第13回
もうだめだ
2021.04.15更新
もうだめだ! の瞬間は、何十年も生きていると、大なり小なりいくつもあって、よくもまあ生きながらえてきたもんだ。
と、大げさに書き出してみたけれど、死ぬかもといった経験は「山」の巻で書いた若い頃の槍ヶ岳〜穂高岳縦走以外には思い当たらぬことに気づいた。基本、慎重・臆病な性分なのだ。「自転車」の巻で書いた電動アシスト付きママチャリに乗り、猛スピードですっ転んで肋骨を4本折った怪我を「もうだめだ」のカテゴリーに入れてはいけない気もするし。でも実に激痛だったのだよねー。あの転倒の瞬間は、小さな「もうだめだ」としとこう。
本上さんのエピソードを読むと、世界各地でいろんな「もうだめだ」を経験してるんだなあ。いいなあ。いやよくはないだろうけど、華麗な「もうだめだ」だね。海外は確かに魔物が口を開けて人を待つ。
ぼくの数少ない海外での「もうだめだ」を語れば、ニュージーランドだな。『ターザン』のフライフィッシング特集のロケ、釣りの師匠の小野
帰るべき宿は二つ三つの山の向こう。昼間は単純で分かりやすい道路も、夜のとばりが降りるともう真っ暗。街灯はゼロ、標識もなく、あってもよく見えず、行き交う車は一台もない。この世にこんな暗い夜がまだあったのかというほどの闇のなか。しかもガソリンが残りわずか。こちらの胃袋も空っぽで、おなかが鳴る。山が徐々に冷気に包まれる。
ナビのない時代、地図も「わかりやすい道だから」(小野)とぺらんぺらんのチラシみたいなものしか持たず、「ぼくは勘がいいんで」(小林)という言葉を信用したのが敗因。運転するのはぼく。後部席の二人が口々に「あ、そこ右です」「そのあとまっすぐ」「左です」......わからなくてもはっきりした物言いをする男たちであった。未知の田舎道を右に左に......わっ、行く手に目が光る!「オポッサムだよ」と小野師匠。「タヌキみたいやつ。毛バリのいい素材になるんだよ」。「あ、そこたぶん右です」と小林。たぶん? といぶかしんだものの、道はそのあとただまっすぐ。奥の林で今度はさらに大きな目がいくつも光る。わあなんだなんだなんだ? 「鹿だな」と小林。鹿の目って怖いもんだ、さっきは師匠が「わあ」と脅かして申し訳なかったです、鹿の王様ごめんなさい、なんて詫びながら、ニュージーランドの本物の"暗闇坂"を走り続けると三叉路に出た。こんなとこ見たことないな......ねえ、ここはどっちに? と二人に尋ねるも、返事がない。どっち!?......しーん。仲間がいなくなった? あわてて車を駐めて振り返ると、寝ている! 二人とも寝ている。ぞっとした。寝不足の日々、無理もないのだけれど、ガソリンはもう「なくなりますランプ」が点灯。スタンドは日中、市内にしかない。寝る場面ではない。このままいたずらに車を走らせたらすぐガス欠。JAFはない。当たり前。あっても携帯電話もない。あってもどこにかけたらよいかわからない。ぼくらは異国の広大な、オポッサムだらけの山道を懐中電灯も持たず、方向のわからぬままトボトボ歩く羽目になるのだ。もうだめだ!
こらっぁ起きろー! 「え〜?」「むにゃむにゃ」「着いた?」「はらへった」。のんきな二人を叩き起こし、ぺらぺら地図とにらめっこ。どうやって宿に辿りつけたのか、今でも奇跡としか思えない。夜遅くの宿のシチューのおいしかったこと。ごっつい宿のおかみさん(早く片づけて眠りたい人)にものすごく怒られるというおまけもついた。
翌朝、小野師匠が「あんなのたいしたことない」とうそぶいた。「死ぬわけじゃないし」。釣りをしているとしょっちゅうあるんだよ、と小野。前に東北の山中でスコールに出遭って、それでも仲間と釣りを続けてたら、突然ごおっと大きな音立てて鉄砲水が出た。大慌てで釣り竿を放り出し、みんなで逃げた先が一本ずつの木。それぞれの幹に抱きついて一晩過ごしたという。真っ暗な中、時おり「おーい、生きてるかあ?」と無事を確かめ合ったとのこと。ああ、これも「もうだめだ」の例。というか「ただだめな人間」って感じだね。
そういえばもうひとつある、と小野師匠。ぼくらが今いるニュージーランドの川べりは私有がはっきり区切られていて、たとえ釣りで川に入っても、勝手に岸に上がったら不法侵入になるんだよ。前に来たときはそれと知らずに誰かの所有地の庭を横切ることになって、そしたらその家の主人が烈火の如き形相で飛び出してきた。手にはライフルを提げて。広い庭を逃げたら四駆のベンツで追ってきたんだ。あれ撃たれても文句言えないらしいぞ。うひゃあ、昨夜、
異国で道に迷うことが実に怖いもの、文字通り途方に暮れるものであることを知った経験だったが、これらは自らの身の危険、忍び寄る死の気配にビビった必然的な反応である。そうではない「もうだめだ」もある。
まだ娘が4、5歳の頃、品川駅前、大勢の人混みの中で迷子になったとき。あれはどこの帰りだったか、夫婦と娘の三人での旅。駅頭でタクシーをとめる。あとで気づくが、大人が二人いるという状況の方が子どもは危ういのだ。なぜなら相方が子を見ているものと互いに思いこんでしまうから。夫婦で大荷物を積み込み、さあというときに「あれ、ふうたろう(仮名)は?」「え? 知らない」......「見てなかったの!?」は二人同時に発したセリフ。その一瞬で高まった動悸の大きさたるや! あのバコバコ脈打った心音は今も忘れない。瞬時にアブラ汗が流れ、耳の奥がきーんとなり、胸が苦しくなった。大河のような人の流れのなか、ちっぽけな幼児をおろおろ探す。見当たらず。先に歩いていった? クルマに轢かれてない? 誘拐? 悪い想像ばかりが去来する。どこかでブーッとクラクションの音。子どもの泣き声が聞こえるが「あれはちがう」と妻。警察? もうだめだ!
