第29回
本作り
2022.08.15更新
書物というのはシンプルな造りで、大きな紙の表裏にインキで文字や絵、写真を印刷し、折って束ねて1方を糊とかホチキスとかでくっつけて残り3方を裁断すると出来上がる。本を作りたいんですけど、雑誌をやりたいんですけど......といった若い人からの相談が編集者の私にはよく舞い込むが、まずこれを教えることにしている。もったいをつけているのではなくて、基本だから。
やってごらん、紙を1回折ったら4ページになるでしょ。2回で8ページ、3回で16ページで、これをひと折という。文章の文字数分、何折りか作って、くっつければできあがるわけ。そう、まずは算数と工作なのだ。アナログなのだ。インキも大事で、文章だけなら黒でよいけれど、カラーとなると黄赤青の三原色、これらを混ぜていろんな色彩を表現するわけで、化学なのだよ。言葉=国語が必要となるのはその先だ。いやその国語がですね...どう書けば...何を書けば...?
そんなん知らん。それは私が知りたいことだ。
書物にはもう一つの特徴があって、立ち上る匂い。新刊のあれ。子どもの頃、父が毎月買ってくれる小学館『少年少女世界の名作文学』シリーズ、新配本の函入り、本を引っ張り出したときにふわっと流れる薫風よ。配られたばかりの教科書の鼻をさすほどの薫香よ。あれに弱いのであった。新しい紙と、それに乗っかったばかりのインキの匂いに満ちた街の本屋は、物心つくころから聖域で、おもちゃ屋より洋服屋よりここにいることを好んだ。そう名づけられる前の「青木まりこ現象」(書店で大を催す現象)も確かにあった。文房具屋に惹かれたのも、ノートと鉛筆の匂いによるものだったろうな。
先日、彦根市に所用があって、高校の3年間通った町の〈ヨシダ書店〉を気まぐれで、数十年ぶりにおそるおそる訪ねてみたら、あった、ありました! 現在も営業中だ。佇まいも匂いも同じで、一瞬タイムスリップしたのかと思ったほどだ。なんならすみっこでは青年サワダが青白い顔で創元推理文庫を漁っているかもしれぬ。同店は売れない本も返品しない奇特な本屋というのが私の認識で、陽に灼けた本が多く、古書店の風情さえ漂っていた落ち着く店。今もさほど変わらないのがものすごくうれしい。当時、文庫のひと棚をでんと占拠していた早川SF文庫のエドガー・ライス・バローズ『ターザン』シリーズ全巻揃いの景色は忘れられない。いつも誰も買わぬままずっとあった。ついでに書くと『ペルシダー』と『火星』シリーズもあった。店主がバローズ好きだったのだろうか? 3年間ずっとあった。あれは卒業の年、買い占めるべきものだったな、と悔しく振り返る。後に私は『ターザン』という雑誌を作り、LAでバローズの孫や『ターザン』役者に会う羽目になるのだから。
ヨシダ書店の今は?...と見渡すと、奥の平台に雑誌『世界』のバックナンバーが何種類もずらりと並ぶ。中央の心地よさげなカウンター内に座るのは3代目か、店主らしき女性に聞くと「定期購読のお客さんが亡くなって」という説明だ。わかるようでわからない。岩波書店だから返本はきかないとしても、ここにこんなたくさん平置きするのはどういうわけだろう? いつか誰かが買うのだろうか? 採算合うのか? なんて、バローズ文庫のときもそう考えてたもので、余計なお世話というやつだ。
読む立場から、作る方への欲望が鎌首をもたげたのは、大学5年生、22歳のときに門を叩いた(正確には呼び鈴を押した)本の雑誌社がきっかけとなった。なんといってもここは「本」の雑誌。なんというストレートな社名だろう。場所は四谷三丁目交差点脇のペンシルビル。4階の事務所には歩いて上がる。4枚の畳を縦につなげたほどのウナギの寝床で、ここを若き日の椎名誠、目黒考二、沢野ひとしが出入りし、群ようこが事務員として守っていたのだ。小さくとも「本作ったる」の意気込みがあふれ出すような、まごうかたなき夢の王国だったのである。
「あーた写真撮れる?」と群さんはいちばんに聞いてきた。「撮れます」と即答した。カメラ持ってるもの。「目黒さん、この子、写真撮れるって」「あー、じゃあお願いしようか」。この出版社は来たばかりの学生に、社の最初の単行本の著者写真をまかせた。「ギャラは出ないけど、フィルム代は出すからね」と群さん。フィルム代は学生持ちではなくて、まあよかった。私は新宿駅東口のさくらやでコダックの白黒フィルム、トライX-400、36枚撮りを何本かおっかなびっくりで買って当日に臨んだ。書名は『マンガは世界三段跳び』。わけの分からないタイトルだなあと内心思った(し、今も思っている)が、学生の私は飯田耕一郎・有川優・亀和田武の3氏の鼎談光景に向けてこの角度でよいかななんて首ひねりつつシャッターを切った。頼りなかったろうなあ。後日群さんが「写ってたわよ、よかったよかった」と言った。本はあまり売れなかったみたいだが、それは私のせいではない。
バイトは助っ人と呼ばれた。何の助っ人かというと配本。取次を通さず、各書店と取引をする直販(直接販売)だったため、都内あちこちの書店を回る。2ヶ月に1度、『本の雑誌』の発売日に、配本部隊が地区ごとに分かれ、それぇと出動。担当の書店に着き「納品です」と言って、売れ残っていた何冊かを回収、新刊を何冊か置かせてもらう。それぞれの冊数を書き込んで、納品書、請求書に分けて......とするうちに店員さんが「あ、前の号も、3冊ほど置いといて」、「次のシーナさんの新刊まだかい?」なんて話が入り乱れてくるうちに数字がわからなくなるのがサワダ青年だった。用紙もなんだかどんどんぐしゃぐしゃになっていき、帰ると毎度群ようこさんに呆れられた。「だからね、あーたね」という姉さんの説明声が今も脳裏に響く。私はこういう商取引が苦手で、今やってもやっぱりぐしゃぐしゃになるにちがいない。
