一泊なのにこの荷物!

第17回

お昼ごはん

2021.08.15更新

 「ぼちぼちお昼にするか」

 ああ耳に妙なるこの響き!

 お昼ごはんが特別であるというのは、「お」のへんにあるように思う。お昼。お朝ごはんとも、お夕ごはん、お晩ごはんとは言わないもんね。

 お昼いこか。お昼なんにしょ?......ああ、ええ言葉。

 朝ごはんについては、前に「あさごはん」の巻や「ちょっといいかんじ」の巻で書いたけれど、お昼ごはんの"いいかんじ"については忘れていたなあ。64年間生きてきて、赤子時代を除けばまあ60年分、つまり2万回以上「お昼」を摂ったことになる。生活時間が乱れに乱れた大学生や雑誌編集者時代だって、朝は抜いてもお昼は食べていたからね。

 あんな夜こんな夜があったけれど、それ以上にこんなお昼あんなお昼はもっといろいろあったのだ。『百億の昼と千億の夜』というSFがあるけれど、逆のような気がする。千億の昼ごはんがあるのだ。お昼は夜と違って外が明るいのもよいよね。おお当たり前のことを書いてる。

 超のつく偏食児童で6年生のお姉さんを脇に待たせても食べられず、時には5時限目まで持ち越した給食。関西ではかしわと言った鶏肉のその呼び方からして嫌だったお肉のぶつぶつの皮のうす気味悪さ。かき玉汁にげんなりし、脱脂粉乳にうんざりしたこと。食パンは真ん中だけ食べ、回りを残した「回」の字型の耳をいつも持って帰った。給食袋はだからいつもパンのにおいがしていた。今思い出してもふんふんと鼻先に立ちのぼる。パンの耳は母がときどき揚げて砂糖をまぶしてくれる。そうなるとポリポリ食べた。

 中学生になると偏食はなくなり何でも食べた。痩せたままひょろひょろ背だけ伸びた。給食を早く食べ終わり、仲間と連れだってゲラ(すぐ笑う人)のクラスメートA君の側に立つ。A君が牛乳を口にふくんだ瞬間をねらって面白いことを言い、噴き出させる。前の男子の制服の背が一瞬にして真っ白になったっけ。冬には給食のパンを薪ストーブの上で焼いた、あの焦げた香り。今でもトーストは熱したフライパンでじゅっと焼く。あの経験がベースだ。

 高校生のときには弁当となった。母と祖母が毎朝用意してくれた。父の分、兄の分、私の分。それぞれに大きなアルミの弁当箱だったから、たくさんの米が必要だったろう。毎朝何合炊いていたのか。弁当は新聞紙に巻かれてカバンに。学校で開くとおかずの汁が垂れて教科書を濡らすことも。そんな話を前に暮しの手帖社でしたら、若い子たちが「新聞紙!?」と驚いたので驚いた。戦中の人を見るような目の子たちに、へえ、君たちのお弁当はそうじゃないのか。かわいそうになあ。弁当食べながら新聞も読めるのだよ。ちょっと前の記事だけどさ。

 育ち盛りの高校時代は始終ハラペコで、2限目の休み時間に必ず早弁した。ものの数分でがうがうがうと野犬のように食らいこむ。一瞬でなくなるので何を食べたのか少しも覚えていない。お昼には購買部に行って、パンを3個買って食べた。焼きそばパン、マカロニパン、菓子パン。コッペパンにマーガリンといちごジャムをべったりはさんだあれを、後に歌人の穂村弘は「ジャムガリン」って命名していたっけ。おいしいよね。お昼のジャムガリンに牛乳。いいね。

 大学時代のお昼は学生食堂の定食で、午前のフランス語の厳しい授業でぼろぼろになって一人、「B定食」なる90円のお値打ちセットを背中丸めて食べた私。遠目にクラスの憧れの女の子と談笑する先輩をにらみながら、コロッケをうどんに浮かべる。

 本の雑誌社で配本部隊なるアルバイトを始めたころは、信濃町駅前のお気に入りのパン屋〈アンデルセン〉のサンドイッチなんかを買って出社したものだ。群ようこさんが当時事務員でいつも話し相手になってくれた。ある日、イラストレーターの沢野ひとしさんが「おいしそうだねえ、一個おくれ」と私のパンをさっと取ってパクっと口に入れた。それを見た編集長の椎名誠が「こらサワノ、学生のパンを取るなあ!」とでかい声で怒ったのが怖かったものだ。「いいじゃんねえ、一個くらい」と沢野さん。よくない、と私は思った(けど黙っていた)。

