一泊なのにこの荷物!

第21回

寒っ

2021.12.15更新

 滋賀県の湖東地方が出身の私。生まれてから長いこと、冬というものは雪がぼたぼた降って、朝はつららがにょきにょき下がって、昼は道がじゅるじゅるになって、屋根から急にどさどさ落ちて、ってそういう季節と捉えていた。朝夕"底"からやってくる冷気、巨大な琵琶湖は荒れた恐ろしい"海"と化し、大陸からの突き刺すような北風が吹きつけてきて、晴れ間は少なく、どんよりと雲が低く垂れ込め、遊んでいてもすぐ暗くなり、友だちの家で遊んでいると「はよ帰り」と言われ、あかぎれ、しもやけにやられた指の痛さ、耳の熱さ、足先のかゆさに堪え忍ぶ日々。

 お出かけに向く季節ではない、というのが少年サワダの冬。

 まだ秋のうちから、祖母が火鉢や豆炭行火を用意、丹前を縫い直した。12月の駅前の売り出し「恵比寿講」には一年間裁縫の内職で貯めたお金で、かわいい孫の私に分厚い肌着、新しいジャンパーやら防寒帽を買ってくれた。この帽子は飛行帽のデザインで、耳まで覆って、ゴーグルのついているもの。とてもカッコいいのだった。この帽子をかぶるなり、少年は両腕を翼のように広げ、きーんと走り出す。飛行機乗りというより、飛行機であった。メッサーシュミット! とか叫んでいた(語感がいい)。友人たちもそれぞれ、シデンカイ! スピットファイア! とか。どの男子もみんなこの帽子をかぶり、ゴーグルをつけ、寒風に乗って冬空を飛んでいた。

 通学は、祖母が朝私の肌着の背中に真綿の生地を即席でぺたぺた貼り付け、その上からセーターをかぶせるという出で立ち。祖母は冬じゅう耳元で「さぶないか」「さぶいやろ」「もっと着ぃ」と繰り返した。「ヤスヒコは体が弱いさかい」と百回も二百回も言われたので本当に病弱になって毎週風邪をひいていた。すぐにおでこに手を当てられ、水銀の体温計は標準装備。36.8℃のあたりで焦った。洋服は何枚着せるねん、というくらい着せられ、背中の真綿は小2のときまではそんなもんかと思っていたが、誰もそんなことはしていなかったので次の冬からは遠慮するように。ただあれは確かに温かく、母などは今もあの昔ながらの柔らかで優れた素材を称賛する。「あんたが寝るときかぶってた掻巻の胸元も真綿やで。あったかいし、軽いし、ずれへんから最高なんや」。真綿が綿花ではなく蚕の繭からできていることを知ったのは大人になってからの「へえ!」の一つだ。

 ところで、そんなバカ息子の私は、進級するごとに、いかなる価値観か「薄着がカッコいい」と考えるようになった。背中の真綿などもっての外、長袖シャツ、パッチの類を避けた。Tシャツの上に学生服とか。コートもぺらぺらなほどよく、帽子もやめ、ぬかるみを行くのに必須の長靴も遠ざけ、しかるにズック靴はいつもべちゃべちゃ、凍るような冷たさで、しもやけに拍車がかかった。後年「おしゃれはがまん」と多くのセレブが口にするが、それを私は関西の片田舎の60〜70年代に実践していたわけだ。

 高校生。雪降りの朝、自転車はムリだと言われても聞かずに、駅に向かってわしわし漕ぎ出す。雪深い道路で、しだいに走行がおぼつかなくなり、タイヤもペダルも雪まみれで固まってきて、ぎこぎこぎこ、ぜいぜいぜい、ぎこ......ぼさっとスローモーションのように雪の中に倒れ込む。息が切れ、すぐに起きる力は出ず、そもそもそんなに学校に行きたいわけでもない。重い自転車、太った通学カバンとともに雪道に埋没したまま仰ぐ空からはさらに雪が落ちてきて、冷たいわ、びちょびちょだわ、凍えるわで、薄着・痩身(当時)の青年は「このまま眠ったら死ぬんかなあ」なんて考えた。今こうして五十年後に原稿が書けているのだから死んではいないのだが、あれからどう起き上がって積雪50センチの道を駅へたどり着き、電車に乗り、登校できたかの記憶、記録は一切ない。

 昔のわが地はこんなふうにかなり雪が降り、積もった。地元のじじばばも旧友も口を揃えてそう言う。琵琶湖東岸を走る国鉄(現JR)は、東海道本線を京都方面から大津、草津等を経て、安土を越えたあたりから雪の量が増える。私の町・能登川、さらに北へ向かえば高校のあった彦根、米原からは北陸本線となり、長浜、木之本を経て、県境を越え、敦賀、福井、金沢、富山、新潟へ。つまり本物の雪国へ。私の故郷はそのスタート地点のような気候だ。無論かまくらが作れるほどには積もらないが、橇や雪合戦には十分。適度な湿り気で質のいい雪玉を作れた。私は生涯何個作って、人に何個ぶつけて、何個ぶつけられてきたかな。今後も作って、ぶつけたいな。

