一泊なのにこの荷物!

第12回

ひとり暮らし

2021.03.15更新

 ひとり暮らしについて思いを巡らすと、いちばんによみがえるのは、十八歳の頃、滋賀県の実家から出たくて出たくて出たくてたまらなかった、あの気分だ。

 冬のどんよりとした空、厳寒の土地。太陽が照りつけ、風の吹かない盆地の暑い夏。作家・色川武大が『怪しい来客簿』で「いやな山」「大地の病巣のよう」と悪口を書く伊吹山いぶきやま が見える土地。見渡す限りの田畑、アブラハヤやドッチマンと呼ぶ魚(ドンコ)が泳ぐ川。で、「やんけ」「してはる」「あんない(=まずい)」「おきばりやす」「先生がござった」......ねっとりした田舎の関西弁が飛び交う風土。本屋は駅前に一軒、レコード屋も一軒、映画館はピンク専門が一館という町。ビートルズを知り、プログレにはまり、フランソワ・トリュフォーを知り、ジャクリーン・ビセットに憧れ、『宝島』『話の特集』『スクリーン』を愛読していた青年は、毎日ただただ「はぁー」とため息をついていたのであった。滋賀県にはジャクリーン・ビセットはいない。いや東京に出てもジャッキーはいるはずもないのだけれど、東国の大都会には全部そろっているように信じていた。遠く東京の深夜放送を聴いていた。ソ連のラジオに負けないくらいに遠かった。

 風土以上の問題は家族だった。両親と祖母、七つ上の兄と次男のぼくの五人。江戸時代の建築、築二百年と言われる茅葺きにトタン屋根をかぶせた民家に暮らす。廊下のない田の字型の家で、部屋から部屋へ渡り歩き、そこそこ広いのにプライバシーはなかった。戦争はもう十数年前に終わっていたのに、まだみんなで寄り添うように生きていた。近所も親戚の人もひっきりなしにやってきて「やっちゃん、がんばっててくれてるかぁ」なんて声をかけてきたりした。どこかの子どもが遠慮なく部屋に飛び込んできた。きゃつらがぴょんぴょんするとレコードの針がとんで、大いに憎んだ。

 そして、やっと家についた待望の黒電話。これは居間にでんと座った。誰としゃべっていても会話は筒ぬけ。祖母や母が近くにいて、切ると必ず「誰や?」と聞いてきた。ぶしつけでいやだった。奇跡のようにカノジョができた高校生のときには特に耳をそばだてて、そのあと「誰や?」。甘い話などできやしない。長電話なんてできようはずもない。つまりは居間に鎮座したわが家の電話、カラんでくる肉親こそは、近江の里の空気以上に青年がひとり暮らしを求めた大きな要因であったろう。

 東京の私大の仏語科に奇跡的に受かった。1976年4月、晴れてひとり暮らし開始! 最初の住まいは東中野の木造アパートだった。どうでもいい話だが、この前年、本上さんが生まれており、本上一家もまた東中野で生活を始めている。ひょっとしたら駅前かどこですれちがっていたかもしれぬ。

 さて、わが新居は二階の1DK、風呂なし。引っ越しには勉強机と椅子、ステレオ、本やレコードを送った。今思えば持ち物は少なかったな。まだ十八歳だものね。本が2箱、レコードは数枚、洋服も靴もほとんどない。ついでながら体脂肪も少ない。今より15キロ痩せていたなあ。

 入学式には両親も来た。過保護の母は近所の家具屋で炊飯器、調理道具、弁当箱、食器なんかを買いこんだ。が、その後も結局ほとんど使うことはなかった。その後、米もたびたび送ってくれたが、外食が多いため、いっこうに減ることなく、そのうち虫がわき、成虫となり、彼らも外に飛び立った。

 要するに結局、甘やかされて育てられた、だめだめで身勝手な次男坊であった。今思えば、私大でひとり暮らしなんて、親はよくもまあ欠かさず仕送りをし続けてくれたものだ。しかも6年も。そう、この次男坊は2年も留年することになるのであったが、上京当時はそんなことを知る由もない。

 とことん自由ではあった。映画館が、劇場が、大きな書店が、おいでおいでをしていた。不自由なのは授業や宿題だったが、すぐによい手を思いついた。行かなければいいのだ。そのへんのお手本はいっぱいいた。太宰治、北杜夫、野坂昭如、五木寛之、井上ひさし(学科の先輩)......なぜか学校にあまり行かない、退学や中退をする作家に引かれた(なぜだろうね?)。留年することになったのはきっと彼らのせいである。

 例えば太宰の「逆行」の中の一編「盗賊」を思い出す。書き出しはこうだ。

 ことし落第ときまった。それでも試験は受けるのである。甲斐ない努力の美しさ。われはその美に心をひかれた。今朝こそわれは早く起き......

 カッコいいなあ。主人公はフランス語の試験を受けるのだ。

 われはフランス語を知らぬ。どのような問題が出ても、フロオベエルはお坊ちゃんである、と書くつもりでいた。

 カッコいい。青年(ぼく)はひたすら憧れた。今思えば『逆行』にはサエない主人公が次々登場するが、サエないカッコよさがあった。それが無頼派。ぼくの場合はただサエないだけなのであった。

 マルイで洋服を買うようになった。「都会で流行りの〜♪」と『木綿のハンカチーフ』なんかを脳内のBGMにし、高価なDCブランドを10回に分けて。赤いカードのマルイは3万円のシャツをひとまず3000円で譲ってくれる太っ腹なのだが、学生との契約時にはその場で実家に電話確認をすることがあった。電話の向こうの母は心配そうに「あんたまたニチイかいな」と言った。「ニチイちゃうし。マルイやし」「月賦はあかんで」「月賦ちゃうし、クレジットやし」

