第3回
ギリギリのところで
2021.06.23更新
研究室でパソコンの画面を覗き込み、東京オリンピック・パラリンピック(以下東京五輪)に関連するニュースを追いかける日々が続いている。
僕が勤める大学では、対面授業は実技や演習などの限られた科目のみに限定され、講義の大半をオンラインで行っている。クラブ活動も、県の要請を受けて、全国大会を控えるなどの条件を満たした部のみ許可されているため、学生とはほとんど顔を合わさない。さらに教職員はテレワークと時間差勤務を実施しており、キャンパスには人気がなく閑散とした雰囲気が漂っている。
新型コロナウイルスの感染が広がる前は、キャンパス内を移動中に職場の同僚とすれ違うことも多く、よく立ち話をした。それがたとえ挨拶程度ではあっても、言葉を交わすだけでなんとなく気分が上向いたものだ。
話し終えてその場をあとにしながら、「なんか疲れてる様子だったな、そういえば最近子供が生まれたっていってたから子育てに忙しいのかな」とか、「とあるプロジェクトのリーダーを任されてるから、それでトラブルでもあったかな」などと気にかけたり、逆に「表情が明るかったし、なんかいいことでもあったんかな」と幸せのお裾分けをいただいたりと、立ち話後のそんな余韻が心を満たしてくれていたのだと思う。
もちろんいまでもオンライン会議などで定期的に顔を合わせてはいる。画面越しにではあるが、言葉を交わしてもいる。でもそこでは議題や報告などの「しなければならない話」に終始するので、どうしたって堅苦しさが漂う。それはそれで必要なことなのだけれど、でも人が心の深いところで求めているのは、さほど意味もなく「しなくてもよい話」なのではないだろうか。不要不急であるがゆえの豊かさなるものを、たぶん人は欲している。
会議などの公式な場での意味のある話と、アポもなくたまたまのタイミングでするさほど意味のない話の、どちらが心に安寧をもたらすかといえば後者だろう。だがいまは、偶発的に「しなくてもよい話」をする機会がほとんどない。なんとなく同僚とのあいだに心理的な隔たりが生まれつつあるような気がして、ちょっと寂しい。
キャンパスには学生も歩いていない。
グラウンドでクラブ活動に励む学生たちの姿をチラリ横目で見てその真剣な表情に励まされたり、響き渡るかけ声を耳にすればなんだか元気になる。楽しそうに話をしながらキャンパスを歩く学生たちの姿を見かけたときもそうだ。直接的に交流する対面授業がないことへの喪失感はもちろんだが、人が集まって賑わう光景がただそこにあるという間接的な交流がないことに、一抹の寂しさを感じてしまう。
学生とも教職員ともほぼ顔を合わさない日々を送るなかで、ひとり研究室にこもっていると、ふと自分を見失いそうになるときがある。いまも研究室でこの原稿を書いているのだが、パソコンの画面から目を離して窓の外に広がる雲ひとつない青空を眺めると、思わずため息がもれる。いつまでこの生活が続くのだろうかと、やり場のない気持ちがため息として漏れ出てくる。
いままで当たり前にそこにあったものが削ぎ落とされた無機質な日々は、心をだんだんと蝕んでゆくのかもしれない。つくづく人は、「他者とともにここにいる」という実感が必要なのだと思う。
そう物思いに耽っていた矢先、このコロナ禍で精神医療の訪問看護を行っている宮子あずさ氏の話を聴いた[1]。Youtubeで毎週火曜日に動画配信している『私たちが止めるしかない東京オリパラ〜女性たちの抗議リレー』にパネリストの一人として登壇した宮子氏は、長期にわたるステイホームがもたらすメンタルヘルスへの悪影響を懸念していた。
いま、アルコール依存症を抱える人たちは苦しみを抱えながら生活しているという。アルコール依存症は、同じ症状に苦しむ人たちが同じ空間に集う自助グループを通じた治療が不可欠なのに、それがままならないからだ。
さらに、このままステイホームが長期化すれば、あらたなアルコール依存症が増えるのではないかとも危惧している。国が飲食店にアルコールの提供をやめるよう要請していることから全体としての酒の流通量は減少しているものの、かえって飲酒をする人は増えているらしい。精神状態がよくないままでの飲酒だから依存症になりやすく、それが心配だと宮子氏はいう。
気のおけない仲間とおしゃべりしながら飲む楽しいお酒と、気持ちが落ち込みがちなままにひとり家で飲むお酒では、酔い方をはじめ心に与える影響が大きく異なるのは想像に難くない。現実逃避のお酒はストレス解消にはならず、むしろストレスを増す。そうした飲酒が続けばやがてアルコール依存症になりかねないという見立てにハッとする。
