて川ばっかりのぞいているとか、湖でいいの釣ったと思ったら巨大外道のマルタウグイで、カメムシをいっぱい食べていてお腹がぼこぼこカメムシの形をしていて口が臭かったとか、どこそこのイトウは小猫で釣る人がいただとか......真偽のほどはともかく、ずっとそんな話をし続けている。そして大概あっちこっちの川が「入れ食い」であるのは、パチンコ好きが「打ち止め」の台続出の店の話をしているのに似ているなあ。プロレスファンが、どこそこの居酒屋にはレスラーがわんさかいるという話とかにも。ぼくはこういう愛らしい「バカ」が大好きなのであります。

 フライフィッシャーは、のめりこむ人が多い。一匹の「いいの」を釣り上げるために、日夜フライを巻く。そのときは釣った瞬間を想像してくすくす笑っている。いつのまにか釣りに行くより製作が楽しくなり、毛バリアーティストになったり。あるいは水のない原っぱでキャスティングの練習をする。とある知り合いたちは大晦日に集合、除夜の鐘の回数をみんなでキャスティングし続けたと聞く(それで煩悩は去るのか?)。さらにはキャスティング大会に出場し、グラウンドで遠投や的当てのチャンピオンとなった仲間も。水生昆虫の生態を研究するあまり、水槽に幼虫を飼い始めて羽化を観察、昆虫学者以上の知識を身につけて、辞典のような一冊をものにした人も。あるいは気象学や地勢研究に向かう者もいれば、さらには清き水を求めてダムや河口堰建設の反対運動や、山も守る会に身を投じる社会派になった人も。いずれにも既に魚から大きく遠ざかっているのであった。

 バカって、とても、いい。

本上まなみさんによる
「魚釣り」はこちら

澤田 康彦

澤田 康彦
(さわだ・やすひこ)

1957年滋賀県生まれ。編集者・エッセイスト。1982〜2010年:マガジンハウスにて、「BRUTUS」「Tarzan」等を編集。2015〜2019年:「暮しの手帖」編集長。2020年より家族の住む京都に戻る。近年の編集本に「戦中・戦後の暮しの記録」(暮しの手帖社)、著書に「ばら色の京都 あま色の東京」(PHP研究所)、「短歌はじめました。」(穂村弘、東直子との共著、角川文庫)など。最新刊は「いくつもの空の下で」(京都新聞出版センター)。京都暮らしのお気に入りは、入山豆腐店の朝イチの豆乳、美山の由良川。

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