第10回
お酒
2021.01.15更新
恥の多い生涯を送って来ました。
太宰治『人間失格』、「第一の手記」冒頭の沁みる一文である。
ぼく自身はというと、プライド、見栄に気の小ささも手伝って、振り返れば「恥をかかぬよう、かかぬように」と日々唱え、それを最上位の価値観として生きてきた者だから、まあ大きな怪我はなくやってこられた。といっても、六十数年の人生であるから、振り返ればまあ五つや六つ、十や二十、百や二百はすぐに思い出せるいまわしき出来事......って、けっこう多いがな。
なかでもお酒についてはあれこれ。いや、酒の失敗なるものは記憶が定かでないものが多いから、あれこれどころか実際は膨大な数となっているかもしれない。なんといっても四十数年飲み続けてきたわけだから。これは恐ろしい。よく死んでないな。いま一度過去に飲んだあらゆる友人知己に連絡をして、サワダに無礼はなかったか、粗相はなかったか、不義理、無心のたぐいはなかったか、犯罪まがいの行為は? なんて聞いてみる手法もあるのだが、いい結果にならない気もするし、そもそもたいがい相手も飲んでいたはずで。
かつてしろうと短歌会を作って遊んでいた頃、友人の絵本作家が「ワイン」のお題で、こんな歌を詠んだ。
ワインならまかせなさいと云い乍らグラス倒すかこのタコおやじ もとしたいづみ
当時、わはははいるよなあ、とのんきに◎をあげたものだが、今思えばあれはぼくのことではなかったか?
時がたち澱が沈めばひとゆれで澱が又たち又待たされる 中村稜
そうだよねえ、いい味出てるねえ、古いボルドーワインは慎重に扱わないと......なんてあの頃共感していたけれど、若いリョウくんは、ぼくのいちいち「待て」「まだだ」「今ボトルゆすったな!」という口うるささを皮肉ったのではなかったか?
片や僕の詠んだ、
「フリュート」と
ふ 音 美しきシャンパーニュグラス壊せり 終わり始まる 澤田康彦約束を二十分過ぎ二杯目のミュスカデの先 夏月浮上 〃
といった"讃歌"とは明らかに違うテイストだなあ。怖い怖い。
ちなみに、このときの傑作、怪作は以下の通り。
「お母さん。結構イイの飲んだでしょ」オッパイ飲みつつ
我娘 が語る もとしたいづみ空豆もとろとろねむれシャンパン日和ひなたのにおいに顔をうづめて 吉野朔実
蜩真昼の指先がシャンパンに氷を入れたのは秘密 〃
届かない いくつも信号 いくつもの グラスとワインとグラスのむこうに ねむねむ
君が飲む赤い灯火をめざす我テーブルクロスの波を渡りて 〃
グラス底くるくる
円 を描きながら「ねこがほしい」と上目づかいに 欣末子晩秋の夜のたき火に赤ワイン冷えないようにグラス抱きしめ 坂根みどり
みんないいですねえ。......って話ではなかった。さてところで、しかし! と慌てて断っておくぼくだけれど、けっして酒癖の悪い人間には非ず。むしろ飲んでもそんなに様子の変わらない、しいていえばどんどん陽気になっていく評判のいい酔い方で、それが証拠に上のような短歌会も酔った勢いで始めるわけで、そういうのは何上戸というのだろう、基本的には楽しいお酒(のはず)、やっぱり誰かに迷惑をかけたことはない(はず)。
飲み方を知らない学生の頃は、吐きに吐いて、あちこちの便器に顔をうずめ、時には路地で、プラットホームで、野原で、異国で、その苦しさに涙をちょちょぎらせて「もうダメだ!」なんて思ったものだったけれど、社会人になってからはむしろそういう人の世話をする方だったし。最後に吐いたのは、えーと一昨年か(って、けっこう最近やがな)。
記憶が定かでないことが多い、とは書いたけれど、なくすほどの経験はない。そういう飲み方はやっぱり避けたいものだ。ミステリーにもよくあるね。飲みすぎて翌朝起きたら自分が犯人かも?......なんてやつ。あれはいやだ。ウィリアム・アイリッシュや。ってそんなええもんか。
年上のキャリア女性Aさん。とてもカッコいい業界人で、誰もが憧れる存在。でもただひとつ問題があって、お酒を飲むと記憶をなくす。ある朝目を覚ますとベッドですっぽんぽんだった。脱いで寝たらしいが、洋服がない。どころか下着もない。昨夜は友人と飲んでバイバイして電車で帰ったはず。あわてて道路に出てみると、道ばたに、下着、くつ、スカート......が。家に着く前に脱いでいったらしい。駅に向かう歩道に、高級ブランドが脱いだ逆に点在していたという。