アルコール依存症のみならず、このコロナ禍で喘ぐ人たちと実際に接するなかで宮子氏は、つながりを求めるのが人間であり、膝を突き合わせなければ得られないものがあるという。気軽に人と会えないいま、実は至るところで精神的にギリギリのところで生活している人たちがたくさんいるのではないかと訴えかける。そういう人たちへの配慮がないまま東京五輪が開催に向けて突き進んでいることに、宮子氏は語気を強めて警鐘を鳴らしていた。
この宮子氏の「精神的にギリギリのところで生活をしている人たちがたくさんいる」という指摘を、僕たちは真摯に受け止めなければならないと思う。新型コロナウイルスの影響で失職した人や介護が必要な人、慢性的な疾患を抱える人、感染症で家族や親族を喪った人、また遠足や修学旅行が中止になるなど教育機会を失った子供、あるいは酒類の提供ができず十分な営業ができない飲食店経営者など挙げていけばキリがないが、「精神的にギリギリのところで生活している人たち」はいまこの瞬間も過度な緊張状態に置かれている。その程度は置かれた立場でさまざまだとしても、いまを生きるほとんどの人たちが精神的に追いつめられていることへの想像は、決して忘れてはならない。
と、ここまで書いてふと気づく。研究室で感傷的になっている僕もまた、そのひとりなのかもしれないと。なぜなら自分が「精神的にギリギリのところ」にいるのかどうかは、当の本人には把握しづらいからだ。
職も失っていないし、テレワークを実施するにあたって特段の障壁もない。自覚しているストレスといえば気軽に飲みにいけないことくらいで、側からみれば僕は恵まれた環境で生活できている一人だろう。そんな僕でさえ、先に述べたようにときおり心に隙間風が吹くごとく脱力感が襲う。僕以上に過酷な生活を強いられている人ならば、なおさらだ。
他者と「距離」を取り続ける生活が1年以上も続いていることの影響がゆっくりと、でも確実に僕たちひとりひとりの心を侵食しているのだろう。
当たり前だが、精神の状態は数値化も定量化もできない。見た目に元気を装うことで、その内実を覆い隠すことだってできる。確実にここにあるのにその実態が皆目掴めないのが精神である。そしてその限界は、いざ臨界点を超えたあとになってようやく自覚するに至る。精神を病んでしばらくたったあとに振り返り、あそこが限界だったと指し示すことでしか精神の臨界点はわからない。
「まだ大丈夫だ」と本人は思い込んでいてもなにかのきっかけでいともかんたんに崩れ落ちるのが精神だ。だから傍に立つ他者が声をかけたり、実際に手を差しのべたり、あるいは目端でさりげなく気にかけたりしながら、なんとか未然にその決壊を防ぐしかない。変化の予兆に素早く気づくこと。それが精神の病を避けるための、もっとも効果的で実用的な方法である。
このパンデミックのさなか、他者とともに過ごす時間や互いの存在に目配せする空間は明らかに目減りしている。それはとりもなおさず、社会における「人間的なセーフティネット」が機能不全に陥っていることを意味する。他者との交流が制限されるいまは、「助けてほしい」という無言の声が届かない、あるいはそれを聴き取れない情況にある。だからこそ1日でも早く新型コロナウイルスの感染拡大を抑え込まなければならない。
あいもかわらずIOC(国際オリンピック委員会)は開催ありきの姿勢を崩さず、「ギリギリのところで生活している人たち」の声に耳を傾けようともしない。国民ひとりひとりの精神をさらに疲弊させるような言動に終始している。蔑ろにされている「ギリギリのところで生活している人たち」のやり場のない鬱屈と怒りは、批判的なまなざしとして大会そのものに向いている。「絆を取り戻す」どころか、むしろあらたな分断を作り出してさえいる。社会とスポーツとのあいだに容易には埋めがたい深々とした溝を生み、日ごとにそれが深まりつつある。
社会的な交流を(自粛を強要するという不可思議な言い方で)禁じられた社会で喘ぐ「ギリギリのところで生活している人たち」を守るために、また社会とスポーツの溝をこれ以上深めないためにも、さらなる感染の拡大が確実視される東京五輪は中止する以外に選択肢はない。政府と東京都あるいはJOC(日本オリンピック委員会)と大会組織委員会には、IOCに唯々諾々と従うのをやめて大会中止の英断を下すよう心からお願いする。
※1『私たちが止めるしかない東京オリパラ〜女性たちの抗議リレー』 youtube動画 (2021年6月1日)