一泊なのにこの荷物!

第14回

ちょっといい感じ

2021.05.15更新

 ツーピー、ツーピー。シジュウカラのかしましい声に目覚める。まだ5時過ぎだが、夏至に向かう季節はすでに明るい。昨夜は早めに就寝したので、それでも7時間ほど眠ったことになる。目覚めすっきり。おなかが空いた。書斎兼用、自室のベッドからしゅたっと素早く出て、隣室で家族3人がくっついて眠っているであろうその脇を静かに歩み、階下へ降りる。気温16度、湿度は50%。からっとして、しっとり。Tシャツ姿は肌寒いが、ここは少しがまんする。ちなみに今朝のシャツの絵柄は昔入手した『マルホランド・ドライブ』。ああ、あの映画のナオミ・ワッツは素晴らしかったなあ。

 「ツーピー、ツーピー」以外は静かな京都の早朝。いちばんにするのは小用で、たっぷりと出る。「ぜんぶ出るから気持ちいいよね」。友だちの作った詩の一節をこの時いつも思い出す。あの詩のモチーフは『ブレインデッド』というスプラッターホラーだったっけ。本当に血から液から内容物、内臓まで「ぜんぶ出る」映画なのであった。

 朝のキッチンでまずおこなうのは、コーヒーを淹れること。やかんに浄水をたっぷり入れる。よく沸いたらそれでマイカップ――アルゼンチンの国旗の顔「五月の太陽」が描かれたもの――を温め、それをサーバーのポット、さらにそれをドリップポットに移すと、理想とされる90度くらいになる。コーヒー豆は3杯分。昨日自転車を走らせ、ちょっと遠い(けど、とびきりおいしい)コーヒー店で買ってきたばかり、東ティモール産の「サステイナブル」で、これを最新の電動ミルで挽けば、むらもないペーパードリップ用の中挽きのできあがり。平たくならした粉の中心部にお湯をくるりと垂らし30秒待てば、ゴムまりのようにぷっくり膨れあがるのは新鮮の証。5回くらいに分けて慎重に注いで最高の1杯、いや3杯が完成する。

 玄関のカエデの古木、若葉が揺れるのは、2羽いるらしいシジュウカラのせいだろう。朝日に緑が映え、ぱきーんと晴れる予感の日。洗濯機をたくさん回そう。まずは白いもの、大物のシーツから。よく乾きそう。「幸せは洗濯物がかわくこと」。誰かの母上がぽつりと言ったという名文句だ。

 京都のパン屋は朝が早く、あとでクロワッサンでも買いに走ることにする。

 朝のBGMはこのところクラシックが多く、今年になってからは戦前の録音のものが気に入っていて、いにしえのバイオリニスト、アドルフ・ブッシュのベートーヴェンのソナタなんて、立原道造が聴いていたそうで、時を超え一緒に聴いている気になったりして。

 そうこうするうちに寝起きのよい娘がいちばんに起き出してきた。父を見て、「おとうさま、おはようございます」とお辞儀する。

 「ちょっといい感じ」について朝の様子を夢想してみた。ぼくの「いい感じ」なんてこんなもんだ。なんだかんだうるさく主張して生きてきたが、ささやかな朝、こんな朝が巡ってきてくれていればそれでいいのであった。

 が、むろん、しかし! 現実はこうじゃない。現実の朝はもっとざらざら、ぎくしゃく、どたばた、かすかすしている。ストレスフルで、なんでやねん、のイン・ザ・モーニング。初期ビージーズの歌世界とはまるでちがう。ああ「若葉のころ」「メロディ・フェア」......人生はメリーゴーランド!