 君も試しに京都から真冬、琵琶湖線鈍行に乗り、湖に沿って北東へ向かってみたまえ。もしそれが雪降りの日なら、劇的な空の変化を目にするだろう。

 寒くない、暗くない冬があることを知ったのは、1976年だ。進学で東京に出た18歳の私は、その年、一向に雪の降らない十二月に驚いた。どころかパキーンと晴れた青空、カラっと乾いたこの空気は、異国か! と。そのへんのことは「ひとり暮らし」の巻で詳しく書いた。待望の冬休み、明るい東京駅から新幹線に乗って、西へ、ふるさとへ。まだ何も功績をあげたわけではないのにどこか凱旋気分、錦を飾る気分で向かう。明るい東海の空、未来ある私.....。が、しかし、列車が関ヶ原を抜けるや、目前にでんとおそろしの伊吹山、どんよりした湖国の風景が広がったのだ。なんとまあ雪もご丁寧にちらつき始めたのだよ。速い列車だから、真横に流れて。こころなしか車窓も冷たくなり、ああぼくはここで穫れたんだ......とはっきり認識させられた瞬間だった。

 新幹線には以来もう数百回乗っている(表彰されたいくらい)。時は四十数年流れたが、冬場のこの感覚はいまも変わらない。ばかに明るい東京から長い長い静岡、もう一つの大都会名古屋、木曽川長良川揖斐川の木曽三川を経て山を越えれば、空がどんと重く低くなる。絵が変わる。冷え込む。風が強い。

 そうだ思い出した。私の父は、1980年3月米原駅で亡くなったのだった。前日出張で私の下宿に泊まり、翌日帰郷。糖尿による合併症で心臓を病んでいた父は、温かな新幹線からプラットホームに降り立ち、この地の激しい冷気に見舞われ、寒暖差に耐えられなかった。「最後に話したのが東京のあんたとは!」と母は何かの導きのようにいつも呟く。

 寒っ、というテーマで思いをめぐらすと、やっぱり生家の話となる。そしてなんだか暗く悲しげになる。それは北の国の音楽、グリークやシベリウス、チャイコフスキーやラフマニノフが暗いのと通底してるかな。って、そんなええもんちゃうか。あるいは北の国の映画、ベルイマンやラッセ・ハルストレム、タルコフスキーか。そんなええもんか。

 笑える話も書きたいが、「さぶっ」と言われるような言動はいつも書いてるしやってるし、それこそただ寒くなりそうだし。本上さんは『シックス・センス』思い出してたな。幽霊がざわつくと息が白くなる。『エクソシスト』がそのはしりだったかな。あの話は熱風のイラクから晩秋のワシントンD.C.の高級住宅地に一気に場面が飛び、寒い怖い部屋に悪魔が入るというのがいいんだよねえ。エレン・バースティンの吐く息は最高だった。映画にはそんな寒い場面、いっぱいあるな。いつかまとめてみたい。山の映画も、オバケ出なくても寒い怖いのがいっぱい。「天は我々を見放した」ってやつとかね。浅間山荘ものとか。『ひまわり』のロシア行軍も寒そうだったなあ。戦争は寒さ(や暑さ)との戦いでもあるな。満州からの逃避行やシベリア抑留はどれほどつらかったろう......って、また悲しくなるのが寒さの話。

 もうひとつ、悲しくならない寒い話を思い出した。初めての子が生まれたのは2006年年末。明けた正月三が日に退院となった。東京は暖かといっても、からっ風は冷たく、生まれたばかりの娘......首のすわっていない2600kg、ふにゃふにゃしわしわのマシュマロ、殻のない薄皮だけで包まれた卵みたいな、それでいてほっこりぬくい、少し蠢く生き物をどう運べばいいのか!? 私は大いに惑ったのであった。何枚の「おくるみ」で覆って守ってごつい自家用車でどう運べばよいのか? 昔運んだ子猫のときもドキドキしたけど、その比ではない。クリスタルの細いシャンパーニュグラスを運んだときも慎重だったけれど、あんなふうに緩衝材でぐるぐる巻きにはできないし。

 それでなくても急に父になり、途方に暮れていた私。妻と、妻の母と3人で、当該のこわれものを代わる代わる抱えて、病院の玄関から外に出る。北風が吹いてくる。「さぶっ」と妻。

 そう、新しい人よ、これを風と呼び、こういう時「さぶっ」と言い放つのだよ。と新しい父は思ったのだった。

 後にこの娘は、小学校の冬の賀茂川マラソン大会に出たとき、全然早く走ろうとせず、その理由を聞けば「早く走ると風が冷たくなるから」とうそぶく娘となった。「あたしは、さむ猫だからさ」

本上まなみさんによる
「寒っ」はこちら

澤田 康彦

澤田 康彦
(さわだ・やすひこ)

1957年滋賀県生まれ。編集者・エッセイスト。1982〜2010年:マガジンハウスにて、「BRUTUS」「Tarzan」等を編集。2015〜2019年:「暮しの手帖」編集長。2020年より家族の住む京都に戻る。近年の編集本に「戦中・戦後の暮しの記録」(暮しの手帖社)、著書に「ばら色の京都 あま色の東京」(PHP研究所)、「短歌はじめました。」(穂村弘、東直子との共著、角川文庫)など。最新刊は「いくつもの空の下で」(京都新聞出版センター)。京都暮らしのお気に入りは、入山豆腐店の朝イチの豆乳、美山の由良川。

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