しかし配本部隊経験は楽しかった。何より大好きな本屋さん相手だからね。飯田橋の本屋だったか、待ち時間が長かったので、文庫を作家別、発行順に整理し直していったら店長に褒められた。「うちにおいで」とまで言われ、就職先の一つは確保した気分になった。乱雑となった本棚をきちんと片づけたい欲望は、今も常に襲いかかるのは、青木まりこ現象以上だ。
配本はイラストレーターの沢野ひとしさんが車提供兼ドライバー役を担うことがあり、彼はときおり曲がり角で「わああっ!」と叫んでハンドルから手を離しバンザイして、私を怯えさせた。青年が怯えるとさらに興奮して、カーブでは必ず「わあ」をやるのだった。私も「わああ」と言い続けた。
椎名さんはなにやらいつもとても落ち着かず、十分ほど滞在して、風のように出ていった。あんなに動き回る大人を初めて見た。でも出がけに「サワダ、怪しい探検隊に来いよ」と誘ってくれた。あとは説明せず消えてゆくのだった。目黒さんは、学生の私たちを付き合いよくしょっちゅう飲み屋に連れていってくれた。バイト代が払えないから、ということだが、絶対に飲み代の方が高くついたに違いない。
たった1年半ほどしかいなかったけれど、何より記憶に鮮明に残っているのは、彼らの個性と、それに憧れた若者の眼によるものだろう。24歳、2年後にマガジンハウスに入社する前に、本や雑誌についていろいろ学ばせてもらったけれど、一番の学びは、書きたいこと・伝えたいこと・いばれること...熱狂があれば、いいものができるという確信。狙った瞬間、望んだ瞬間、今すぐ書け、すぐ取材し、すぐ作れ。ということだ。技術はあとでついてくる。そんな価値観を学んだ。
そして、人に頼れ。分からないことがあっても、支えて、教えてくれるプロはいっぱいいる。デザイナー、写真家、編集者、印刷所......全員仲間で、本を作る人はだいたいにおいて、親切であること。変わり種もまた多し。
編集者、執筆者としての、へっぽこサワダ史は、プロに助けてもらい、紹介してもらうそれだったなと振り返る。
今夏、拙著の刊行記念に、生まれ育った滋賀の地元であることに甘え、「澤田康彦 青春コレクション」なる名の私物の展示を会期50日間で開催してもらう、という暴挙に出たのだが、展示物を鳥瞰すれば、私の作った本や雑誌、記事は、どこかで誰かに出会って、世話になり、世話したり、関係性の深まったのちに仕上がったものばかりだなとしみじみ思った。
たとえば『短歌はじめました。百万人の短歌入門』(2005年/角川文庫ソフィア)という文庫があって、今も版を重ねる有りがたい本なのだが、これを遡ってみる。
元の単行本は『短歌はプロに訊け!』(2000年/本の雑誌社)で、最初に原稿を見せた目黒考二さんが楽しんで、本にしてくれた。共著は、歌人の穂村弘さんと、穂村さんが「才人にして優しい人がいる」と紹介してくれた東直子さん。その穂村さんを「鋭くて面白い人がいる」と紹介してくれたのは、漫画家の故吉野朔実さん。あの頃は私が主宰をしていた「猫又」なるしろうと短歌結社で遊ぶ仲であり、プロに見てもらおうという流れとなったのだ。穂村さんと最初に会う夕べは、私が予約した銀座の天ぷら屋だったが、紹介者の吉野さんが遅れてきて、彼女はそれをとてもとても申し訳ながり、私たちのほうが恐縮したものだ。〆切りには絶対遅れない性格だからなあと私は感心した。そんな彼女をずっと前に紹介してくれたのは漫画家の玖保キリコ。彼女は今はロンドン在住だが、先日もうちに2泊、滋賀の母の家にも1泊した気のおけない友人であり、そもそも彼女と出会ったのは私が主宰をしていたブルータス座という六本木の映画館で、作家の中森明夫さんの紹介によるものだった。その中森氏とは『東京おとなクラブ』というミニコミ誌で......と出会いの物語は連綿と遡上できる。
この川の支流は何本もあって、たとえば私は玖保キリコさんと短編アニメ『シニカル・ヒステリー・アワー』を4本作ったり、吉野朔実さんには鈴木清順監督を紹介、画集に寄稿をお願いしたり、東直子さんの最初の小説は私が担当したものであったし、装画はある日漫画家の山上たつひこさんから激励で届いた"猫又"画であったし、あるいは短歌同人誌やブルータス座を通して知り合った人は大勢いて、また別の流れが生まれていったりするのである。
以上はあくまで、1冊の本を見たときの"川"の一例で、私の本がどうこうということではない、念のため。言いたいのは、あらゆる本にはそれぞれの流れ=出会いの歴史があるものということだ。
新しい本を手にするたび、私は少し匂いをくんくんと嗅ぎ、そして著者や編集者、これが1冊にまとまるまでの豊かな流れを想像する。
私の作った本も、ありきたりだが、関わった人たちに感謝しかない。編集者の財産は人、出会いがすべて......ありきたりだな。でも事実なのだ。本を作るたびに、足を向けて寝られない人が東西南北に増えていき、今や立って眠るしかなくなっている。