 授業には出ないくせに部活は映画研究会に入り、それには励み、酒を覚え、夜はいつまでも起き、朝は眠り、本を読み、レコードを聴き、ラジオを聴き、リクエストのはがきを書き、落語を聴き、映画館に通い、パンフレットを買い求めた。バイトは家庭教師や、雀荘のボーイ、収入はほぼ全部本、映画、レコードに消えた。特にレコードは高かったね。シングルレコード600円、LP2500円とかは高いよ。背伸びして友人と行ったパブではウイスキーのボトルキープをした。もっとあとのバイトでは本の雑誌社に勤め、椎名誠の探検隊のドレイ隊員になったりしたが、こちらは遊びなので給料は出なかった。が、ご飯はたんと食べさせてもらい、酒は大量に飲ませてもらった。こんな気前のいい大人になりたいなと思ったが、こんなにビールを飲むようになってしまったのは椎名誠のせいである。

 東京の夏は、滋賀ほど暑くなく、冬はからりと晴れ、いよいよ郷里は遠くなった。冬が明るいものだとは知らなかった。雪の降らない冬があるなんて!

 確かにひとり暮らしは自由で気ままだった。しかし、これはぼくの生来の「だめだめ」を目覚めさせ、加速させるものに過ぎなかったと振り返る。家族といた日々は、少なくとも大変規則正しく、社会のルールも世間体も守り、お日様とともに暮らしていたのであった。

 一方で、お日様と仲良くない仲間もいて、それが近く早稲田の街に下宿する保育園からの幼なじみ、浪人中のシロキ君。ぼくらは互いの部屋をしょっちゅう行き来した。当時の手帳をぱらぱら見ると、見た映画や読んだ本が克明に記されているが、加えてシロキとの将棋の対戦成績も書いてある。「○月×日 白木と将棋。138勝1敗」って、どんだけひまだったのだろう。いやその前にシロキ、どんだけ弱い。そしてこの「1敗」は何があったのだろう?

 彼もぼくに負けず劣らずのだめだめ次男坊で、やっぱり坂口安吾の全集を揃えていたりして、無頼派を気取っていた。ぼくが「生まれてすみません」と言うと、シロキは「生きよ堕ちよ」と応え、二人でパックマンやインベーダーゲームをはしごしていた。マジな意味で、生まれて堕ちてすみません状態であった。「あかんようになったらブラジルに移住するねん」がシロキの口癖だった。そして判で押したように「明日からがんばる」と言った。よーしと言いながら、ガムテープで小さなラグビーボールを器用にこしらえ、マジックで「GUTS」と書き、またどこかへ遊びに行くのだった。

 中野坂上のアパートから西新宿のマンションに引っ越したのは、大学5年生のときだ。中野武蔵野館で映画を見た帰り、ブロードウェイというショッピングモールを歩いていたら、ペットショップで子猫と目が合った。茶トラであった。茶トラと言えば、見たばかりの映画『ロング・グッドバイ』でエリオット・グールド演じる探偵フィリップ・マーロウが飼っていたではないか。原作者レイモンド・チャンドラーが猫好きだったため、ロバート・アルトマン監督はそんな設定にしたのだと言う。カッコいい映画だった。猫を飼う探偵なんて! マーロウは切らした猫缶を買いに、やれやれと外に出て、深夜のロスの街を車で走る。壁や家具で勝手気ままにマッチをすってタバコに火を着ける。そんな仕草全てに憧れていたぼくは「この猫を飼おう!」と決めた。おっちょこちょいの東洋級チャンピオンであった。

 茶トラは「ハジメ」という名にした。天才バカボンの弟の名前。賢い子に育ってほしいからね、なんて思ったのだ。その日から映画のマーロウと同じようにひとり暮らしではなくなった。気持ちはハードボイルドだったが、どこからどう見ても、単にチビ猫を飼う頼りない長髪の大学生だった。しかし就職を意識し始めた青年は、やや心を入れ替え、というか焦り、真面目に大学に通い出し、ハジメという猫とは男同士けっこう仲良く暮らすのだった。

 おお。今気づいたのだが、いつも以上に原稿がだらだらしているな、と。ミシマガジン、字数制限がないのも考えものである。ひとり暮らしについてはまだまだ書けてしまって困る。読む方はもっと困る。このテーマを選んだ本上のせいだ。いったんここで切り上げる。

 ハジメの話だけしとくと、13年一緒に過ごして、お別れとなった。けれどその後もずっと夢に出てきた。日を追うにつれ、関西弁で言葉を話すようになった。ぼくの兄が仕事に失敗したときも、ハジメは夢で「兄弟でタコ焼屋をやったらええねん」と真摯にアドバイスしてくれたものだ。ありがとうね、ハジメ。

 こんなふうにいつも一緒にい続けてくれたが、ぼくに子どもができたとき、急に現れなくなった。なんか気をつかっているのかもしれないな、と思うのである。

本上まなみさんによる
「ひとり暮らし」はこちら

澤田 康彦

澤田 康彦
(さわだ・やすひこ)

1957年滋賀県生まれ。編集者・エッセイスト。1982〜2010年:マガジンハウスにて、「BRUTUS」「Tarzan」等を編集。2015〜2019年:「暮しの手帖」編集長。2020年より家族の住む京都に戻る。近年の編集本に「戦中・戦後の暮しの記録」(暮しの手帖社)、著書に「ばら色の京都 あま色の東京」(PHP研究所)、「短歌はじめました。」(穂村弘、東直子との共著、角川文庫)など。京都暮らしのお気に入りは、入山豆腐店の朝イチの豆乳、美山の由良川。

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