カラんで記憶をなくす友人もいる。ふだんは陽気なBちゃんだが、飲むと切れることも多く、ぼくはおしぼりを投げつけられたこともある。Cくんの誕生会では何に怒ったのか「死ね!」とののしった。Cくんは翌日も「誕生日に死ねと言われたんだよ」と悲しんでいたけれど、当の本人はなんの覚えもなく、昨日は楽しかったねー、とただご機嫌の人だった。
ぼくがそんなふうに記憶を失う酔い方をしたのは(って、あるのか!)、一人暮らしだったとき。結婚する前、ずっと昔のことだけれど、お酒の強い友人女性とレストランに行き、2軒目のバーでもしこたま飲み、まだ飲み足らずに、勢いで「うちに来る? けっこう近いんだよ」ってさそってみたら、「前に行ったよ」と彼女が答える。「え、うそ!」「やだ、覚えてないの!?」「そんな記憶はない」「サワダさん相当酔ってたもんなあ」「そんなわけない。じゃ部屋の間取り書いてみろ」。そしたら、さらさらっと実に正確に書かれてしまったのであった。ベッドの配置まできちんと。がーん。慌てて「あ、あの、何かの無礼はなかったでしたか?」と、です・ます調になるサワダ。「なかった。おいしいみそ汁を作ってくれたよ」。ほっ、よかった。「昆布、カツオでやたら丁寧に出汁とりして、作ってくれたよ」。ああ、彼女はほんとに来たんだなあ、と確認せざるをえなかった。ぼくは確かに丁寧な出汁とりをする。
結局飲みすぎるときってどういうときかと言うと、おいしいお酒があるとき、ではないのだ。それは本上さんのようなあまり飲まない、飲めない人の場合。本上さんは、しっかりちゃっかりとおいしいものを見極めて、たとえばブルゴーニュの「結構イイの」を開けたときなどはよくお飲みになり、あとで赤ら顔になって、なんか頭がくらくらしてきた......とつぶやく。一方、ぼくら飲む人は一緒に飲む相手がたくさん飲む人だった場合が危ないわけだ。
たとえば、ぼくなどは普通にワインボトル1本くらい空けられて、それでまあだいたい満足となるわけだけれど、もう一人の酒飲みの友人が同じように飲む人物だった場合、1+1=2本で終わることはない。机上の数学、数式では表しにくい、天文学がはいってくるような計算となるわけである。前に友人が家に来たときがそれで、妻が言うにはぼくは「じゅうたんの上で寝たまま吐いた」。学生だ。
一昨年は、おっさん3人で、スペイン料理店で飲んだ。テレビ関係の知り合いで、今のテレビの仕事について話すなかで大コーフン、メートルが上がり次々とワインボトルが空く。ぼくが仕切っていたためよく覚えているが、その数9本+ビールがチェイサー。午前になる前、へろへろになってそれぞれ帰宅。あとで聞けば、一人は新宿駅の階段で眠りこけて駅員に起こされ、もう一人はタクシーで昔住んでいたマンションに帰ってしまったという。
こういうことを書き出すときりがない。
今ぼくがあまり飲まない、粗相がないのは、コロナ禍のため家にいるせいである。ほとんど飲まない妻、全然飲まない子どもらとごはんしているからだ。飲まない人たちといると飲めないもんだなあ。一本のワインも三日がかり。盛り上がらないにもほどがある、つまらんにもほどがあるわけだけれども、それはそれでありがたいような。
だいたい飲まない人は冷静なんだよね。妻が言うには「飲んでる人って、もう入ってないビールの空き缶をまた注ごうとする、話しながら同じ缶を二回も三回も四回も」。そうかそうだよなあ。あれみっともないよね。あと「明らかに二日酔いなのに、そうでもないふりをする」。うう。
このぼくもごくたまにお酒を飲まない日があって、その日はなんだか「良いことをした」って気になるのはなぜだろう? なにかの拍子に二日目も飲んでないなんて日にはもう大得意。それがもし三日続くとなると(めったにそんなことにはならないのだけど)、完全なる健康体になった気がする。昔自転車で転んで肋骨を折り、一週間入院したときはそれだった。骨を折っててもどんどん健康になってる! なんて気がしたものだ。
こうして書いていくうちに気づいたのだが、心に残るお酒の思い出ってろくでもない話が圧倒的に多く、逆にあれはおいしかった楽しかったというのは残らないもんだ、と。だって、ぼくが初めて飲んだロマネコンティの美味しさについて、誰も聞きたくはないよねえ? ダメなお酒の記録の方がブンガクになるのだ。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、......神様みたいないい子でした」
『人間失格』のラストの文章であります。