時間にしてたぶんほんの二分後に発見。タクシーに乗ることを知らず、娘はとことこ歩いてしまい、しかもいたずら心で物陰に隠れていたのであった。よかったー。娘は娘で半泣き、妻も目に涙をため、母子は家路をたどるタクシー内でがしっと抱き合っていたことを、昨日のことのように覚えている。
「もうだめだ」は命に関わるものとは限らない。まったく別種の「だめだ」をあと一つ。
十年以上前のことだが、作家の林真理子さんが毎春主催されている桃見ツアーにぼくら夫婦も招待していただいた。各出版社が回り持ちで幹事を引き受け、大型バスをチャーター、林さんの故郷・山梨の桃源郷に押しかける旅。代々木公園の待ち合わせ場所に妻といそいそ現れると、大勢の同業者がいる。当時のぼくはマガジンハウス書籍部の編集長であった。○○社、○○館、○○書店......知っている人、初対面の人、日頃はライバルの大手出版社の編集長や編集者たちが仲良くにぎにぎしく歓談する。すごいなあ林さん! と大いに感心しつつ、ビールをいただきバスに乗り込む。ぽかぽかと上天気、春の朝に飲むビールはうまいなあ。おかわり! バスは出発。林さんの挨拶に続き、修学旅行のようにマイクが回され、わいわいと自己紹介。へえ林さんには弟さんがいるのか。お姉さんに似ているなあ。面白い人。新潮社の中瀬さんはさすがに話がうまいなあ。わがマガジンハウスの有名人、鉄尾はぶっきらぼうななかに気のきいた挨拶するなあ。カッコいいな。よーしぼくも面白いこと言うぞーと張り切るも、すべる。まあそんなことも含め、とても楽しく、バスは中央自動車道を進んでゆく。かつてユーミンさんが歌った中央フリーウェイ、滑走路をすべるようにひた走る......はずが、あにはからんや高速道路は渋滞中なのであった。
高井戸から調布を越え、そして府中あたりでぼくにじわっと襲いかかってきたもの......それは尿意! うわあ、調子に乗って2本も飲んだ缶ビールが敗因だ。朝もコーヒーたっぷり飲んだし。これはまずい、まずいですよ。次のパーキングは談合坂、まだ四十キロほど先だ。どんどん下腹部にプレッシャーが押し寄せる。寄る年波か膀胱が小さくなっているのかもしれぬ。もしも、もしもここで粗相をしたらどうなる? 大勢の編集者環視のなかで漏らしたら? わ、ここには週刊文春がいるぞ、新潮もいるぞ、フライデーはいたっけ? もちろん林真理子もいるぞ。隣には妻がいるぞ。妻に恥をかかせるわけにはいかないぞ。どんな形であれ、面白い記事になっちゃうぞ。全誌に出ちゃうぞ。出ちゃったことが出ちゃうぞ。「マガジンハウスの編集長、漏らす」の見出しが躍る。もしかしたら、ここは、世界でいちばん漏らしてはいけない空間ではないか!
考え出したら尿意というものはさらに高まるものであることを誰もがご存知であろう。恐怖にとらわれたぼく。精神統一。滅私奉公。雲散霧消。四文字熟語を唱えつつ黙りこんでいると「どうした?」と聞いてくる勘のいい妻。なんでもない、酔った、眠いとウソを言う。日野。八王子。相模湖......ええい、なんで中央フリーウェイはこんなに長い? 何が滑走路だ。そうだ、いざとなったら目の前の空き缶×2本にこっそりするか? しびんはないのか?(あるか!) おおこんな真ん中の座席に座るんじゃなかった。のろのろ進むバス、流れるアブラ汗......もう、だめだ!
結局、粗相をせずにすんだのは、これもまた奇跡であった。バスはゆっくりと談合坂サービスエリアに入り、停車。ドアが開くと、降りた編集者たちが、どっとトイレに走った。なんだあ、みんなそうだったのかあ! その焦る後ろ姿を見たら尿意がちょっと引いた。そんなもんだよねえ。
以上、本稿を、担当さんに送る前に妻に読ませたら、「シモネタで終わるのか」とツッコまれた。