 平凡出版(現マガジンハウス)に入ったら、社員食堂があった。ここは無料だったので驚いた。社員もフリーもバイトも出入りの業者もみんな無料、という太っ腹。創業者が「働く者みんなにお腹いっぱい食べさせる」と宣言したらしい。3種類あるメイン料理から一品を選び、ほかにお総菜、みそ汁がつく。デザートもあって「おひとつどうぞ」と手書き付き。ある時、怖く厳しいことで知られる役員にして編集長の女性Yが私の前にいてプリンを2個手にした。するとすかさず給仕のおばちゃんが「ひとりおひとつ!」と叱責。「えー、あたしプリン好きなのにー」と編集長。「役員なのにさー」と私に小声でもらしたひと言が可笑しかったなあ。上司も部下も同僚も学生も全く知らないおじさんも、食卓を囲んで、時に談笑、情報交換。よい仕組みだった。今もそうだったらよいな。

 さあさて、だがしかし。お昼ごはんの何に特別感があるといって「アルコールつきの時」のそれに優るものはないのである。お昼なのにビール。お昼なのにワイン。なんならシャンパーニュ。これです。外は明るい。青空が、太陽が、飲みなさいと言っている。ハイヌーンだ、真昼の決闘だ、とかうそぶきながら、たまに「ま、いっか」と自らを許す瞬間。あの一杯の高揚感よ。多少の罪悪感がまたおいしくしてくれるんだよねえ。

 こういうときの(当時の)マガジンハウス、つきあってくれるというか誘ってくる先輩はいっぱいいたなあ。「サワダくん、お昼行かない?」「行きます行きます」「社食じゃないとこ」「行きます」「何がいい?」「なんでも」「じゃイタリアンとか」「さんせー」。お店に着いて、ランチセットから一品チョイス、まだメニューにらむ先輩に気をつかって「あと、グラスワインとかですかね?」と言ってみると「サワダくん、だめだよ!」「白ですかね」「もちろんだねー」「午後は会議があるなあ」「1、2杯ならダイジョブだよ」......ってそんな感じだった。「1杯なら」じゃないところがいいのだ。そんなお昼もあった。けっこうあった。

 仕事の合間、お昼のアルコールは午後が眠くなるし、さらに会議とかは苦痛になる。本当に年々、歳とともにつらくなるんでオススメできないのだけれど(昼寝している人けっこういたなあ)、オフのとき、ヒマなとき、あるいは旅先でじっくりゆっくり楽しめるお昼は最高だ。

 最も心に残っているお昼は、ずっと昔、妻とイタリア旅行をしたとき。ミラノでのランチ。〈ペーパームーン〉というたぶん知っている人も多い有名な食堂で、アンティパストをセルフで天こ盛りに取って、私はというとハウスワインを堂々とボトルで頼みがぶがぶ飲んで2本目さえ飲む勢い。人気店なので満席なのだが、店員たちはきびきびとした動き、始終にこやかで、おすすめを身ぶり手ぶりで一生懸命説明してくれ、そのおすすめのどれもがとびきり美味しくて、しかもそんなに高くなく、妻が時おり言うところの「大満足ダヌキ」状態の私どもだったわけだけれど、そのときそれは起こった。

 私たちの席からちょっと離れたテーブル。地元のミラネーゼらしき男女4人の姿はどう見てもビジネスの合間のランチに見えるのだが、ワインをくいくい飲んでいる。そのうちの一人のおじさんがクスクス笑い始めたのだ。最初は小さな笑いだったものが、止まらず止められぬままやがてハハハ、ハハハがガハハ、ダッハハへとずっと続く。昔流行ったおもちゃの「笑い袋」を思っていただければよろしい。イタリアのゲラおじさんなんだろうけど、何が可笑しいのか、そもそもイタリア語だし、笑いの合間のごにゃごにゃ言葉では原因は全くわからない。ついには店内に響きわたる声でワーハッハ! おじさんは涙を流し、苦しそうにお腹を抱えて、ゼイゼイ、グワッハッハ......やがてその笑いが隣席のご婦人グループに、そのまた隣席のカップルにと伝播し、ついに私たちのテーブルにまでやってきて、全員がつられ笑い。店員も含めて、みんなが笑う、大合唱状態となったのである。見知らぬ者同士があんなに一つになってわけのわからぬことで笑ったことなんて最初で最後。

 今でも外で食べるお昼ごはんのとき、妻は「あのおじさんは何にあんなに笑ったんだろう?」といぶかしげに回想する。またあの場に行きたいね、と私たちはうなずき合う。

本上まなみさんによる
「お昼ごはん」はこちら

澤田 康彦

澤田 康彦
(さわだ・やすひこ)

1957年滋賀県生まれ。編集者・エッセイスト。1982〜2010年:マガジンハウスにて、「BRUTUS」「Tarzan」等を編集。2015〜2019年:「暮しの手帖」編集長。2020年より家族の住む京都に戻る。近年の編集本に「戦中・戦後の暮しの記録」(暮しの手帖社)、著書に「ばら色の京都 あま色の東京」(PHP研究所)、「短歌はじめました。」(穂村弘、東直子との共著、角川文庫)など。最新刊は「いくつもの空の下で」(京都新聞出版センター)。京都暮らしのお気に入りは、入山豆腐店の朝イチの豆乳、美山の由良川。

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