 シジュウカラもメジロもときおりやってきて鳴くには鳴くが、「かわっかわっ」とカラスのほうがやかましい。でなければキジバトのとぼけた「ででっぽー」。家の前にはゴミの集積所があって、ごそごそ音がするのはたいていカラスのせい。でなければ例えば水曜日などは瓶・缶・ペットボトルの日で――なぜか京都市は一袋にまぜこぜにして出すわけだが――早朝5時頃どこかの業者がごちゃがちゃかんからかんと、必要なものだけを分別してぶいーんと持ち去る。その音で目覚めてしまうのであった。でなければ、おかしな時刻に小用で起きたり。前夜ビールやハイボールなどを飲んだせいだが、それにしても膀胱のキャパは年々落ちているようで、目覚めのぎりぎりまで、トイレに行く悪夢を見る。ありとあらゆるバリエーション、過去現在、二次元三次元のいろんな人・動物・ものが出てくる。絶対に小用のできない異世界。苦しい夢。こないだは広瀬アリスまで出てきたんだよ(それはそれでうれしかったけど)。

 目覚めすっきり、なんてウソさ。物心ついてからパチッと目が覚めたことは一度もない。学生の頃からない。「もっと寝ていたいのに、もう起きなあかんねん」「とほほのほ」の毎朝だ。高校生の時に読んだ庄司薫の青春小説『さよなら怪傑黒頭巾』の冒頭には主人公カオルくんのこんなモノローグがあった――

ぼくというのは赤ちゃんの時から相当に「お目覚め」のいい御機嫌なところがあったらしいのだが、どういうわけか今でもかなりそうなのだ。そして雨ニモマケズ風ニモマケズいつでも朝の七時には元気に「お目覚め」ってわけで、(略)ほんとに時々「コケコッコー」ってやりたくなるほどだ。(略)いまだにきちんととび起きて、おはよう、ああおなかがすいた、なんて感じのことをやっている。

 小説世界の青年とはいえ、いやまったく違う仕組のカラダ、アタマ、生活習慣を持った高校生(日比谷高校!)カオルくんに相当に衝撃を受けたものであった。ああなんとしゅっとしていることよ! 憧れたまま数十年経つなあ。低血圧のせいかとも思ったが、測ってみればいつも正常値。アルコール摂取のせいか。ぼんやりと目覚め、やれやれとカラダを起こし、どっこいしょのかけ声で起き上がる。腹筋も弱っている。腰が痛い。あいたたたのぼやきもついてくる。すっきりしない。

 心地いい気候......といっても、京都が適温適湿であるのは五月と十月のそれぞれ一瞬くらいで、残りたいていはやたら寒いかやたら暑いかやたらジメついているかなのであった。よって冬は極暖のパッチを穿き、夏はパンツ姿でうろうろする。すっきりしないオレよ。

 小用も(この話くどいな)、全部は出ない。出きらない。どこか残っている感じ。いつだったか、前回のもうだめだの巻にも登場した小野訓師匠が釣行の時にもよおし、ウェイダーを下ろし土手で放尿しながら、「サワダさん、残尿感ない?」と聞いてきたものであった。当時50代の師匠は「ぼくなんかさ、やっと終わったと思って全部片づけてズボンのチャック閉めたときに、まだだら〜っと太ももに垂れてくるんだよ」と告白したものだ、「あれ気持ちわるい」と。最近はそれがよく分かる。そうならないように細心の注意をはらう。

 朝のコーヒーについても理想を書いた。家庭用のミルは挽きむらが激しく、エスプレッソかと思うほどの粉末の部分もあれば、大きなかけらが目立つ部分もあって、くやしい。お気に入りのコーヒー店も近くではなく、そうそう通えるわけではない。スーパーの豆などは買ったばかりといっても新鮮とは限らぬこともままあって、それは注いだ時に分かる。「ゴムまりのようにぷっくり膨れあがる」どころか、アリ地獄のようにぼこっと凹むから。

 洗濯。日常生活のなかで、ぼくの大きな楽しみのひとつで、単身赴任の東京では自分のものだけだったが、京都では四人分。うれしくなるほどどっさりの洗濯物で、これらを白、色物、手洗い物と分け、それぞれの扱い方で処理したあと、陽光の下、そよ風のなか、乾かしきるのである。確かに「幸せとは洗濯ものの乾くこと」......なのだが、うちの物干し場は狭い。すぐに陰る。ちょっと干したらいっぱいになる。物干し竿も1本しかなかったので、先日は実家の竹やぶから長いのを2本切ってきましたよ。工夫して、狭い裏庭に張り巡らして干している(そうだ、「竹」という素材はちょっといい感じだな)。しかしねえ、これからの季節、なかなか乾かないわけですよ。前述のごとく、京都の気候は常に"微妙"で、晴れてても小雨が落ちることがあったり、じめじめ率は高いのだ。乾かない、圧倒的に乾かない、それどころか洗濯物が臭う、雑巾臭の漂い出す、この悲しさよ。

 ついでながら洗濯について細かい話を付け加えておくと、楽しみのひとつに洗濯槽の中のくずとりに溜まった糸くずのかたまりを確認するという行為がある。多いほど舞い上がって「ほら」と家族に見せるもなかなか共感を得られない(「やだ」って!)。昔読んだ倉多江美の漫画に、お父さんが焚き火で板を焼いたあと、燃えがらに残った折れクギをひとつひとつ瓶に溜め込んでいく、そんな話があった。あれ分かる。漫画ではある日そのクギを心ない家族に「きたない」と全部捨てられて、ぼくは「わあ」と悲鳴を上げたものであった。お父さんはただ呆然と佇んでいたっけ。ぼくは糸くずを溜め込みこそしないけど、世の中にはツメやフケまでも収集する御仁がいて、さすがに「それは......」と思うものの、やや気持ちのわかる者でもある。そこには「ちょっといい感じ」の鍵があるように思う。

 ああ、朝の話だった。起き出してきた娘が「おとうさま......」と言うのはむろん夢物語。朝の彼女はぼおっと立ち、ふらふらと歩んで、昔の自分を彷彿とさせる力のなさかげんだ。父の姿など眼中になく、「おはよう」の語彙もなく、ぼんやり冷蔵庫を開け、ヤクルトなどを飲んでいる(ぼくが買っといてやったやつなんだけどナ)。しかも父が油断していると、クラシックを止め、「すとぷり」とか何とか自分のお気に入りの音楽に変えるのであった。勝手な人だなあ、と思うものの、ぼく自身がたぶん実家でそんなだったろうから何も言わないでおく。

 おお、「ちょっといい感じ」に思いを巡らすと、「すっきりしない」が先に浮上するのは本上さんの原稿と同じ。呪われた家族なり。

 けれど、少しずつ拾っていけば、実は「いい感じ」はあっちにもこっちにもあるし、あったことも事実である。幸せな人生とは言える。ふと降りてくるのだよね。もうないと思い込んでいたビールが冷蔵庫の奥から見つかったときとか。研いだばかりの庖丁ですぱっと肉が切れたときとか。東京時代、小6の娘が会社まで届けてくれたお弁当とか。川の好きな息子が「そこはサカナいないよ」との父の助言に逆らって魚網を振り続けついに藻の中から大ウグイを掬い上げたときの顔とか。サカナでいえば、フライフィッシングを友人達に教えていたときに、誰もうまく釣れない淵で「貸してごらん」と竿を一本借りて投げたら瞬時に釣れたニジマスとか。

 ああ、そういえばこないだもいい時間があったなあ。賀茂川土手、息子がサッカーボールを(「あかん」と言うのに)思いっきり蹴って川にぼちゃっ! みんなでひとしきり叱りつつ、ボールの回収へ。そこは運悪く岸辺にさえ降りられない茂った淵で、ピックアップできそうな下流まで歩いて向かう。本上さんが「あたしが」とジーンズをたくし上げて(夫をさしおき)川に勇ましく入った。深くて流れが遅いので、ボールがなかなか流れてこないまま10分経過。すると「あ!」と本上が声を上げた。なんと茂みに留まってぷかぷかしていたボールを、生息していたヌートリアがかまいに行き、鼻先でつついて流してくれたのである。

 ちょっといい感じ、でしょ?

本上まなみさんによる
「ちょっといい感じ」はこちら

澤田 康彦

澤田 康彦
(さわだ・やすひこ)

1957年滋賀県生まれ。編集者・エッセイスト。1982〜2010年:マガジンハウスにて、「BRUTUS」「Tarzan」等を編集。2015〜2019年:「暮しの手帖」編集長。2020年より家族の住む京都に戻る。近年の編集本に「戦中・戦後の暮しの記録」(暮しの手帖社)、著書に「ばら色の京都 あま色の東京」(PHP研究所)、「短歌はじめました。」(穂村弘、東直子との共著、角川文庫)など。京都暮らしのお気に入りは、入山豆腐店の朝イチの豆乳、美山の由良川。

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